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一 異形襲来の夜

 親を亡くしたのはとおの頃だった。

「珠緒、逃げろ!」

「お父さま……でも……!」

「いけないわ、珠緒! こちらに来てはだめ!」

「お母さま!」

 両親は巨大な蜘蛛の巣に絡め取られ、屋敷の外壁に張り付けられていた。月明かりだけでも、洋装の父の引き裂かれた背広と、土の汚れと血が滲んでいるシャツが見えた。母もひどい身なりだった。着物の襟が胸元まで開き、はだけた裾からは襦袢どころか太ももまで露わになっている。二人とも乱れた髪の隙間から覗く目が涙に濡れて美しいほどに輝いていた。

 私は親の制止に従う気などなかった。

「いま助けるから!」

 駆け寄ろうとして足を踏み出した途端、派手に転んだ。妹の千花が私の着物の袂を掴んだまま声の限りに泣いていた。千花はまだ三つ。私よりずっとこの状況が恐ろしいはずだ。千花が泣いているのを見ていると、私まで泣けてきた。

「千花ちゃん、手を離して。お父さまとお母さまを助けなきゃ」

 千花を宥めながら立ち上がった時、バラバラと瓦が落ちてきた。

 見上げると、屋根の上に人よりも大きな蜘蛛が両親を目指してにじり寄ってくるところだった。

「やめて! 近づかないで!」

 蜘蛛の化け物が人の言葉を理解できるとは思えなかったが、叫ばずにはいられなかった。

 両親も蜘蛛の姿を認めると、意を決したようにこちらに向き直った。

「珠緒。よく聞け」

 父の声は、先ほどとは打って変わって落ち着いている。

「私たちはもうだめだ。時間がないから、泣いていないでよく聞きなさい。千花を連れて逃げるんだ」

「いやよ! お父さまとお母さまも一緒じゃなきゃいや!」

「珠緒、頼んだぞ」

「千花のこと、よろしくね……珠緒」

 蜘蛛が二人に覆い被さると同時に、父が叫んだ。

「行けっ! 行くんだ!」

 初めて聞く父の怒鳴り声に弾かれるようにして、私は千花の手を取り、両親に背を向けた。その瞬間、ぐちゃり、と耳にしたことのない音がした。

 千花が転んだ。泣き叫ぶ千花を抱き上げる。両親になにが起きたのかは考えないことにした。千花の目と耳を塞ぐように自分の胸に押し付けて道に飛び出す。

 町は暗い。日ごろは防犯と魔除けのためにそれぞれの門前に篝火が掲げられているはずだ。しかし今、篝火の多くは消されている。火を焚くための籠が地面に落ちていたり、籠を乗せておくための3本の脚が折られていたりする。灯りを嫌う異形のものらが火を消したのだろう。

 灯りが失われ町には異形のものが溢れ、人々が襲われている。頬や腹など柔らかい部分だけを食い散らかしているようだ。血のにおいが満ちていて気分が悪かったが、どうにか吐き気を堪えた。妹を抱いて逃げる中、吐いている場合ではなかった。

「よおし! お前ら、腹いっぱい食え!」

 道の真ん中で鬼が仁王立ちで叫んでいた。

 異形のものたちは軋むような鳴き声を発して散っていく。

 叫んだ鬼の後ろにもさまざまな鬼が控えている。鬼といっても額に生えているのは鹿のような大きなツノではなく、親指ほどの小さな突起だ。

 鬼の顔がこちらを向いた。あの仁王立ちで叫んだ鬼だ。

 思わず足を止めた。

 美しい。恐ろしさを感じるよりも先にそう思った。

 不揃いに肩まで伸びた黒髪は月明かりの下でも艶やかなのが見てとれて、目元が隠れるほど長い前髪が風に揺れる。そのたびに覗く赤い目は涼やかだ。黒い着物に黒い羽織り姿も似合っていて上品な印象さえ受ける。とても人を襲うようには見えない。

「おや。子供がいるね。これはご馳走だ」

 腕の中で千花が泣く。

 逃げなきゃ。そう思うのに赤い目に射抜かれて足がすくんで動かない。

 その時。鬼の背後から力強い靴音を響かせて軍隊がやってきた。

妖蟲ようむらを煽動している夜叉はお前だな!」

 目の前の鬼は夜叉というらしい。

 夜叉が軍服の男に注意を向けると、私の足は動いた。素早く細い路地へ入る。今になって歯がガチガチと鳴る。壁に身を隠しつつ、そっと覗き見ると、通りの真ん中で軍人たちと鬼たちが向かい合い、戦闘態勢に入っていた。

 上官と思しき男が右手を水平に伸ばす。

「構え!」

 横一列に並んだ軍人が一斉に小銃を構えた。

「撃て!」

 上官の合図で小銃が一斉に火を吹く。煙と砂埃が舞う。

 夜叉は倒れたかに思えた。しかし、煙が薄れていくと、寸分違わぬ位置に立っていた。俯いていた夜叉がゆっくりと顔を上げる。笑っていた。無傷なのを見せつけるかのように、緩慢な動作で羽織りの砂埃を払っている。

「効いてないだと? この化け物め! ――再び、構え!」

 ガチャリと音まで揃って小銃が構えられる。

 夜叉の仲間が色めき立つ。だが、夜叉は仲間たちに向かって首を横に振った。自分一人で応戦できると判断したようだ。

 夜叉はがわずかに腰を落とした。風が吹き抜ける。その瞬間、軍人は一気に薙ぎ倒されていた。

 なにが起こったのかわからなかった。

 上官らしき男が怒りに満ちた形相で立ち上がる。外套を脱ぎ捨てると、雄叫びを上げ、腰のサーベルを抜きざまに左下から右上に向けて切り上げた――はずだった。

 そこに立っていたのは夜叉の方だった。足元に軍服の男が倒れている。

 軍人でも敵わないんだ……。

 絶望と恐怖に襲われて、阿鼻叫喚と砂埃の中を私は必死で駆け抜けた。



「おい、大丈夫か? 生きているんだろうな?」

 肩を揺さぶられて初めて自分が眠っていたことに気が付いた。いや、気を失っていたのだろう。

 瞳に張り付いた瞼を剥がすようにして目を開けると、朝日を背にして野良着姿の中年の男女が心配そうな顔で覗き込んでいた。

 背を支えられながら重い体を起こして辺りを見渡す。山間の村のようだ。丸みを帯びたいくつもの低い山とその裾野に広がる田畑。

 見知らぬ土地だ。どこをどう逃げてきたのかわからない。

 千花が目覚める様子がないので焦ったが、顔を近づけると規則正しい寝息が聞こえたので、胸を撫で下ろした。

「お前さんら、その身なりからすると、いいとこの嬢さんだろう? どこから来なすった?」

 改めて自分たちの服装を見ると、汚れがひどいものの、上等な生地で作られたワンピースを着ており、目の前の二人の野良着とは明らかに差があった。

 町の名を告げると、二人は首を傾げた。

「そりゃどこの村だい?」

「村ではありません。帝都にある町です」

「帝都だあ? そんな遠くからどうしてまた。しかも子供だけで」

 千花はまだ眠っている。汚れた頬に涙の跡だけが白い肌を見せていた。

 珠緒は、目の前の夫婦らしき二人に昨晩のことを話した。帝都が異形のものたちに襲われたこと、自分たちの両親もきっと助からなかっただろうこと、両親に言われるままに逃げてきたこと。

「そりゃあ……なんと言っていいか……災難だったなぁ……」

「さぞ怖かっただろう。ひとまずうちにおいで」

 眠ったままの千花を男の背に預け、私は女に手を引かれて畦道を歩いた。

 そうしてそのまま私たちは紅里野くりの村で暮らし始めたのだった。





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