フランツ・カフカ「掟の門」1 「掟の門はいつもどおり開いたままだった」
この物語は、高校国語のある教科書で安部公房「赤い繭」の後に掲載されている。自己が時間と空間のあわいに溶け出し、繭となった男の話の次に、なぜこの物語が掲載されているのかが気になり、今回、読解を試みることにした。
なお、その教科書の訳者は池内紀で、青空文庫からお借りした訳とは多少の異同がある。題名も、教科書では「掟の門」、青空文庫訳は「道理の前で」となっている。
「掟」…所属する社会や組織の中でそうするように(そうしてはいけない)と定められているきまり。(三省堂新明解国語辞典)
「道理」…①世間で正しいと認めた、行いの筋道。②(そうなるのが正しいという)理屈。(同上)
私はこの物語の題としては、「掟」の方が良いと考えるので、教科書の本文をもとに解説する。下の訳は、参考のため掲載した。
◇フランツ・カフカ「道理の前で」訳(青空文庫より)
道理の前でひとりの門番が立っている。
その門番の方へ、へき地からひとりの男がやってきて、道理の中へ入りたいと言う。
しかし門番は言う。
今は入っていいと言えない、と。
よく考えたのち、その男は尋ねる。
つまり、あとになれば入ってもかまわないのか、と。
「かもしれん。」
門番が言う。
「だが今はだめだ。」
道理への門はいつも開け放たれていて、そのわきに門番が直立している。
そこで男は身をかがめて、中をのぞいて門の向こうを見ようとした。
そのことに気づいた門番が笑って、こう言った。
「そんなに気になるのなら、やってみるか。おれは入ってはいかんと言っただけだからな。いいか、おれは強い。だが、おれはいちばん格下の門番にすぎない。部屋を進むごとに、次々と門番が現れるだろう。そいつらは、前のものよりもっと強いぞ。三番目の門番でさえ、おれはそいつを直視することもままならん。」
これほどの難関を、へき地の男は予想だにしていなかった。
道理は誰にでもいつでも開かれているはずなのに、と思った。
だが、男は門番をじっと見つめた。
門番は毛皮のコートに身を包み、大きなかぎ鼻を持ち、黒く長いモンゴルひげをひょろりと生やしている。
そのとき男は心に決めた。むしろ、入っていいと言われるまで待つのだ、と。
門番が男に腰掛けを与え、門のわきへ腰を下ろさせた。
その場所で、男は幾日も幾年も座り続けた。
男は、入ってもいいと言われたくて、さまざまなことを試してみた。だが、あまりにもはげしいため、門番をうんざりさせた。
門番は、幾度となく男に簡単な尋問をおこなった。男の出身地をあれやこれやと問いつめた。
それ以外のことも同じように訊いたが、その問いかけは目上の人間がする一通りのものにすぎず、いつも終わりに門番は男へこう言うのだった。
今は入っていいと言えない、と。
旅のために男はあらかじめたくさんのものを持ってきたが、すべて使ってしまった。だが、どれもずいぶん役に立った。門番に賄賂を贈ったのだ。
この門番はどれもみな受け取りはしたが、そのときにこう言い添えるのだった。
「一応もらっておく。やり残したことがあるなどと思ってほしくないからな。」
何年ものあいだ、男はほとんど休みなく、門番から目を離さなかった。
そのうち男は他にも門番がいることを忘れ、最初のこの門番が、道理へ到るための唯一の障害だというふうに思えてきた。
男は不幸を嘆いた。はじめの数年はなりふり構わず声を張り上げていたが、年老いてしまうともう、ただいつまでもだらだらとぼやくだけだった。
子どもっぽくなった男は、門番をずっとつぶさに見てきたからか、なんとその毛皮の襟巻きにノミがいると気づいた。そこで、男はそのノミに、助けてくれ、あの門番を説得してくれ、と頼み込んだ。
ついには視力も衰え、男は本当に暗いのか、ただ目の錯覚なのかが、わからなくなった。
とはいえ、暗闇の中、道理の門から消えずに差し込んでくる光が、男には今はっきりと見えた。
もう、男の命ももはやこれまでだった。
死を目前にして、男の頭の中で、今までの人生すべての時間が、ひとつの問いへと集束していった。
それは男がこれまで門番に一度も訊いたことのない問いだった。
男は門番に、手を振って知らせた。
身体がこわばって、もはや自力で起き上がることができなかった。
門番は男のためにしゃがみこんだ。ふたりの大きな身長差が、今は男にとってずいぶん苦しいものとなっていたからだ。
「今さらいったい何を知りたいというのだ。」
門番が訊く。
「欲張りめ。」
「だが、万人が道理を求めようとするではないか。」
男は言った。
「どういうわけで、長年にわたって、わたし以外に誰も、入ってよいかと聞きに来ないままだったのだ?」
門番は気づいた。男はもう、今わのきわにいる。
かすかな聴覚でも聞こえるよう、門番は男に大声でどなった。
「ここでは、他の誰も、入ってよいなどとは言われん。なぜなら、この入り口はただお前のためだけに用意されたものだからだ。おれはもう行く、だからこれを閉めるぞ。」
◇解説
「掟」の門前に立つ門番。彼は、自身で言う通り力持ちで、毛皮のマントを身につけ、大きな尖り鼻、ひょろひょろはえた黒くて長い蒙古髯というおそろしげな風貌だ。
そこへ、田舎から一人の男がやって来て、「入れてくれ」と言う。
しかし門番は、「今はだめだ」と拒絶する。
男は思案し、「今はだめだとしても、あとでならいいのか」と尋ねる。
門番は、「たぶんな。」と答え、続けて「とにかく今はだめだ」と再び拒絶する。
なにしろその門は、「掟の門」だ。「そうしてはいけないと定められているきまり」でできている。しかもその前に立つ門番は、少しでも逆らったら何をされるかわからない形だ。その門番が、今は入ってはいけないと言う以上、それに逆らうことは許されぬと男は考える。「掟」は守らねばならないからだ。
だから、田舎から来た男が、恐怖にもかかわらず「今はだめだとしても、あとでならいいのか」と尋ねたのには、多少なりとも勇気が必要だっただろう。目前の恐怖に耐えての質問。また、この男は、少しの論理性を持っていることもわかる。門番の、「今は」という言葉に敏感に反応しているからだ。
この質問に対し、いかつい門番は意外にも「たぶんな」というあいまいな返答をする。強面の割には許容範囲を少しだけ残している。この保留には、重要な意味があるが、それについては後程述べる。
また、この曖昧な表現にツッコミを入れることもできた男だったが、彼はそうせず門の中を覗き込む。
ところで、田舎から来た男という設定は、田舎者だから「掟」は知らなくても仕方ないという設定だろう。だからこれは、社会の論理・きまりに初めて触れた男の物語なのだ。
また、鄙と掟に守られた都市との境に建つ堅牢な門という設定と、そこを何とか踏み越えようとする男という設定を読み解くことも可能だ。
「掟の門はいつもどおり開いたままだった」。先ほどの「たぶんな」に続き、この設定にも意味がある。門は開かれているのだ。しかも、「いつも」。実は、入ろうと思えばいつでも入ることが可能な障壁。
ふつう、入ることを厳しく禁じられているところには、闖入者を妨げる防御・防壁・柵がある。それが門であれば、固く閉ざされているのが普通だろう。それなのになぜかこの門は開いている。非常に不審だ。内側に入ることを禁じながら、入ることを誘惑している。(まるで女性のようだ。エロい意味ではありません)
男は入りたいと思っている。そうしてその門は開いている。当然、さらに入りたくなる。しかしそのそばにはいかつい門番が立っており、だめだと言う。
ところが門番は、「だめだ」というだけで、入ろうとする男を押し止めたり、門を閉ざしたり、門の前に立ちはだかったりはしない。門番はただ言うだけなのだ。さらには、「脇へ寄っ」て、男が門の中を覗き込む手助けまでしている。言っていることとやっていることが矛盾した門番。
つまり、開いたままの門も、そのわきにいる門番も、男が門の中に入ることを、真には妨げようとはしていない。その気になれば男は簡単に門の中に入ることができるという設定であることが重要だ。
「門番が脇へよったので男は中をのぞきこんだ」。門番は笑いながら言う。「そんなに入りたいのなら、おれにかまわず入るがいい」。門の中に入ることを明確に許容する門番。
言葉では厳しく禁じながら、門の中に入ることを許容しているようでもある門番。実際に門は開放されており、その中を覗くこともできる。
とても怪しげな設定だ。
そうして、勇気を出せば簡単に入ることができそうなのに、男は中に入ろうとはしない。入らないことを自ら決断し、実行するのだ。
日本神話に登場する「見るなの禁」は破られ、また禁止されればされるほど興味を持ち、禁止を破りたくなるのが人間(「鶴の恩返し」など)なのだが、恐怖を背景とした「入るなの禁」の提示に男はどのように反応・対応するかが、この後の物語の焦点となるだろう。