1 一人目の恐怖
「――ララティナじゃないか?」
図書館からの帰り道。石畳に足音が反響する静かな通りで、突然名前を呼ばれたので振り返ると、見知らぬ男性がいた。
「久しぶりだな! 元気にしていたか?」
えーっと、誰でしたっけ? 何となく見覚えはあるのだが……と眉を顰めていると、目の前の男性が慌てた様子を見せる。
「俺だよ、俺っ! オスカーだよ!!」
(オスカー? オスカー……)
あ〜! 思い出した! この軽薄そうな顔! 私という婚約者がいながら、浮気しまくってたクズ!! 確か、一番最初の婚約者だったはず。
この世にいる絶対に会いたくない人間の一人に声を掛けられて、嫌悪感でいっぱいになる。
「うっわ……。お久しぶりですぅ」
「そんな、あからさまな嫌がり方ある? ……いやまあ、俺も悪かったけどさぁ……」
唇を尖らせて、何かぶつぶつ言っているオスカー様。
「……用がないのでしたら、失礼しますね」
「待って待って待って!?」
立ち去ろうとすると呼び止められたので、仕方なく視線を向ける。
「……あ、あのさ、ララティナ。俺たち、やり直せないかな?」
「……はあ?」
有り得ない提案に、私は思いきり顔を歪めた。
「いや。あの頃はさ、いろんな子と遊んでおきたいなぁって思わず……その……魔が差したというか……ね?」
ね? じゃないでしょうよ。私がどんな思いでいたかも知らず、よくもまあ恥ずかしげもなくこんなことを言えたものだと、口を開こうとしたのだが――。
「やっばり俺には君が必要だし、君にも俺が必要だと思うんだ! 運命の相手っていうのかな? 結婚するなら、君のような真面目でしっかりした子がいい! あ、返事は急いでないから! また会いに行くよ、じゃあね!」
「はああ!? ちょっ……!!」
一方的にまくし立てて、去って行くオスカー様。彼の身勝手さに呆然とする。
相変わらず自己中な人だ。私のことなんて何も考えていない。
前述の通り、オスカー様は私の最初の婚約者だった。緩やかに波打つオレンジがかった金色の髪に、やや吊りり上がった眉毛と目尻の下がった子犬のような瞳。体格が良くて、それはそれは女性におモテになる方だった。
だが初対面の際に、異常に緊張していた私を見て――。
「へぇ。君が婚約者? ……なんか、味気無い子だね」
(……味気無いって、なに??)
緊張と高揚。初めてお会いする婚約者様。
どんな方かしら。上手くやっていけるかしら。素敵な方だといいなぁ……まだ見ぬ彼に思いを馳せていた乙女な自分が、一気に崩れ落ちていった。
――その後、彼は隠すことなく浮気という浮気を繰り返した。酷い時は同時に八人くらい浮気相手がいたらしい。
このことが表沙汰になり、エグい修羅場が大勃発。女性たちを集めて話し合いの場が設けられたが、何を考えているのかあのクズは逃げ出しやがりました。
仕方なく私が対応したのだが、まあ酷いものであった。婚約者である私にも、暴言、罵倒、侮辱の嵐。しかも、浮気相手のうちの二人に平手打ちをされるという有様。
あまりの酷さに父の怒りを買い、婚約は破談となった。
――あんなことを仕出かしておいて、やり直さないかですって? よくそんなことが言えるものだと怒りを覚える。
私は自分を落ち着かせるために深呼吸をすると、借りた本をぎゅっと握りしめながら帰路に着くのだった。
◇
――翌日。
「酷すぎるよね!? オスカー様と平手打ちしてきたバカ女たちには、慰謝料を請求したけど、あの程度で済ますんじゃなかった……! まさか、復縁なんてバカなことを言われるなんて……!」
「へぇ……姉さんから聞かせてもらった、あの色情魔……よくララ姉さんに声を掛けられたものだね、図々しい。……大変だったね。――あ、紅茶のおかわりは必要?」
「……いただきます」
私は、王宮の端にある魔術塔の一室に訪れていた。
室内には、壁一面に本棚があり、大きな窓からは柔らかな木漏れ日が差し込んでいる。心地良い空気と本の匂い……ここは私にとって、最高に癒される空間であった。
カップの中に琥珀色の温かなお茶が注がれて、お礼を伝えると目の前の美しい青年がにこりと微笑む。
――この部屋の主である、アデルくんだ。
妖精の光を集めたような白金色の髪の毛に、長いまつ毛に縁取られた夕凪のような瞳。スラリとした肢体に、長い手足を持つ超絶美男子。誰もが憧れる、美貌の宮廷魔術師様。
そんなアデルくんだが、彼は私にとって弟のような存在であった。
家庭の事情で、幼い頃にうちの屋敷に来たアデルくん。祖父が彼の才能に惚れ込んで、援助をしていたので、その繋がりで暫くのあいだ引き取ることになったのだ。
幼い頃から天才と持て囃され、誰もが一目置いていた少年。
だが当の本人は、いつも暗い顔をしていた。どこか寂しそうで、警戒心も強く……まるで手負いの猫のようであった。私は、そんな彼をどうにか笑顔にしたいと思って、いろんな場所へと連れて行った。
行った先々で美味しいものを食べたり、一緒に綺麗な物や景色を見たり――。
彼が体調を崩せば、使用人ではなく私が付きっきりで面倒を見たり、眠れない夜は読み聞かせをして一緒に眠ることもあった。
そうして過ごしているうちに、アデルくんは笑顔を見せてくれるようになった。
それが、すごく嬉しくて。この先もずっと、この子の笑った顔をみていたいと思っていたのに、彼は飛び級で全寮制の王立魔術学院へと入学してしまって……。
寂しかったけど、今でも時折帰って来てくれているし……何より、今は卒業して立派な魔術師として活躍していた。この場所は、そんな彼に与えられた場所であった。
私は度々訪れては、先ほどのように愚痴を聞いて貰ったり、差し入れを持って来たりしている。
何かある度に……いや、何もなくても頻繁に私はこの場所に足を運んでいた。
(居心地が良くて、つい寄っちゃうんだよね……)
ふっと息を吐くと、アデルくんが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「――大丈夫、姉さん? いっそのこと、そいつ殺しちゃう? 確かこの禁書に48時間もがき苦しんだあと、全身が腐り落ちて死んでいくっていう呪術が……」
「そ、それは大丈夫だから仕舞って!? ごめんね、つまんないこと聞かせちゃって……」
「……姉さん」
慌てる私を見て、アデルくんは禁書を閉じたあと、小さな瓶の中に入っていた可愛いらしいキャンディーを差し出してくれる。
「――よかったら、どうぞ。少しは気が紛れると思うよ」
「わあ、可愛い。いただきます」
キラキラとした包みを開き、透き通った赤紫色のキャンディーを口に含むと、優しい甘さが口内に広がる。
暫くすると、パチパチと弾けてゆっくりと溶けていった。
「ん〜美味しい! 食感も楽しい!」
「ふふ。お気に召したようで良かった。そのキャンディー、ララ姉さんをイメージして作った物なんだ」
「私を?」
確かに、あの赤紫は私の目の色によく似ていたかもしれない――。
(……私をイメージかぁ)
あんな素敵なキャンディーが、自分をイメージした物だなんて……自然と口角が上がるのを感じる。
何より、アデルくんが私のことを考えて作ってくれたなんて凄く嬉しい。
「ありがとう、アデルくん。お陰で元気になったわ!」
「そう? ララ姉さんの心が少しでも軽くなったのなら嬉しいな」
「ええ!」
何度もお礼を伝えると、私は魔術塔を後にした。
◇
――それから数日が過ぎた頃。
アデルくんに元気をもらったことで、オスカー様のことなんて早く忘れようと、街に買い物に来ていたとき……。
「――ララティナじゃないか?」
声を掛けられたので振り返ると、そこにいたのは――。




