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むかしばなし

 鬼火は、燃えさしの藍を纏って貧民街に降りた。

 煤に塗れた路地の奥、雨漏りする長屋の一室で、八歳の少年は縄を編んでいた。藁屑を撚り、結び目を確かめる指は幼く、しかし逡巡はなかった。


『なにしてるの?』

「だ、だれ?」


 少年の瞳が、青い炎に映されて大きく開いた。


『私は鬼火だよ。きみは?』

「あさ」


『あさはどうして泣いてるの?』

「今日、死ななくちゃ、いけないから……」


『どうして死ななくちゃいけないの?』

「おばあちゃんと妹が治らない病気になっちゃったから、村の人に、閉じ込められたんだ。明日、家に火をつけるから、苦しみたくなかったら……首を縄でくくって死ねって……」


『ひどいやつらだ。こんなところ、逃げればいいじゃないか』

「逃げるって、どこに?」


『おばあさんは歩けるの?』

「うん、少しだけ」


『じゃあ、君がそのカラダ、かしてよ。大人になったら、返してあげる』

「妹も、おばあちゃんも、助かる?」

『うん。ぜったいに助ける』


 ***


 暖麻の店は、昼の陽射しが差し込む木造の建物の中に、淡い香りと、指先が筋を辿る確かな手の動きが店内に満ちていた。十二歳の若い主人の手は小さいが、的確に筋を捉え、訪れる客を自然と安心させる。今日は特に混んでおり、店の外には長い行列ができていた。遠くの国からやってきた人々の姿もちらほら見える。

 そこへ、噂を聞きつけた一人の高貴なお方がやってきた。彼はゆっくりと歩きながら、足を引きずっている。その姿勢から、長く苦痛を抱えてきたことが想像できた。


「頼めるか」

「うーん」


 暖麻は一瞥をくれるだけで、状況を把握した。彼の足は確かに重症だ。


「どうした? そんなに私の足はひどいか」

「ええ、ひどいものです。三月(みつき)は毎日施術しないことには、治りそうにありません」

「なんと! この足が治ると?」


「ええ。背骨周辺をしっかりほぐせば」

「悪いのは足の方なのだが」


「背骨あたりの”気”のつまりをなくせば、歩けるようになりますよ」


 言葉に力を込める暖麻の手つきは、自信と誠実さに満ちていた。背骨を支えるように指を置くたび、患者の体の中で詰まっていたものが少しずつ解きほぐされていくのがわかる。


「……君、名前はなんという?」

「暖麻! 良い名前でしょ!」


 その瞬間、暖麻の笑顔が柔らかく店内に広がる。少年の無邪気さに、患者の表情もほぐれ、心が軽くなるようだった。

 三月(みつき)後、謝はついに自分の足を自由に動かせるようになった。


「右足が前に出る! いったい、どんな術を?」

「術なんて使ってませんよ。自己治癒力を上げているだけです。書にものっているようなことを、そのままやっているにすぎません」

「その書はどこに?」

「あ~。すみません、金に困っていた時に売りはらってしまいまして……」


 謝は少し驚いた表情を見せたが、すぐにその腕前に感心したようにうなずく。


「ふむ。君の技術は素晴らしい。後宮で働いてみないか」

「後宮? でも、男は入れないんでしょ?」

「宦官になる覚悟があれば入れる」


「か、宦官って……じょ、冗談! 僕はずっとここで暮らしていきます。さ、さ、治ったのでもう来なくていいですよ、帰って養生してください!」


 暖麻は必死に説明し、謝を押しやる。少年らしい必死さと純粋な正義感が、押しつけがましくなく現れる瞬間だった。

 その時、店の外で騒ぎが起きているのに気がついた。鉄の棒を振り回した大男に追われる妹と幼馴染の姿。


安柔(あんじゅう)(れつ)! なんで追われてるんだっ?」


 妹は涙を流してうまく説明できず、烈は息を切らして答える。


「この、大男の乗ってた牛馬、俺と安柔が走って路を横切った時に転倒しちまったんだ。牛馬には相当高いもんを積んでいたらしい。商品が駄目んなったからって、この男が安柔を妓楼に売ってやるって言うんだ。逃げるしかないだろ」


 暖麻は状況を理解し、胸が痛む。助けたい気持ちと、目の前の現実の大きさが混ざり合う。


「いくらですかっ? 支払いますので、どうか妹と友人を許してください」


 烈は深く頭を下げ、懇願する。男が提示した金額は破格で、彼らの一生では返しきれない額だった。

 その時、一人の高身長の男が暖麻の前に立ちはだかった。


「私が立て替える、というのはどうでしょう?」


 謝は振り返る。その眼差しは真剣で、暖麻の決意を試すようでもあった。


「前払いとしよう。君が宦官となり、後宮で身を粉にして働くという約束が条件だ」


 暖麻は覚悟を決め、静かにうなずく。


「なります。宦官に」

「暖麻!」

「お兄ちゃん!」


 烈と安柔に両腕を掴まれた暖麻は、やんわりと手を離し、謝の方へと一歩前に出る。


「よろしくお願いします」


 腰にぶら下げた袋を抑え、心の中で暖麻は「ごめん、君の体、傷つける」と謝った。

 袋に入った蛍のような灯りは返事をするように、一瞬だけゆらりと揺れた。



 ***



 後宮に入って驚いたことはいくつかあった。その中でも最も大きかったのは皇帝の顔が、近所に住む大工屋の幼馴染と瓜二つだったこと。そして―――。


「烈が武官として入ってきて、(イン)が前皇帝の息子だったことだよね」


 暖麻の横で、烈が小さく頷く。現皇帝、秦 承(しん しょう)。幼名は(いん)。彼は前皇帝の正真正銘の嫡子だったのだ。

 暖麻が雇っていた美人の女、すなわち允の母親は前皇帝のお手付き女官であった。一度皇帝と関係を持った女はそう簡単には外へ出られないはずだったが、さまざまな事情が重なり、後宮から脱出できたという。


「うむ。余も人生で一番驚いたことの一つだ」

「俺もだ。あ。茶柱」


 ズズズゥ~と三人は背を丸め、温かい茶をすすった。帝の執務室は格子窓から昼の光が斜めに差し込み、朱塗りの机や書類棚が整然と並ぶ落ち着いた空間だった。重厚な木の床に、座布団を敷いた低い座卓が置かれ、その上に湯気を立てる茶碗が三つ並ぶ。壁には巻物や筆掛けが飾られ、香炉から立ち上る煙が静かに宙を漂う。


 帝の希望で、三人でいるときは幼名で呼び合い、ため口で話すこととなっている。そのおかげで、どこか気軽な時間が生まれていた。今日の話題は人生で一番驚いたことだ。いつものように、帝の提案による小さな遊戯のような会である。


「最後は沈武官の番だぞ」

「俺だって、一番驚いたのは允が皇帝のご子息様だったってことだよ」

「同じのはダメだ」


「っち、なら……ああそうだ。女官に元くの一だった奴がいるんだ。そいつの動きは、見ものだった」

「ふむ、なら明日一緒に見に行こう。暖麻も一緒だぞ」

「明日はあなたの御子様たちに按摩をするという、大切な仕事が」

「そんなのは後日でいいだろう。余が指示しておく。そうだな、明日正午にここに集合ということで」


 その横暴さに、暖麻は小さく溜息を吐いた。だが、背筋を伸ばして礼をし、約束の時間を心に刻む。


 こうして、明日は後宮で動きが俊敏な女官を訪ね、彼女の動きを間近で目にすることとなったのだった。



 <続く>


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