第二十話
その日の夜、女官部屋で皆がテトラに寄って集った。別棟の女官たちまでもが集合した。彼女たちの御目当ては言うまでも無くお香である。
女官たちに急かされる中、テトラは蓋の裏に備わっている金具にお香を1本立て、床に置いて蝋燭の火を近づけた。黄緑色のお香の先端が赤くなり、そこから糸のような煙が立ちのぼった。
皆は、その煙を奪い合うように手で扇いで自分に引き寄せた。
「はぁ・・・この世に、こんないい香りを放つ物質が存在するとは・・・。」
キナが夢うつつに唸った。
「キラ様、様だな・・・。」
シニも赤鬼の下でうっとりとしていた。
「・・・ねえ、キラちゃん。この灰、10セルで売ってくれない?」
煙に布切れを当てて香りをしみ込ませているカノが、猫なで声で言った。
「あ、私、30出すわ。」
テテが羽織で煙を捕らえながら、値を吊り上げた。
「じゃあ・・・私は50出そうかな。」
サヤも何気に便乗した。
お香の灰をかけて競売が開始された。テトラは呆然と見守った。結果、150セル出したアンが買い取る事になった。
テトラは、白銀色の小さな玉状をした酸素石を糸で数珠にしたものを受け取った。彼女がしげしげとそれを見ていると、キナがセルについて説明した。
「酸素石1粒は1セルな。水流石は、大きさと使用度で1セル~10,000セルまで幅がある。〝目利き役〟っていうパイマーが店ごとに配属されていて、その水流石が何セルになるかを見極めるんだ。」
「目利きは人によって差が出るから、信用のおける両替屋で酸素石に換えて使った方がいいわよ。ちなみに150セルは、バースでなら1食分くらいね。」アンが付け足した。
「ま、何だかんだ言っても物々交換が主流だけど。」と、テテ。
そうこうしているうちに、お香は燃え尽きた。アンは布切れで灰を丁寧に拭い取った。そして小さな巾着袋の中に入れて匂い袋を作り、懐に収めた。
別棟の女官たちは名残惜しそうに、自分たちの部屋へと戻っていった。残り香の立ち込める部屋の中、皆はリラックスしていて直ぐに寝付いた。テトラにとって、周囲のアウラが穏やかに落ち着いている状況は非常にありがたかった。
だか、テトラは眠れなかった。彼女はヘルの事が気になって仕方なかった。北の社からアバターを外したまま戻ってきた彼の、痛々しい表情が脳裏から離れない。
「・・・・。」
テトラは隣に寝るキナを起こさないように、静かに毛布から這い出た。部屋を抜け出して廂に立ち、薄暗く静まり返った洞窟の冷たく澄み渡った空気を吸った。
「?」
大門の方から、微かに水音がした。テトラは反射的に透視した。そしてすぐに下駄を履き、中庭を抜けて大門へと歩んでいった。
テトラは、白石の階段に座り込む白装束の背を捉えた。ブーツを水に浸らせ、時折、思い出したように水を蹴り上げている。セキメたちが餌をねだるように、階段周辺に集まり泳いでいた。
「・・・眠れないのか?」
ヘルは後頭部の天孤面を見せたまま、背後のテトラに声をかけた。
「・・・・。」
テトラは、階段を下りてヘルの隣に座った。
2人は暫く、黙って湖面を見つめていた。
ヘルが先に口を開いた。
「聞きたい事があるなら、聞けばよい。」
「・・・・。」
テトラは少し躊躇したが、「テフの容体、悪かったのか?」と小声で聞いた。
彼は間を置いた。そして、
「・・・お前がバクと起こした騒動の事で、あやつが笑った・・・ホントに可笑しそうに笑ったよ。」と言って、微かに笑んだ。
テトラは、その脆く果敢ない彼の優しい表情を見て、切なさで胸が苦しくなった。
翌日の早朝、官吏たちに見送られながら、ヘルは社を発った。
朝食を済ませたテトラは、女官たちの仕事を暫くの間手伝った。ヨミに呼ばれ、彼と数人の官吏に付き添われて舟に乗り、北の社へと向かった。
狭い水路を通り抜けると、インプが飛び交うドーム状の空間に出た。底の浅い人工池にセキメはおらず、蛍魚の大群が水中を遊泳していた。
北の社は、東とは建築様式が随分違っていた。洞窟の岩壁にめり込むようにして建てられており、まるで岩壁と同化しているように見えた。白石の壁と藍色の柱で、それが人工物だという事が分かる。
池の桟橋に舟がつけられた。出迎えた北官吏は、白と藍色の装束に白鹿のアバターをつけていた。官吏たちは軽く挨拶を交わし、その後は何も話さずにテトラ達を社の奥へと案内した。
アーチ状の門を潜ると、白砂の敷き詰められた庭があり、大きな長方形の軽石とスタンド型の照明が並べられていた。軽石には水滴の滴るキノコゴケが生え伸びており、スズメの面をつけた数人の女官が黙々と籠に摘み取っていた。
庭を抜けて、左右に灯篭の立つ門から社内へと入った。中は不気味なほどに静まり返っていた。廊下ですれ違う官吏たちは皆一言もしゃべらず、こちらに軽くお辞儀をして通り過ぎていった。
御簾の持ち上げられた寝室前で、北官吏の1人がテトラの耳元で囁いた。
「イシュラ様は、アバターが御嫌いでいらっしゃいます。お外し頂きたい。」
テトラは白イタチを外し、官吏に預けた。そして、薄暗い寝室の中へ入っていった。後ろで御簾が下げられた。テトラは立ち止まって不安げに後ろを振り向いた。
その時、寝室の奥から、
「キラ・・・?」
と、弱々しくかすれた細い声が彼女を呼んだ。
「怖がらないで。こっちにおいで。」
テトラはおずおずと寝台へ歩み寄った。天蓋から吊るされた布仕切りが左右に開かれ、その中に枕を立てて上体を起こしている人影があった。
「・・・ここに座って。」
テフは、寝台の枠を手で軽く叩いてテトラに促した。
テトラは言われたとおり枠に腰掛けて、テフを見た。呼吸補助装置をつけている彼は、痛々しいほど痩せこけて衰弱していた。
左右の色が違う瞳を大きく見開いて自分を凝視している金髪の少女に、テフは微笑んでみせた。
「こんな陰湿な所に呼んでごめんね・・・どうしても、君と会って話したかったんだ。」
テトラには、微笑み返す余裕が無かった。
「―――眠れないの?」
「・・・・。」
少女の唐突な質問に、テフは少し戸惑った。彼はテトラから顔を逸らし、棚の上で照明を当てている鉢を手にとった。
「これ、何か知ってる?」
テトラは鉢に植わる小さな苗を見て、目を輝かせた。
「カモミール!」
テフは顔をほころばせた。
「そうだ。カミツレとも言う。」
鉢を受け取ったテトラは、植物をまじまじと観察し、可憐に咲いた白い花の匂いをかいだ。甘酸っぱい、いい香りがした。
「初めて本物見た・・・カミツレか。どこでこれを?」
「バルタナ大陸のコロニー〝エスの箱舟〟で栽培されている。昨日、ラシュが持って来たんだ。」
「へえ・・・確か、この香りに安眠効果があるって本に載ってた。」
「君、なかなかの知識人だね。」
思う存分少女にカミツレを観察させた後、テフは鉢を棚に戻した。ひと息ついてから、彼は呼び鈴を鳴らした。
御簾が上がり、官吏が1人入ってきた。テフはその官吏に「例の物を。」と一言囁いた。官吏は一礼して足早に去っていった。
「・・・ねえ、キラ。」
「?」
「エリア5の都市遺跡で・・・ホーグが神獣を仕留めるところを、君はすぐ近くで見たんだって?」
テトラが頷いたのを見て、テフの淀んだ水色の目に光が差した。
「その一部始終を、ぼくに聞かせてくれないか?」
テトラは頷いて、巨大十字路での壮絶な一戦について語った。つたないながらも、一生懸命に話して聞かせた。
テフは目を大きく見開いてテトラを見つめながら、彼女の話に真剣に聞き入り、時々頷き、時々質問をはさんだ。テトラが話し終えると、テフは物語の余韻に浸るかのように目を瞑って暫く黙っていた。
先ほどの官吏が戻ってきた。頑丈そうな金属製の箱を、両手で挟んでいた。官吏はその箱をテフに手渡し、一礼して立ち去った。
テフは胸元から鍵を取り出し、その箱の鍵穴に差し込もうとして手を止めた。
「・・・この中に、何が入ってるか分かる?」
テトラは、箱を透視した。何かが、それを邪魔しているようだった。
彼女は集中して、全神経を箱に向けた。箱の中に詰まった闇を強引に掻き分け、その中心に秘められたモノを捉えた。
「石・・・大粒で透き通った・・・黒っぽい茶色をしてる。」
「・・・・!」
テフは驚いた表情でテトラを見つめ、感嘆のため息を漏らした。
「・・・ラシュが言っていた事は、まんざら嘘でも無いようだ。」「?」
テフは、鍵穴に鍵を差し込んで軽くひねった。小さな音がして、箱の蓋が少し浮き上がり、金色の光が漏れ出した。
彼はゆっくりと蓋を開き、その中に詰まった金色に発光する砂を慎重に指で掻き退けた。そして、テトラが透視した通りの石を摘み出した。
「・・・パイ?」
「そうだ。」
テフは、テトラの掌にその石を載せた。テトラは、そのゴツゴツとした大きなパイに見入った。彼女が始めて見るパイだった。
「何て言うパイ?」
テフは意味深に笑んだ。
「名前は、まだ無い。一昨日の夜、届いたばかりの新種だ。」
「!」
テトラは瞬時に悟った。
「・・・ホーグが倒した神獣の、大精霊石?」
テフは満足げに頷いた。
「試したのか?どんな力だった??」
テトラは、鼻息荒く尋ねた。
「うん、岩石を増強する力を秘めている・・・ここへ来る時、社の全貌を見ただろ?ぼくの部下がやり過ぎて、ああなったんだ・・・危うく、岩壁に飲み込まれるところだった。」
テフは、顔を顰めた。テトラは思わず笑った。
「そうだったのか、変な造りだと思ったんだ。」
「・・・大精霊石の事については、どれくらい知ってる?」
「神獣が、体内に1つだけ持つパイだっていう事ぐらいしか知らない。」
テフは少し乱れた呼吸を整えて、息声で途切れ途切れ語った。
「唯一無二で・・・永久に、崩れる事の無いパイだと考えられている。使用には、最善の注意が必要だ・・・それを操った初級アイオンは・・・精神力を使い果たして、寝込んでいる。あと少しのところで、心死にしていた・・・。」
「・・・・っ。」
テトラは不謹慎に笑ってしまった事を反省した。彼女は、テフが苦しそうにしているのを見て、慌てて寝台へ乗り上げ、箱と石を棚へ置いた。そして、彼の細い足を引いて身体を寝かせ、立てている枕を頭の下に敷きこんだ。
「・・・ありがと。介抱、慣れてるね。」
テフは、聞き取りにくい息声で礼を言った。
「・・・・。」
テトラは、白い袖に覆われた彼の腕に、何度も針を刺した痕がある事に気付いていた。それは、ある事実を示唆していた。
テフは心死にしている。こうして人と話せるのは、ハオマカビのエキスを濃縮した強力な薬物を打っているからだ。薬の効果が切れると人形のように動かず、何も話さなくなる。
彼は、今にも失いそうな我を賢明に保ち、テトラに何か言いたそうにしていた。テトラは、彼の額に手を当てて精神力を注ぎ込んだ。
「・・・・石を、耳に当ててみて。」
テフは朦朧としながら言った。
「使っちゃ駄目だよ?精神を・・・研ぎ澄ませて、石に耳を傾けて。」
テトラは棚から大精霊石を手に取って、言われた通りにした。
「・・・何か、聞こえない?」
「・・・・。」
テトラは、目を瞑って石に聴覚を集中させた。
「・・・どう?」
テフに伺われ、テトラは目を開いた。そして、テフを見つめた。彼は、テトラに期待の眼差しを向けていた。
暫く見つめ合った後、テトラはゆっくりと小さく首を横に振った。それを見て、テフは顔を曇らせた。
「・・・聞こえない?ホントに?」
テトラは頷いた。
「もっと・・・よく聞いてみて。」
テトラは、石を耳に押し当てた。そして、首を大きく横に振った。
「・・・そっか。」
テフは、期待を裏切られたとでもいうように呟いた。
「ごめんなさい・・・。」
「ううん・・・ぼくの、思い違いだった。」
「・・・・。」
「そうか・・・まだ、現れないか・・・・。」
テフは遠い目で力無く囁き、口を閉ざした。
濁ったガラスのような目で天井を見上げる彼を、テトラは暫く複雑な表情で見つめていた。そして石を箱の中に戻し、寝台から下りた。
寝室の外で待っていたヨミは、青い顔をして出てきたテトラを見て、急いで彼女に駆け寄った。
「・・・どうか、したのか?」
テトラは反応を示さなかった。彼女のただならぬ状態を見て、北官吏たちは慌てて寝室に駆け込んでいった。
「何があった・・・?」
不安げに尋ねるヨミに、テトラは首を振った。
「何も・・・早く、東に帰ろ。」
「・・・・。」
寝室から出てきた北官吏にイシュラが無事であることを確認したヨミは、白イタチを放心状態のテトラの代わりに受け取り、彼女を連れて北の社を出た。
舟の上で、ヨミはテトラに何度か質問した。テトラはただ首を横に振るだけで、何も話そうとはしなかった。




