眼精疲労はこうすれば治りますよ
暖麻は四、五歳の皇子たちと、いくつもの味付け卵を試食していた。
先日、暇を持て余す三人のわんぱく皇子の世話を仰せつかった暖麻はやんごとなきお子様たちと味付け卵を作るという遊びに興じていた。
今日は待ちに待った実験結果の日。果たして全て美味しくできているのか。
皇子の中で一番背の高い幼児が、真っ先に酢卵を手に取り、ニオイの感想を述べた。
「生姜醤油卵に五香卵に茶葉卵! ぜんぶ美味しいね。酢卵はどうかな? うわっくっさー!」
そのまま食べようとするのを、暖麻が止める。
「先に食医と私が味見しますから。お待ちください」
三人の妃は数尺離れた場所で和やかにお茶会を楽しんでいる。たまに暖麻たちを見て、扇で口元を隠し、クスクスとおさえきれない笑いをこらえていた。
暖麻は一応妃たちの反応を見る。酢卵も食べさせてもいいかと。妃たちはコクリと優しい頷きを返してくれた。
暖麻の隣には食医がいた。彼もまた、妃の信頼を得ている高官であった。その医官が、暖麻の方を見て、溜息をついてから嫌々ながら輪切りの卵を口元へと放り込んだ。
「ブヘェッ くさ! 不味ぅ! っぺ、っぺ! これは食べてはいけません!」
三人の皇子たちは食医の反応に一斉に笑った。
「そんなはずは。飲膳正要通りにつくったはずですよ」
暖麻は顎をさすり、スンと嗅いだ。確かに独特の酸味ではある。
「安玉殿も食べてみなされ……」
食医が包丁で切り、輪切りにした酢卵を渡してきた。
「頂戴します。ふむ」
暖麻が食を進めるさまを、三人の皇子は目を瞠り、息を潜めて見守った。
「安玉、どぉ?」
一人の皇子が問う。早く酢卵を食べたくて仕方ないのか、落ち着きなく左右に揺れている。
「うまい! 美味しいですよ。酸味が抜群だ」
「本当? 一個ちょうだい!」
好奇心旺盛な幼児たちはヒョイと輪切りにされた酢卵を口に入れる。
噛むこと数秒。
「不味いよ~!」と言いつつ、ゲラゲラと腹をかかえて笑った。
「えっ 美味しいと思うんですが」
暖麻は本気で美味しいと思っている。首を傾げ、もう一ついただいた。
やはり旨く感じた。
「殿下方は、少々美味なるものを召し上がりすぎておられるのではございませんか?」
「違うよ! 安玉の舌がおかしいんだよ!」
ついには扇で口元を隠すことも忘れ、妃が堪えきれぬように笑みを洩らした。その瞬間、控えていた女官もまた耐え切れず、思わず息を噴いてしまった。
「楽しそうだな。お前たち」
そこには絢爛豪華な衣装を纏った美女……もとい、男がいた。薄絹を重ねた衣には金糸の鳳凰がきらめき、香の匂いが静かに漂う。口元は斜めに裁たれた絹で覆われ、見えるのは艶やかな双眸だけだった。
(いや、帝にそんな妖艶な魅力いらんだろ。何やってるんだよ)
思ったことは喉の筋力でどうにかおし留める。いくら幼馴染とはいえ、一目のある場所で帝に失礼なことは言えない。
妃たちは帝の登場にハッと驚き、いそいそと身なりを整え始めた。
暖麻と食医は両手を胸の前で重ね、拱手した。
「主上に、拝謁つかまつります」
「父上!」
「うむ。元気にしていたか?」
皇子たちは父親のこの姿には一言も触れず、ピョンと抱き着いた。
女性たちも、帝の下へやってきた。
両手を胸元で重ね、軽く膝を折って上体を少し前へする動作で帝に挨拶をする。
皇子たちにも礼を取るように促した。
「あ! 忘れておりました! 父皇陛下に、拝謁申し上げます」
年上の異母兄の様子を見て、真似るように二人の幼児も拱手した。
誰も帝の女装に触れない。慣れとは怖いものだ。
(三年、四年になるだろうか。帝の女装癖はいつ治ることやら)
「暖麻、お主に任せたい仕事があるのだ。ついてきてくれ」
「かしこまりました」
***
「謝尚書の目が痛むそうなのだ。治してやってくれ」
そう言われ、連れてこられたのは外廷にある執務室だった。文官たちが政務に追われる、尚書省の一角である。
部屋に入る一歩手前で、男に声をかけられた。
「待て安玉! やっと見つけたぞ」
「焚心殿。どうされましたか」
焚心は、いかにも医官然とした佇まいの男だった。
艶を抑えた黒髪は長く、背に流して一つに束ねられ、動くたびに衣の上で静かに揺れる。香油や装身具の類は一切なく、身なりは簡素だが隙がない。眉は細く整い、その下の切れ長の眼は、感情を映すというより脈や気の巡りを読む者のそれだった。
「どうされましたか、じゃない! 私と勝負をする約束だったろう!」
(……あ~!)
昨夜、皇子の病快癒を祝う席として酒を賜った。
暖麻も例外なく飲まされ、ほろ酔い気分でいた折、焚心に勝負を持ち込まれた。
適当に「はいはい」と応じてしまった記憶だけが、うっすらと残っている。
「妃や帝が頼るのはいつだってお前だ! ちょっと前までは灸医である私が重宝されていたのに! お前が後宮に来てからというもの、私ときたら、皇子のお絵描きを指導する毎日!」
楽しそうでいいじゃないか。いっそ私がそのお絵描き担当として任されたいんだが。
「どちらが最も優秀か、今ここでハッキリとさせようじゃないか!」
(どちらの腕が優秀かはっきりしてるから灸より按摩が重宝されてるんだろ)
控え目に言って焚心は暖麻にとって、非常に迷惑な存在だった。
暖麻が溜息を吐いてチラリと帝を見る。どうやら焚心はこの女装姿の人間が誰か気づいていないらしい。気づいていれば、まずは拱手して挨拶をするだろう。
「美女なんぞはべらしおって! ここは出仕場だぞ。女官と昼間から密会とは。慎め!」
(それ、私ではなく隣の帝に言ってくれ)
女装なんかせずに、慎んだ行動を取り、誰かさんに仕事を任せず政事を行えと。
帝は「え~、美女だなんて~」と女のような声を出してクネクネと体を揺らしていた。
(うっ、鳥肌が)
美女、もとい、帝は人差し指を立て、提案した。
「ではこうしよう。謝尚書に目の治療を施してやってくれ。より効いた方が勝利とする」
「うむ! 美女よ、良き提案だ! 安玉、勝負といこうではないかっ」
半時辰後。
「ふむ。良くなった」
謝尚書は、机に肘をついたまま静かに瞬きをしていた。
四十を優に越えているはずだが、痩せすぎてもおらず、官僚特有の疲労が沈殿した顔立ちは、かえって整って見える。若い頃は相当な美貌であったのだろうと想像させる骨格に、今は枯れた渋みが重なっている。
「確かに……先ほどまでの痛みが嘘のようだな」
低く落ち着いた声でそう告げ、謝尚書はゆっくりと目を閉じ、また開いた。
「どうだ安玉。この勝負、私の勝ちだな!」
「ええそうですね。まごうことなき貴方の勝利です」
何もしていないが、暖麻はすんなりと勝ちを灸医に譲った。
「ハァーッハッハッハ! では明日からは私が一番の腕利きということだな」
「ええ、そうです。そうですとも」
暖麻はコクコクと真面目な顔で何度も肯定して見せる。
自称、宿世の仇敵 が満足そうに帰ったのち、謝尚書は几帳の脇に座り直し、深く息を吐いた。
「暖麻殿、目の治療をお願いします」
「嘘をつかれたのですか?」
「嘘も方便だ。マシになったのは間違いないが、君にしてもらった方が完璧に治るからな」
「承知しました」
暖麻は一礼し、尚書の背後に回る。
まず目頭、鼻梁の脇に指を添え、ゆっくりと押し上げた。尚書の肩がわずかに落ちる。
「そこだ……奥が重かった」
眉の内側を持ち上げ、張り付いていた緊張を剥がす。眉の中央を円でなぞると、尚書は自然と目を閉じた。
「書簡を読むたび、ここが固まるのだ」
「政務熱心の証です」
こめかみを静かに揉む。呼吸が整い、眉間の皺が消えた。
黒目の下、骨の縁を支えるように触れると、尚書は小さく息を吸う。
「うむ、視界が明るい」
最後に後頭部、首と頭の境を両の親指で持ち上げる。 詰まっていたものが抜けるように、尚書の背が伸びた。
「これは、効くな。やはり、君の腕は神がかっている」
「今宵は目を酷使なさらぬよう」
謝尚書は頷き、ゆっくりと立ち上がった。その表情には、先ほどまでの疲労は残っていなかった。
ふと、暖麻は卓子に目を落とす。
「この内容は本来主上がなさるものでは?」
尚書とは、皇帝の意志を“政治という形”に変える者。皇帝の代わりに働くが、皇帝そのものにはなれない。この怠惰な皇帝は仕事の一挙を尚書に任せる節がある。また彼に全手の仕事を投げ出していたようだ。
「余より賢いやつらに政を任せた方がよかろう」
(嗚呼、世の行く末も、まさに推して知るべし、か)
暖麻は頭痛に効くツボ、合谷(手の甲の、親指と人差し指の骨が合流する少し手前のへこみ)をギュっと押した。
「主上!ここにいらしたのですか!」
執務室へ踏み込んできたのは、近衛を統べ、主上の御身を守る役目を持った武官だった。
「烈」
そして、暖麻の幼馴染でもある。
深みのある赤に染められた髪は短くまとめられ、乱れているようで視界を遮らぬ位置に収まっている。切れ長の目は鋭い。
鎧の下に鍛え上げられた肩と腕がはっきりと浮かび、細身ながら無駄のない体つきは、日々剣を振るってきた者のそれである。
「暖麻、お前もいたのか。主上、ああもうまた女装なんかして、恥ずかしくないのですかっ?」
「恥ずかしい? 愚問だな。こんな美しい姿、世に見せなければ損だろう!」
「また訳の分からないことを……」
かくも得体の知れぬ主上を昼夜寸分違わず守らねばならぬ護衛官と、ほとんど保父役のごとき尚書。
暖麻は、思わず二人に憐憫の視線を向けた。
(そのご苦労、察するに余りある)
「主上、政務もひとまず区切りがつきましたゆえ、私は少し休憩を……」
「うむ!では好みの女子について語ろうではないか。井戸端会議だ!」
帝君はまたしても意味不明な提案を口にした。
謝尚書の顔色は、まるで世の終わりを告げられたかのように沈みきっている。
三人は顔を引きつらせつつも、「ご辞退申し上げます」という言葉を、揃って喉の奥へと飲み込んだ。
「では、安玉からだ」
「私ですか。そうですねぇ」
問われたとて、思いつく女性像など何もなく。
「優しければどういった方でも」
「なんとも面白くない」
(悪かったですね)
帝に不評であったが、この体で嫁を娶る予定はないのだ。仕方ないだろう。
「では沈烈武官よ。述べてみよ」
「俺も優しい女がいいですね。帰ったら按摩で体を癒してくれる奴だともっと良い」
「按摩目的なら、暖麻がいるではないか」
「そうですね! 暖麻、結婚するか?」
「しない」
「では謝尚書、そなたの理想の相手とは、いかなる人物がよい?」
謝が答えるより先に、武官が口を挟んだ。
「謝尚書を受け止められる嫁など、果たしておりますかね」
謝尚書のこめかみに、一本の血管がぴくりと浮かぶ。
「一介の武官が、口の利き方も知らぬか」
「尚書ともあろうお方が、そのような戯言に逐一応じる必要はございますまい」
二人の間に、見えぬ火花が散った。
(どうして、そうなる)
この二人の不和を宥める役目は、いつも暖麻に回ってくる。いい加減、年相応に振る舞ってほしいものだ。
「その話題はここまでにいたしましょう。謝尚書は官位のみならず、容貌も才覚も備えたお方。縁談など、選ぶほどにございましょう。沈武官、発言を慎むんだ」
「……ケッ!」
(おい! 謝尚書だぞ? 高官相手にそんな態度とるなよ!)
幼馴染の死をも恐れない行動に、暖麻はまた頭が痛くなった。
「コホン。私の嗜好について、であれば……まずは、豊満な女性が好ましい」
謝尚書も、やはり俗世の男ということか。
文官として机に向かう姿が板についているが、元は武の人間。そう思えば腑に落ちる。
しかし、この年齢まで独り身とは、少々意外でもあった。
「ふん! つまらぬ!」
何をそうむきになっておられるのか、我が帝は。いったい、どこに憤る要素があったというのだ。
「私は四十を過ぎた、聡明で、長髪の者がよい! 男であれば、なおよい!」
その視線を、なぜ尚書に向ける。そもそも嫁の話をしてるんだぞ今は。
ここ数年の主上の奇行を思えば、もはや驚くべきことでもないのだが。
「帝君、それはご冗談を。すでに皇子皇女あわせて三十六名もお持ちではありませんか」
「もともと、女と戯れるのは趣味ではなかったのだ」
(う、わぁぁぁ……聞きたくない~~)
「帝君、私には務めがございますので、ここで失礼してもよろしいでしょうか」
(聞きたくないのであれば、逃げるべし)
暖麻は平気で嘘を吐いた。
「むぅ。務めとあらば、致し方あるまい」
「それでは、失礼いたします」
暖麻は帝に一礼し、その場を辞した。
うしろから、謝尚書が駆け寄って来た。
「尚書、どうなさいました?」
「そなたに伝えなければならないことがあるのだ」
はて、何用だろう。仕事があると偽って逃げたことが、露見したか。
早く酢卵を食べに行きたいのだが。
「一、二年以内に、主上の大切な人物がいなくなると占いで出たのだ」
心当たりのある暖麻は、表情に一切の揺らぎを出さぬよう努めた。
その代わりに、違う言葉を問うた。
「大人とは、何歳からを大人というのでしょうか?」
突拍子の無い質問に面食らうも、応えてくれた。
「やはり、成人の年を言うだろう。二十歳が妥当ではないか?」
とすれば、この体はあと一年。
「もしものお話ですが、尚書があと一年で死ぬとしたら、何を成したいと思いますか」
「特に何も。できることを全力で尽くすまで」
「……奇遇ですね。私もそう思っていたところです」
「何か病でも抱えているのか」
さすがは尚書、察知の速さは電光のごとし。
「いえ、身に病はございません。ご懇切なるご教示、痛み入ります。それでは、これにて失礼いたします」
暖麻は拱手し、そのまま踵を返した。
(早いような長いような年月だったなぁ。そうだ、酢卵よりも、皇子や皇女たちのご様子でも見に行こうか)
三霊嚢が、歩みに合わせて静かに揺れた。
<続く>




