公爵令嬢のたった一晩だけの逃避行
夜空に煌めく星のように、舞踏会の会場は美しい光と笑顔に包まれていた。シャンデリアから降り注ぐ灯りが、煌びやかなドレスを纏った貴族たちを照らし出す。
レティシア・フォン・ラヴィールは、完璧な微笑みを浮かべていた。長い金の髪を巻き上げた髪型に、彼女の青いドレスはまるで夜の空の一部のように光を纏っていた。
「レティシアは最高傑作だ。」
「レティシアは心まで美しいのだろう。」
「レティシアは家もよく……」
「レティシアは……」「レティシアは……」
* * *
誰もが口にするその名前に、彼女自身は少しずつ疲れ始めていた。「最高傑作」と称され、誰もが彼女に完璧を求める。けれど、それは表面だけのことだった。舞踏会で浴びる称賛の言葉も、レティシアの心には届かない。
家柄も、外見も、そして婚約者も、全てが整えられた人生。けれど、その中に彼女自身の意志はどれほどあるのだろうか。
レティシアは、完璧な舞台で与えられた役をただ演じているだけだった。誰にも、本当の自分を見せる事はなかった。
彼女が心から望むのは――自由。誰の目も気にせず、自分の気持ちのままに生きること。
けれど、そんな願いが叶わないことは、もうわかっていた。公爵令嬢である以上、決められた未来から逃れることはできない。嫁ぐことが彼女に課された運命なのだ。
レティシアは一歩、舞踏会の中心へと歩み出した。 すぐに周囲の視線が彼女に集まり、また誰かが囁く。
「やっぱり、レティシアは完璧だ」
その言葉は、かつては彼女にとって褒め言葉だったはずだ。けれど今は違う。それは彼女を縛りつける呪いのように聞こえた。
完璧――その言葉に囚われ、自分自身を見失っていく感覚。称賛の言葉は、美しい薔薇の棘となり、彼女の心に深く突き刺さっていた。
* * *
屋敷に戻ったレティシアは、玄関を静かに通り抜け、誰にも気づかれないように自室へ向かった。廊下は薄暗く、静かな夜に包まれていた。重いドアをそっと閉めると、彼女は深くため息をつく。舞踏会で感じた息苦しさと圧迫感が、まだ胸に残っていた。
窓から差し込む月明かりが、部屋を淡く照らしている。レティシアはゆっくりとドレスを脱ぎ、鏡の前に立った。
鏡に映る自分の姿をじっと見つめながら、レティシアはふと思う。
「私はいったい、誰なんだろう……?」
完璧と称される自分の姿に、どこか違和感を覚えていた。綺麗なドレスに飾られた姿は確かに美しいのかもしれない。けれど、その内側にあるもの――本当の自分は、誰にも知られていない。
レティシアはベッドに腰を下ろし、静かに瞼を閉じた。
「もう、何も考えたくない……」
そうつぶやきながら、レティシアはベッドに横たわる。
明日も明後日も、きっと何も変わらない。それでも、体と心が求めるのは、今だけの静かな眠りだった。疲れ果てた体は、ゆっくりと意識を手放していく。
* * *
翌朝、レティシアは朝日が差し込む中で目を覚ました。窓を開けると、冷たい朝の空気が心地よく流れ込んでくる。庭には美しい花々が咲き誇り、何の変わりもないいつもの風景が広がっていた。
今日もまた、令嬢としての日々が始まる。朝食をとり、礼儀正しく挨拶し、淑女としての教養を身につけるための時間が待っている。それは、彼女にとって憂鬱な日常だ。
朝食が用意され、お偉い方々との挨拶や、淑女としての教養を身につけるための時間が今日も待っている。憂鬱だ。
ふと、窓の外から聞こえてきた馬車の音に気づく。見下ろすと、街へ向かう人々の姿があった。彼らは自由に生きているように見える。レティシアの心の奥底に、外の世界への憧れが静かに芽生えた。
「外の世界を知りたい……」
その思いが、彼女の中で次第に大きくなっていく。自由な世界に、今まで知らなかった自分がいるのではないか。そう確信した瞬間、レティシアは決意を固めた。今夜、屋敷を抜け出そうと。
仮面舞踏会に参加することを口実にして――。
* * *
その夜、街の中心にある古い劇場で仮面舞踏会が開かれていた。貴族も庶民も、仮面で身分を隠し、互いの素性を問わずに楽しんでいた。レティシアは青いドレスに黒いマントを羽織り、仮面で顔を隠して、こっそりと屋敷を抜け出した。
本当は、舞踏会に参加することが目的ではなかった。レティシアが求めていたのは、ただ自由に街を歩くことだった。たとえそれが一晩だけのことだとしても、彼女にとっては大きな意味を持っていた。
金色の髪を風に揺らしながら、彼女は舞踏会を後にする。街に出るのは初めてだった。公爵の娘である彼女が、舞踏会の夜にこっそり会場
を抜け出すなど許されることではない。だがらバレるはずもない。
仮面舞踏会なのだから。
顔を隠すことで、誰にも「公爵令嬢レティシア・フォン・ラヴィール」として見られることがない。まるで別人になったような気分だった。
夜の冷たい風が金色の髪を揺らし、青いドレスの裾が静かに翻る。仮面の奥でレティシアは微笑んだ。
この瞬間だけは、自分自身を隠し、誰にも縛られない自由を味わうことができる。どこに行くのか、何をするのか。それは彼女にとっての小さな冒険だった。
彼女はドレスの裾を掴み、勢いよく走り出した。夜の冷たい風が頬に当たり、彼女の心臓が高鳴る。
仮面をつけたまま、公爵の令嬢としてではなく、ただの一人の女性として街を歩けることが、彼女にとっては新鮮で、そして少し怖くもあった。
「これが………街………!街だぁ!!」
彼女は暫く走った後に街へ辿り着いた。広場では小さな屋台が立ち並び、さまざまな食べ物や雑貨が所狭しと並べられている。焼き立てのパンや香ばしい肉の香りが漂い、空腹を誘う。 街灯に照らされた人々の姿は、仮面を被り音楽に合わせて踊る者さえいた。レティシアはそんな風景に心を奪われた。
何よりも印象的だったのは、街の人もまた仮面を被っている事だった。舞踏会とは違い、どこか自由な感じだ。
レティシアは、初めて見る屋台の賑わいに胸を躍らせながら歩いていた。
そして、彼女が足を止めたのは、新鮮そうな果物を売る屋台だった。
見たことのない果物が所狭しと並べられ、露店の主人が笑顔で勧めてくる。
レティシアは一つの果物を手に取り、勇気を出して口に運んだ。
口の中に広がる甘酸っぱい味に、思わず驚いた顔をする。それは、彼女がこれまで味わったことのない、新鮮で生き生きとした味だった。
次に、彼女の目に飛び込んできたのは、香ばしい香りを放つ焼き菓子の屋台だ。
小さなクッキーのような菓子が屋台で次々と焼かれていく様子を、彼女は興味深そうに見つめた。
彼女の住む屋敷では決して食べられないような食べ物が、彼女の心を引きつけてやまなかった。店主が微笑みながら勧めてくれると、彼女は一つ手に取り、少しずつかじり始めた。
「こんなに美味しいなんて……」
レティシアはつぶやきながら、焼き菓子のサクサクとした食感を楽しんだ。城の豪華な菓子にはない、どこか温かみのある味が、彼女の心をじんわりと満たしていた。
彼女は少し離れた場所に腰を下ろし、ほっと一息ついた。仮面をつけたまま、静かに街の景色を眺めている。街灯の柔らかな光が石畳に反射し、淡い輝きを放っていた。
夜は深まり、少し肌寒くなってきたが、街の空気に包まれて、彼女は少し酔いしれていた。
レティシアが静かに街の景色に酔いしれていると、ふいに隣から声が聞こえた。
「見かけないお面だね。」
驚いて振り向くと、白くこすけた仮面を被った青年が立っていた。
「そうかしら?ここに来たの初めてだからなのかも。似合ってるかしら?」
青年は少し笑いながら首を縦に振る。
「よく似合っている。こんな場所では、初めて見るお面だから、つい気になってね。」
「あなたはここによく来るの?」
レティシアが問いかけると、「たまにね」と青年は軽く肩をすくめた。
「何か悩んでいる時とか、気分が晴れない時によく来るんだ。ここは静かで落ち着く場所だから、気持ちを整理しやすいんだ。」
青年はそう言って、仮面越しに空を見上げた。驚くほど澄んだ夜空が広がっている。街の家々は灯りを落とし、わずかに残るのは屋台の灯りだけだった。
青年は空を見上げたまま、少し間をおいてから「隣、いいかな?」と静かに尋ねてきた。
「ええ、いいわよ。」
青年は、ゆっくりと草の上に寝転んだ。地面の冷たさが心地よさを感じさせるようで、彼は仮面越しに再び星空を見つめた。
その姿に少し影響されたレティシアも、慎重に横たわり、彼と同じように夜空を見た。
頭上の空には、数え切れないほどの星が煌めいていた。静けさの中のその美しさに目を奪われ、しばらくの間、二人は言葉を交わさずにただ星を眺めていた。
「星を見上げると、不思議と悩みが小さく見えるよな。」
青年が静かに呟いた。
「そうね……こうして見ていると、なんだか自分が小さく感じられるわ。」
「悩んでることも、きっとこの星空の下では小さなことなんだと思うよ。」
青年の言葉が静かに響く。レティシアは、一瞬言葉を探し、少し考えてから答えた。
「ここにいると、少しだけ自分でいられる気がするわ。どんな悩みもどんな束縛も。」
「君の悩みかい?」
「そうよ。私の悩み。仮面をつけているのに、逆に本当の自分に近づけるなんて、変な話よね。」
レティシアは仮面の下で少し愛想笑いを浮かべた。
「そんな事はないさ。仮面で隠れているように見えても、みんな本当は自分自身を見つけに来ているんだ、君も僕も皆も。」
「私も、自分を見つけられるのかしら?」
彼女はぽつりとつぶやいた。
青年は彼女の言葉を噛みしめるように少し黙ったあと、やわらかな声で答えた。
「見つけられるさ。誰もが、少しずつ自分を見つけていく。急ぐことはないよ。どんな選択をしても、自分自身でいられることが一番大切なんだ。それが本当の強さだと思う。」
静けさの中で、風が木々を揺らす音だけが微かに耳に届く。
しばらくの沈黙が続いた後、青年は静かに言った。
「さて、そろそろ時間かな」
レティシアはその言葉にふと現実へと引き戻され、胸の奥で小さな寂しさを感じた。心地よい空気に包まれたひとときは、かけがえのない時間になっていた。
しかし、彼の言う通り、いつかは終わりが来るものだ。
「今日のことは、忘れないわ。本当にありがとう。」
「僕もだよ。いつかまたどこかで会おう。」
レティシアは、振り返ることなくその場を後にした。
屋敷に戻っでも、またいつもの生活が彼女を待ち受けているだろう。だが、今のレティシアは以前とは少し違っていた。
自由とは何か、自分とは何か。探求の旅は、今まさに始まったのだ。