07.誤解
それは一方的な宣告だった。セイラはあまりに突然のことに愕然としたが、黙って立ち上がり小切手を掴むと静かに部屋を出て行った。
(予想してた通りよ…)
元から期待してなかったはず。どうせこうなると分かっていた。何も持っていないのだから失うものも無いと思おうとしたが、そんなことは無かった。マーガレットがいて、屋敷のみんながいた。それを失うような事態を招いたのは自分だ。
一度遊んだ低い身分の女を捨てるなんて貴族にはよくあることだと分かっていたはずなのに。
かつて奉公先を告げずに出て行った仲間達は貴族や裕福な商人の愛人になったのだと、孤児院を逃げ出す頃には察しがついていた。然るべき勤め先の用意に尽力してくれた院長達だったが、本人が望めばそういった道も否定できなかったのだろう。
貴族と結婚できるなんて、セイラは考えて無かったと思う。それでも、数日前までの満ち足りた気持ちとのあまりの落差に、自分でもどう対処していいか分からなかった。マーガレットのことは気がかりだったが、あっという間にユストスとの思い出ばかりになってしまったこの屋敷から、今すぐ逃げ出したかった。
夜が明ける直前、当面の生活に必要なものと小切手を手にセイラは屋敷を出た。
(また出て行かなくてはならなくなるなんて…)
*
祖母マーガレットが、財産の一部を譲ろうとしていることをセイラ本人が知らないなど考えもしなかった。ユストスは説明も無しに小切手を提示したから、セイラがそれを自分との一夜の代償だと受け止めたことになど全く気づかなかった。
昨日は、セイラがすぐに部屋を出たため、ここから離れた王都にセイラの家を用意するつもりであることをユストスは伝えそびれた。
(小切手などいらないと言うのではないかと、少し期待してしまったが)
セイラが小切手を受け取ったことに、ユストスはややがっかりしていた。彼女への思いに変わりは無いが、期待し過ぎていたのかも知れない。
(新しい屋敷は不自由無いはずだ。使用人の仕事はしなくていいし、渡した金など使わずとも彼女の望む物は何でも用意しよう)
祖母の部屋で見た調書には、セイラがこの屋敷に雇われた経緯も簡単に記されていたが、そこに不自然な点は無かった。
聡い人だと言っても、生きてきた世界が違う。自分が贈られようとしているものが不相応なものだと認識できなかったのかもしれない。
祖母の体調不良に財産の件が重なり動揺していたとしても、昨日は性急に話を進め過ぎた。急ぎ過ぎたことを謝って、今後のことを話したい。
祖母の看病の合間にセイラの部屋へ向かった。返事は無く、そっとドアを開けると灯りはついておらず、不在のようだ。庭にでも出ているのかも知れないとも考えたが、机の上にあったマーガレット宛の短い書き置きを見て、彼女がわずかな荷物と小切手だけを持って、屋敷を出たことを悟った。
自分が贈った革の手帳はそのまま残されていた。家紋入りとなれば、ヘイヴン家の遣いであることを示すことが出来るものだ。さらに言えば悪用も。
一方で、マーガレットから贈られた、バイオレットサファイアが嵌め込まれた万年筆は持ち出されたようだった。
『私の瞳の色とそっくりなんです。素敵な偶然でしょう?こんな素晴らしいな物達を一度にいただくなんて』
万年筆を贈られた翌日、手帳と一緒に嬉しそうに見せてくれたのが脳裏に蘇り胸がズキリと痛んだ。
自分の方は捨てられたのだと自嘲する一方で、何か大事なことを見落としている気がして仕方が無かった。
*
幸い、祖母マーガレットの症状はそう重くは無かった。虚ろな時はしきりに今は亡き親友の名を呼んでいたが、やがてそこにセイラの名が加わった。
『…レッタ……ヴィオレッタ…セイラ…』
まだ状態が良いとは言えない祖母に、ユストスは事実を伝えかねていたが、徐々に快方に向かっていた。そうなるとセイラの体調不良では誤魔化し切れなくなり、ある程度回復したタイミングでセイラが出て行ったことを伝えた。
「何てことを……」
そう言ってしばらく黙り込んだ後、マーガレットが口を開いた。
「あの子は財産のことなんて知らないわ」
「え?」
「私が勝手に考えていたことよ。この前のお墓参りのついでに手続きを進めたかったから、セイラを連れて行かなかったのに」
マーガレットは話がある程度整ってからと考えていたのだった。
ユストスはその場に崩れ落ちた。すべてが腑に落ちた。セイラは祖母を裏切っていなかったのだという安堵と、無実のセイラを傷つけたことへの後悔が渦巻いた。
*
あれから、目についた修道院にひとまず身を寄せ、そこに小切手をそのまま寄付した。
自分を売って得た金などパンひとつ分たりとも受け取りたくは無かったが、金の有用性は身に沁みている。歯を食いしばって小切手を受け取ったのだった。




