6 なにが起こったの?
「……う、ん……?」
ゆっくりと目を開けると、見知らぬ天井が目に入り瞬きを繰り返す。
「……こ、こ……は?」
「――目が覚めた?」
聞き慣れた品のある穏やかな声が耳に届いたので、そちらへと視線を向ける。
「……アデル、くん?」
「うん、おはよう。……って、まだ真夜中なんだけどね。ここは僕の家だよ。ララ姉さんも、ここに来るのは初めてだよね」
ふふっと楽しそうに笑うアデルくん。だが纏っている空気がいつもと違っていて、思わず眉を顰めてしまう。
「誰もこの家には入れたことがないんだ。姉さんが初めて」
うっそりと微笑むアデルくんを見て、ようやく意識がハッキリしてくる。
「――っ、お菓子! 魔力! 魂を縛るってなに!?」
勢いよく問いかける私に、アデルくんは物怖じることなく口を開く。
「ああ。思い出してくれた? 言葉の通りだよ。僕の魔力を込めたお菓子を、姉さんに少しずつ食べさせていたんだ。姉さんの魂を縛るために魔力を与えていたんだよ。――見て、これ」
アデルくんが、べっと舌を出すと、そこには複雑な刻印があった。
「同じのが姉さんの魂に刻まれてるんだ。肉眼では見えないけどね」
……意味が分からない。
「な、なんでそんなことを……? 私なんかの魂を縛って、いったい何がしたいの……?」
私の言葉に、アデルくんはゆっくりと首を傾けると目を三日月に細める。さらりと流れる白金の髪が月明かりにきらめいていて、この世のものとは思えないような美しさにゾクリと背中が震える。
「――ララ姉さん。このあいだ僕に、欲しいものはあるか聞いてくれたよね?」
「……え?」
そういえば、誕生日が近いから何か欲しいものはないかと尋ねたことを思い出す。
「あるよ。どうしても、欲しいもの」
アデルくんが私の手をするりと取ると、柔く握りしめてくる。
「姉さんだよ。ずっとずっと……姉さんが欲しかったんだ」
思いもよらない言葉に、私は大きく目を見開く。
「……アデル、くん……」
(――欲しいって、どういうこと? 欲しいから魂を縛る……? 私の魂が欲しいって解釈で合っているのかしら……? でも……何のために? アデルくんにとって、価値があるものなの? 何かの儀式に使う……とか? ど、どうしよう……わけが分からないわ……)
混乱していると、アデルくんは小さく笑ってから「少しだけ僕の話をしてもいい?」と問いかけてきたので、私は静かに頷いた。
「――僕はね、妖精族と人間の間に生まれた子供なんだ。あるとき、人間に誘拐されてね。見せ物のような扱いを受けていたところを、ロアン伯爵……ララ姉さんのお祖父様に助けてもらったんだよ。表向きは僕の才能に惚れ込んだってことになっていたけど、本当は僕を逃がすために匿ってくれていたんだ」
アデルくんが妖精族と人間の間に生まれた子……? 初めて知る事実に呆然とする。
……誘拐、見せ物……酷い言葉に眉を顰めていると、私の眉間をアデルくんが人差し指で優しく撫でてきたので、少し驚いてしまう。
「ロアン伯爵は、僕に必要な教育と環境を与えてくれて……今でも、とても感謝しているよ」
軽く目を伏せたアデルくんが話しを続ける。
「――でも当時の僕は、人間が嫌いで疎ましくて……そんな中で、ララ姉さんは懸命に僕に寄り添ってくれた。美しい景色を見せてくれて、美味しい食べ物を共有してくれて、繊細な文学を学ばせてくれた。……僕を笑顔にしようと頑張ってくれていた姉さんの気持ちは、いつだって届いていたよ」
「……アデルくん」
私が彼のためにしてきた行動を、こんなふうに受け止めてくれていたなんて……。心がほわりと温かくなる。
「体調を崩したときも、眠れない夜も……いつだって僕と一緒に居てくれた。――これが、どれほど嬉しかったか分かる? どれだけ救われたか、分かる? 姉さんのためなら、何だってできると思った。姉さんが望むのなら、今すぐにでもあの月を奪ってくるし、世界を滅ぼしたいのなら喜んで一緒に壊すよ」
アデルくんの言葉に、ゴクリと喉を鳴らす。彼の強い感情に呑まれそうになる。
「魔術学院も、姉さんのために行くことを決めたんだ。この世界で姉さんと生きていくために必要な物は全部揃えておこうと思って」
そんなことを考えていてくれたんだと、少し驚いて息を漏らす。
「……でもさぁ」
話の途中で声のトーンが変わり、どくりと胸が跳ねた。
「僕が学院に通っている間に婚約者がいたなんて聞かされて。本当に驚いたよ。しかも浮気するようなクズ」
ははっ、と不快そうに笑うアデルくん。
纏っている空気がいつもの彼と違いすぎて、私は思わず自分の腕を抱きしめてしまう。
「クズの次はモラハラ。その次は情緒不安定な癇癪持ち……最悪すぎる……ほんと、吐き気がする……」
はっと忌々しそうに、アデルくんが息を吐く。
「――婚約者ができたと聞いたときには、諦めるべきなんだって思ったよ。姉さんが幸せなら受け入れるべきだって……でも、あんなクズ共に姉さんを取られるくらいなら僕のものにしようって決めたんだ」
私と目を合わせて、にんまりと笑うアデルくん。彼の手が私の手を取り、柔く握りしめる。
「――好きだよ、ララ姉さん。世界でたった一人の愛しい人……」
(……好き?)
アデルくんが? 私のことを?
驚いて、彼の夕凪のような瞳をまじまじと見つめる。
(そっか……だから、こんなことを……)
言葉にされたことで、私の中でようやく腑に落ちた。
「だから、姉さんの魂を縛っちゃった。ごめんね? でも……これで、もう僕から逃げられないね?」
あははと、笑うアデルくん。けど、どこか寂しそうで、苦しそうで……見ている私のほうが辛くなってしまう。
私は、小さく深呼吸してから目を閉じる。
(――アデルくん……アデル・ルクレール)
幼い頃うちにやって来た、綺麗な男の子。私にとって、弟のような存在。
彼が幸せなら私も幸せだと……ずっと笑顔でいてほしいと願ってきた。
そんな彼が魔術学院に行くって聞いたときは、酷く驚いた。まだ10歳なのに、なんで離れて行くんだろうって……。
笑顔で見送ったけど、彼がいなくなった日の夜は、部屋でひっそりと泣き続けたことを覚えている。
彼が学院の長期休暇中に帰って来てくれるのが、待ち遠しくて仕方なかった。
卒業後も頻繁に魔術塔に行っては、愚痴を聞いてもらったり、世間話をしたり。一緒に本を読んだり、美味しいものを食べたり……いつも楽しい時間を過ごさせてもらっていた。控えなきゃなんて思っていたくせに、結局は行ってしまった自分がいて……。
(――アデルくんは、いつだって私の絶対的な味方でいてくれた)
私は、彼のことをどう思っているのだろう。
……可愛い弟? それは、そう。同然ね。世界一の弟だわ。じゃあ、一人の男性としては、どうなのかしら?
美しい容姿に、超一流の魔術師。性格だって、優しくて温厚……あれ? でも、もしかして猫被ってた? けど……どんなことがあろうと、この子は私に対して優しく紳士的でいてくれるはずだわ。
アデルくんが私に酷い言葉を投げつけたり、浮気をしたり、私以外の誰かを優先するなんてこと、全く想像が付かない。
(――私は彼に、この上ないほど大事にされてきたのね)
今更、こんなことに気付くなんて……。ふっ、と自嘲気味に笑う。
もし、アデルくんが他の人とお付きしたら? 婚約したら? 私は、どう思うのかしら。
考えたことももなかったなぁと、今更ながらに思う。
あんなにも、女性たちから迫られている彼を見てきたのに……。
――目を閉じて想像する。
アデルくんが、他の誰かといるところを。楽しそうに話をしているところ……その誰かと笑っているところを。……彼女の肩を抱いていて、口付けを……
――その瞬間、どろりとした感情が私の中を支配する。
自分の中に、こんな感情があったのだと少し不思議な気持ちなってしまった。
これは、嫉妬? 独占欲?
分からないけど、他の女性と一緒にいるアデルくんを想像すると胸が苦しくなる。
私は口角を上げると、眉を下げて笑っているアデルくんに手を伸ばし、そのまま掌で彼の両頬を包み込んだ。
「……姉、さん?」
「アデルくん。舌、見せて」
「……え? ……いい、けど……」
驚きながらも、舌を出すアデルくん。彼の舌に描かれている複雑な刻印をじっと見つめる。
「……痛くは、ないの?」
「うん、平気だよ」
「……そう。でも、こんなことしなくても私は逃げないし、言ってくれれば魂ごとあなたにあげたのに」
私の言葉に、アデルくんが大きく目を見開く。
「…………い、ま、なんて……?」
「私の魂ごと、全部あなたにあげるって言ったのよ」
正直なところ、この感情が恋というものなのかは分からない。これまで誰かに対して、そんな感情を抱いたこともなかったし……。
でも……アデルくんが誰かに惹かれたり、知らない女性と仲睦まじげなところを想像すると、モヤモヤした気持ちになる。
(――知らなかっただけで、私もヤキモチ妬きなのかもしれない)
彼にはずっと笑っててほしいし、幸せでいてほしい。それが私と一緒にいることで叶うのなら、至上の喜びだ。
「……い、いいの……? 怒らないの? 勝手に、こんなことをしたのに……」
震えているアデルくんの手を取って、私は微笑む。
「いいよ。それだけ、私のことが好きで好きで仕方がないってことなんでしょう? だったら、受け入れるわ。そのくらいの覚悟はあるつもりよ」
アデルくんは、あっ……と声を漏らすと静かに唇を結んだ。
「……っ……本当は怖かったんだ……こんなことして、嫌われたらって……でも、そのときは来世でもその次でもいいから、いつか……あなたに好きになってもらえたって……そう思って……」
「……アデルくん」
「姉さ……ララティナさん。抱きしめてもいい?」
「いいよ。――おいで」
私は手を広げて彼を招くと、力強く抱きしめられた。アデルくんのひんやりとした身体が少し震えていることに気付いて、優しく背中を撫でる。
暫くそうしていると、アデルくんの緊張が抜けていくのを感じで、小さく笑う。
笑った私を見て、彼の目がとろりと細くなる。
「ねぇ……ララティナさん。――キスしてもいい?」
「き、キス!?」
抱きしめるくらいなら、全然かまわないけど……。き、キスはどうなのかな……は、早すぎないかしら……?
「だめ?」
アデルくんが震える子猫のような目で私を見つめてくる……。なにその、可愛い顔? ずるいでしょ……。くっと唇を噛み締めてから口を開く。
「……っ……だ、ダメじゃないけど……」
私の返事に、アデルくんは淡い笑みを浮かべる。
「じゃあ、するね」
「……んっ……」
頬を両手で包み込まれると、柔らかな唇が落ちてきた。
何度も何度も優しく口付けられる。ちゅっという音が何だか恥ずかしくてぎゅっと目を閉じていると、アデルくんの唇が離れてゆくのを感じて、私はほっと息を吐く。
だが、熱くなったアデルくんの唇が今度は私の首筋に吸い付いてきた。
「……っ……!」
ぢゅっと強く音を立てると、ゆっくりと離れていく。
「……あはっ、ごめんね? 我慢できなかったや……ふふっ……」
アデルくんは楽しそうに笑うと、私を引き寄せて胸の中へと閉じ込める。
「愛してる、ララティナさん。一生……ううん、来世もその次も……ずっと僕と一緒にいてください」
彼の胸の中で小さく笑うと、静かに頷いた。
「――ええ。ずっとずっと……どこまでも、一緒にいましょう」
――泣きそうに瞳を歪めるアデルくんを見て、今度は私から唇を重ねた。




