第十九話
北の社。
薄暗い寝室の奥に佇む天蓋付き寝台の上に、1人の果敢なげな青年が寝そべっていた。青白く衰弱した身体、白灰色の髪、濁った水色の目には濃い隈ができている。
彼の死んだ魚のような目は、天井を見るともなしに見ていた。呼吸補助装置の音が、寝室に虚しく響く。
「テフ。」
聞きなれた低く静かな声に、青年は反応した。彼の虚ろな目に僅かな生気が宿る。重たげに首をひねり、その声の主を見やった。澄んだ琥珀色の目と目が合った。
「・・・全く、君は無茶をする。」
か細い息声で、テフは少し怒ったように目を細めて言った。
「でも、仕留めた。この通り生きてもおる。」
ヘルはにっと笑って軽く言ってのけた。
彼は寝台へ歩み寄り、その枠に腰を下ろした。そして手提げの袋から小さな鉢を取り出した。
「カミツレだ。」
「!」
テフは枕から頭を少し上げ、水色の瞳を輝かせた。
「〝箱舟〟から、取り寄せたのか・・・!?」
「ああ。」
テフは呼吸補助装置を外し、ヘルに手伝ってもらいながら上体を起こした。
「まさか・・・現物を見られるとは・・・!」鉢を受け取ったテフは、そこに植えられている植物の苗をまじまじと監察した。
そして、一輪だけ咲いた白い小さな花に顔を近づけて香りをかいだ。
「いい香りだ・・・。」
テフは、無邪気な笑顔で呟いた。
ヘルは、まるでその笑顔を目に焼き付けるように見つめた。
「・・・安眠効果が、ホントにあればいいのだがな。」
「よく眠れそうだよ。ありがとう、ラシュ。」
テフは目を瞑って香りをかぎ続けながら、独り言のように静かに語った。
「・・・キク科の耐寒性一年草。別名をカモミール。古い言葉で〝大地の林檎〟という意味だ・・・林檎の果実もこれと同じ匂いがするらしい。
〝子宮〟を意味するマトリカリアとも呼ばれていた。花言葉は〝従順、親交、逆境に耐え抜く力〟・・・旧暦2月14日の誕生花。ぼくが生まれた日の花だ・・・。」
テフが苦しそうに呼吸し始めたのを見て、ヘルは急いで呼吸補助装置を彼の口に覆わせ、鉢を棚へやって彼を慎重に寝かせた。
呼吸を落ち着かせたテフは、自分を不安げに見つめるヘルに微笑んでみせた。
「・・・そんな顔をするな。今日は、まだ調子がいい方なんだ。」
「・・・・。」
「今朝、ダカが来たよ。」
テフは思い出したように言った。
「あやつが?珍しいな・・・。」
ヘルは顔を顰めた。
「うん。ぼくが嫌いなのを知っていて、大量にサソリを置いていった。」
テフも顔を顰めてみせた。
ヘルは少し笑った。
「身体にいいんだぞ?」
「よくアレを平気で食べられるものだ。君の好物だろ、持って帰ってくれ。」
「そういう訳にはいかん。」
「遠慮するな。」
テフは一呼吸置いた。
そして、急に思い出し笑いし始めた。
「?」
可笑しそうに笑うテフを、ヘルは驚いて見つめた。
「バクに・・・〝カビ臭い〟って言った、例の少女・・・くくっ。」
「ああ、キラか。」
テフの笑い声を久々に聞いて、ヘルの硬い表情に自然と笑みが生まれた。
「ぼくもその場に居たかった・・・その子、一度ここに連れて来てよ。会ってみたい。」
「騒がしくなるぞ?五月蝿いの嫌いだろ。」
「たまにはいいさ。」
テフは真剣な目でヘルを見つめた。
「頼むよ。」
ヘルは彼の目を見つめ返した。2人は、暫く黙って見つめ合った。
「・・・分かった。」
ヘルは根負けしたように目を逸らして呟いた。
「俺はもう発つから・・・明日の午前中に、ヨミにでも連れて来させる。」
テフは満足げに頷いた。
「楽しみだ。」
「・・・会って驚くなよ?俺より霊感が強い。」
それを聞いてテフは目を見開いた。
「ホントに?嘘だぁ、それは・・・!」
「いや、見れば納得するさ。凄まじいアウラだ。」
「・・・・。」
テフが顔を曇らせたのを見て、ヘルは固まった。
「・・・お前、もう・・・見えないのか?」
テフは力なく頷いた。ヘルは何と言っていいか分からず、俯いて「悪い。」と呟いた。
「・・・ホーグ。」
「!」
不意にホーグと呼ばれ、彼は困惑してテフを見た。テフは、怖いほど真面目な顔をしてホーグを見つめていた。
「ぼくは・・・もう、もたない。」
「・・・・。」
「君との、野望を果たす前に、ぼくは・・・。」
テフは、一旦言葉を切って深呼吸した。そしてホーグを見据え、彼に言い聞かせるように一音一音はっきりとした口調で言った。
「先に、逝く事になるだろうから、謝っておく。」
ホーグは、瞬きひとつせずにテフを見つめた。
「何、弱気になって・・・。」
「ホーグ、すまない。ぼくは・・・ぼくにはもうアレが聞こえないんだ。つまり、もう君の力になる事が出来ない。」
「・・・・。」
「本当にすまない。」
テフは誠実に謝った。
ホーグは堪らず目を逸らし、怒ったような顔で低く呟いた。
「・・・聞く耳を失ったから、逝くのか?」
「・・・・。」
「俺が・・・あの力のためだけに、お前と関わっていたとでも?」
テフは首を大きく横に振って否定した。
「そ、そんな事、思ってない。でも、ぼくにとっては・・・あの音が、全てだったんだ。」
ホーグは鼻で笑った。
「・・・酷いな、俺は眼中に無しか。」
テフは思わず起き上がって怒鳴った。
「違う、そうじゃない!何で、そういつも皮肉ばかり言・・・っ!」
彼は激しい眩暈と胸の痛みに襲われて、咽ながらうずくまった。
「・・・・。」
ホーグはテフの痩せ衰えた身体を支え、背中を擦って彼が落ち着くのを待った。そしてゆっくりと寝かしつけた。
「・・・ぼくを、よく見ろよ。自分の足で、立っても歩けない。酸素の満ちた地下でも、こんな装置をつけてないと、呼吸もままならない。流動食だって、喉を通らない・・・。」
テフは息を切らしながら、弱々しく自嘲した。
「ホーグが羨ましい・・・太陽の下、砂漠の風に吹かれて、ぼくも、ガグルを追って思い切り走ってみたかった・・・。」
そう呟いて遠い目をするテフを、ホーグは直視できなかった。
「・・・君の足を引っ張りたくないんだ。アレを聞く耳を失ったぼくは、君にとって負担になる・・・そうなるくらいなら、死んだ方がましだ。」
「・・・・。」
「唯一の生き甲斐だったんだ・・・君のために、聖音を聞き当てる事が・・・。」
虚ろに天井を見上げるテフの目尻から、一筋の涙が零れ落ちた。ヘルは、それを袖で軽く拭った。
テフは、もうそれ以上何も話さなかった。僅かに開かれた水色の目には何も映ってはおらず、力が抜け切ったようにだらりと胴体に添えられた手は、ぴくりとも動かなかった。
「・・・俺は、どうすればいい?お前に・・・何がしてやれる?」
ヘルは、一切の反応を示さなくなったテフに囁きかけた。
その微かに震えた声は、呼吸補助装置の機械音に虚しく掻き消された。