不眠はこうすれば治りますよ
夜半の回廊は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。燈籠の火は風もないのに揺れ、白壁に歪んだ影を落としている。
暖麻が部屋に足を踏み入れた瞬間、担当医は視線を向けた。若い按摩師の切れ長で黒目がちな目には攻撃性がなく、静かにこちらを量るような落ち着きがある。整った顔立ちでありながらどこか隙があり、少年の面影と大人びた諦観が同居している――人混みに紛れれば見過ごされそうなのに、一度目にすると妙に記憶に残る顔だった。
歩みを止めた暖麻に、担当医は静かに首を振る。朝食も、昼食も卓子に置いたままだ。まったく手を付けていない。
「……また、眠れぬのですか」
暖麻が声をかけると、大事なものを失い、宦官となったばかりの彼は寝そべったまま、肩を強張らせ振り返った。目の下には濃い隈が刻まれ、顔色は土気色を帯びている。本来あるはずの瑞々しい若さは失われ、老衰しきった人間のようだった。
食事もとらず、外にも出ず、内にこもりきりになった宦官の末路である。
「……っ、おれの大事なもの返してぇぇぇ!」
また始まった。
これで三日目になるが、毎夜毎夜この調子でギャン泣きされると、溜息しか出てこない。十九の暖麻より年下と思われるが、それでもやはり幼い印象を持たざるをえない。料理ばかりしてきた男というのは、皆こうなのだろうか?
暖麻は、白目をむきかけるのを、グッとこらえる。指を耳に突っ込み、叫び疲れるまでしばし待つことにした。
去勢手術を行い、精神が不安定になる者は少なからずいる。そんな時に活躍するのが、暖麻が所属する尚医局配下の按摩灸署に属する者たちだ。按摩で傷ついた体を回復させ、心を健やかにするのが、暖麻の今回の仕事であった。しかしこの宦官ときたら、一切体には触れさせず、事あるごとに大事なものを返してくれと泣きじゃくるばかりで、医官も暖麻もここ三日、困っていたのだった。
「宦官の選択は、あなたが選んだ道なのでしょう。後悔しては、過去のあなたを責めることになります」
「選んだよ! 選んだのはおれさ! だけど、睾丸だけ取られると思ってたんだっ まさか竿まで取られるとは思わないだろっ?!」
おっとぉ、これは初耳。
暖麻は横目で、すっかり小さくなっている医者を見る。腰の曲がった付き添いの医者はサッと目線を反らす。明後日の方向を彷徨わせ、「ッスゥゥゥ」と変な呼吸をしながら額の汗をぬぐっていた。
確かに、去年まではそうだった。だが今年からは、睾丸だけでなく竿も一緒に取ることになったのだ。暖麻も大切なタマタマを二つ捧げたが、竿は残っている。今年から宦官になる者たちには同情する。
(そりゃ怒るわけだ)
彼の執刀を担当した医者は、暖麻の背に隠れるように縮こまっていた。
どうやらこの医者、ろくに説明もせず去勢手術を行ってしまったらしい。
「ひとまず、夕食をどうぞ。海老団子の羹です」
一昨日も昨日も施術をさせてもらえなかった。今日こそはと思い、苦手な料理に奮闘してやってきた。
「海老……?」
(あ、反応した。海老が好きなのか?)
だが彼は羹には手を伸ばさず、横になったまま、自嘲に近い笑みを浮かべた。
「おれさ……目を閉じると、切ったはずのものが、まだそこにある気がするんだ。莫迦だよな……もう、生きたくないよ。なんでこんなことになっちゃったんだ。後悔しかないよ、まったく」
去勢を後悔していることは、もう十分わかった。だが後悔したってトカゲのしっぽのように生えてくるわけじゃあるまいし。もうそろそろ、施術をさせてほしい。いい加減にしてくれ。でなければ食って英気を養ってくれ。このままでは、衰弱死まっしぐらだ。
「大丈夫ですよ」
暖麻は、あえて軽い調子で言った。今日は強気だった。とっておきの嘘を、手土産に持ってきているのだから。
彼の肩に手を置き、慰めるようにポンポンと軽く叩いてやる。
ふむ。拒絶しないあたり、こちらを受け入れたようだ。では、施術といこう。
「っや、ヤメロォ! 俺は男色じゃないぞ!」
またこれだ。今度は思いきり手を叩かれた。奇遇だな。私も男色じゃない。
「私は、按摩師です。治療のために触れるだけですよ」
そのくぼんだ目は不眠によるものだ。一柱香もあれば、ぐっすり眠らせてやれる。頼むから大人しくしてくれ。
「按摩なんかで、おれのアレが元通りになるってのか?!」
「元通り、とまではいきませんが……宦官となったのちに子を成した人はいます」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
ふむ。やはり、この嘘は効いたようだ。
「その方は、腰を悪くし、ながらく私の施術を受けていた方です。あなた同様、宦官になった男性でした。後宮勤めでしたが、皇帝のはからいにより、今は宮廷外勤務をしています。その後嫁をもらい、翌年には子を儲けていましたよ」
「宦官になったってのに、結婚して、子どもまでつくれたの……?」
「ええ」
結婚については、優秀な女官と宦官同士であれば許されている。
子に関しては、つくれるわけがない。何のための去勢だ。しかし、それは口に出してはいけない。
この目の落ちくぼんだ年若い青年は、どんな美食家の舌をも唸らせる腕前を持つと聞いている。
皇帝自ら、この者を立派な調理人として厨房に立たせよと仰せになったほどだ。
このまま衰弱死されては、さすがに困る。
「それらしいことを奥方とはされていたらしいです。その宦官が言うには、私の施術をしっかり受けて、足腰を健康にしていたから、子ができたのだとおっしゃっていました」
「それ、本当……?」
半分嘘。半分本当。どうせ、嫁が浮気したか、結婚する前に身ごもった子だろう。そこまで頭が回らない阿呆のようなので、けっこうけっこう。よしもう一息。
「ええ。本当ですよ。よろしければ彼にした施術を、あなたも受けてみますか?主に、足腰が動きやすくなる施術です。これは特に、男女ともに人気なのですよ」
夜の営みがしやすくなる、と。まぁそこまでの武官や女官、または妃の不健康な事情を言う必要はない。
「あなたは調理役でしたね。先ほどの宦官も、厨房を専門にしていた者です。
共通の話題もあるでしょうし、よろしければ、今度お引き合わせしましょうか」
彼は何か言い返そうとして、結局黙り込んだ。しばらくして、ぽつりと漏らす。
「おれも、アンタに協力してもらえたら、また生える……? 嫁も、がんばったらもらえるのかな。おれみたいなやつでも」
「人間の神秘は未だ解明されておりません。お手伝いでしたらできますよ。後宮には女官は大勢いますし、奥方候補はいくらでもいるのではないでしょうか」
彼は目元を潤ませ、海老団子の羹をすすった。
「不味い……」
途中からは、不味さのせいなのか、
それとも大切なものが戻るかもしれないという希望のせいなのか、
本人にも判別がつかないほど泣いていた。
「すみません、料理は不慣れなもので」
「海老団子の羹をどうやって不味くするんだよ……」
よく言われます。
それでも彼はその不味い食事を全て腹に入れてくれた。
人は腹をある程度満たすと落ち着くものだ。
彼――韓 朔平も例外ではない。
「それでは施術を始めますね。座ったままでけっこうですよ。よく眠れるようツボを押しますね」
「食ったばっかだよ」
「腹を満たしすぎぬ程度の量ですから、施術をするのには問題ありません」
食事を終えたなら、次に必要になるのは睡眠だ。不眠で悩む者には即効性があるツボを押すのが一番。かかとの真ん中。足裏の、土踏まずとかかとの境目あたり。
「そんなとこ揉んだって、眠くなるとは思えないんだけど……」
「ここは“眠りを失った者”のためのツボ、失眠と言います。騙されたと思って、ゆったりと寛いでいてください」
神門、百会、耳たぶ回し。精神を安定させるツボを押していく。その時。
(いた。やっぱり、妖だ)
この体調不良は、ただの不眠ではない。三日前、朔平に近づいた瞬間、暖麻は確信していた。この男の不調は、気の巡りが乱れているだけが原因ではない。悪いものが体内で巡っていたのが直接的な要因のようだ。
病は気からという言葉があるが、それは間違いないだろう。人は心が弱ることで妖に取りつかれやすくなる。妖に取りつかれることで、心身が衰弱していくのだ。
今回朔平に取りついている妖は、宿主を眠らせず、精を啜る類だ。
直接害をなすほどではないが、放置すれば心身を摩耗させ、やがて廃人にする。
(経路は、ここだ)
暖麻の意識は、指圧とは別のところにあった。
経絡に沿って流れる気の中に、異物がいる。細く、冷たく、ぬめりのあるもの。
(隠れるのは上手だね。でも……)
暖麻は、わずかに圧を変えた。体内に、己の鬼火の熱を通す。気の流れが一瞬だけ鋭くなり、経路を伝って、何かが悲鳴も上げずに霧散する。
——手ごたえアリ。
妖がジュッと溶けていなくなったのを感じた。
「なんだかポカポカする」
「さっきの海老団子に生姜を混ぜておきましたから」
「なるほど、生姜かぁ」
暖麻は息を吐くように嘘をつき、穏やかに微笑んだ。
(生姜なんて入れてないけど)
鬼火の気を熱いと感じる人間はまれにいる。どうやら、暖麻の鬼火を感知したようだ。
「あれ?」
朔平の肩から、ふっと力が抜けた。
「久しぶりだ。こんなふうに、まぶたが重いの」
「さっそく効果が出たようで何よりです。ゆっくりお休みください」
暖麻は、手を離した。
「心と体が回復すれば、嫁探しもできることでしょう。優秀な宦官であれば、結婚ができる制度がありますから。頑張りましょうね」
「そ……なんだ」
朔平は、半分眠ったような顔で嬉しそうに頷いた。
「ねぇ、アンタ、名前なんていうの?」
頭をぐらぐらと左右に揺らしている。横たわらせ、布団をかぶせてやった。
「私の名は白 暖麻。字は安玉と申します。尚医局配下、按摩灸署の者です。
手で人を和ませる仕事ゆえ、皆からは和手と呼ばれております」
「和手……」
暖麻の通り名をポツリと呟いたのち、彼は強い眠気に襲われ、目を閉じた。
医者は安堵したように額の汗を拭った。
「和手、助かったよ」
「お役に立てて光栄です。また何かありましたら、お呼びください」
長い回廊で立ち止まり、自分の胸元に手を当てた。ひとり、闇の中で小さく息を吐く。
(人間とは、不思議な生き物だ。嫁がいなくたって、陽物がなくなったって、命があればそれでいいだろうに)
暖麻の腰にぶら下げていた三霊嚢がひとりでに揺れる。淡く脈打つ光の塊がゆらりとそこから出てきた。
「どうしたんだい?」
暖麻が問いかけると、蛍のような光は何かを暖麻に伝えた。
「そう?」
暖麻はクスクスと笑い、その光を三霊嚢に戻したのだった。
<続く>




