第十四話
金で装飾された朱塗りの竜頭舟は、建物の合間を走る水路を静かに前進していった。穏やかに波打つ水面は、提灯の明かりが反射して輝いていた。
水が輝いている原因はそれだけではなかった。目を凝らして見ると、水底の白い泥の上を白く点滅発光する小魚が何匹も泳いでいる。
「・・・アレは、何だ?」
水の中を真剣に覗き込んでいるテトラの横から、赤鬼官吏の1人が彼女の視線を追うように水中を見た。
「あぁ・・・蛍魚ですね。地底湖に住む唯一の生物で、我々の貴重な蛋白源です。白亜(泥質の石灰岩)を食べ、最大2mにまで成長するんですよ。成魚は目が赤く光るので、赤目と名を変えて呼んでおります。」
彼はテトラに丁寧な口調で詳しく説明した。
「へえ~。」
「食された事があるはずです。地上では干物として出回っておりますので。」
彼は、それを確信しているように言った。
「?」
テトラは首を傾げた。
その官吏の声は、どこかで聞き覚えがあった。
「あ・・・うぐっ。」
彼女はその官吏を〝ゲオ〟と呼びたかったのだが、瞬時に彼の手で口を塞がれた。
「初級アイオンのヤミと申します。以後、お見知り置きを。」
「・・・・!」
テトラは何度も頷いて見せた。
彼女はヤミの迅速な行動力に感心した。彼は、昇降機の下でヘルに羽織を持ってきた官吏のうちの1人だった。官吏たちがつけているアバターや着ている服では区別がつかないが、テトラはアウラの色で、一人ひとりを認識していた。
神殿前で別れた直後、テトラが振り向いた時には既に彼はその場におらず、先回りして服を着替え、主を出迎えたのだ。
それ以上にテトラを驚かせたのは、彼のアウラ変化だった。ゲオだった時のアウラは、彼に霊感があるとは到底思えないものだった。今、彼女の隣にいるゲオと同一人物のヤミからは、強い霊感を所有している事がはっきりと感じ取れる。
「何で、地上ではアバターつけてなかったんだ?」
テトラは水面を見ながら、ヤミに声を潜めて話しかけた。
「いざという時に、私のファミリアを動かすためです。アバターをつけたままでは、奴らは言う事を聞かないので。ヘルの御命を狙う者は数多い、彼がホーグである間は特に。」
「・・・ふーん。それにしても、すごい変貌ぶりだな。」
ヤミは上品にクスクスと笑った。
「私の二重生活については、人に内緒ですよ?何かと・・・面倒なので。」
「・・・・。」
テトラは暫し考えた。
「あ、奥さんに逃げられたのって、それが原因の1つ?」
「・・・・。」
ヤミは、悲しげにため息をついた。
「ごめん・・・。」
「いいんです。どうせ、今日限りで〝彼〟は消える。御達しが下されたのでね。」
「・・・・あ。」
テトラは、地上でのホーグとゲオのやり取りを思い出した。
――――ベルーガが手に入ったからには、もうお前に用は無い。
「・・・つまらぬ事を言いました。忘れて下さい。」
ヤミはそう言って、テトラの背中をぽんと軽く叩いた。
「!?」
テトラは一瞬、眩暈を起こした。
「・・・あ、れ?ヤミ?今、何の話してた?」
「蛍魚の事でしょう?」
「ん・・・そうか。」
テトラは、腑に落ちないといった様子で眉間にしわを寄せながらも納得した。
彼女は、この時をもって〝ゲオ〟という存在を完全に忘れ去った。透視したはずの彼の顔、怒鳴り声、笑い声を全て。
ただ、ヤミが二重生活を営んでおり、その事を人に言ってはならないという彼の声が、頭の片隅でぼんやりと反響していた。
渡し舟は、アーチ状の岩壁の穴へと突き進んだ。穴枠の上には、白色と赤色で塗られた石彫りの竜頭が飾られている。
穴の中は、狭い鍾乳洞の水路になっていた。照明器具は取り付けられていない。蛍魚の光が、洞窟の中を幻想的に照らし出していた。その美しさに、テトラは息を呑んだ。
「天然の洞窟は東だけなんですよ。先ほどの大ホールや、南北、西、さらに地下二階にあたる中枢部も全て人工です。それに、東の社は〝聖域〟でもあります。」
ヤミが自慢げに説明した。
「聖域?」
「ええ、魔導師のインプや、悪霊が入れない神聖な場所なんです。北アク(ラシア)では唯一ここだけなんですよ?」
「それが理由で、東へ転職を願い出る官吏がいるほどだからな。相当の価値がある空間だ。」
別の官吏が相槌を打った。
猿男に刀剣を向けた官吏だと、テトラは気付いた。あの時は凄まじい殺気を放っていたが、鍾乳洞に入ってからはリラックスしているようだった。
彼だけに限らず、先ほどまで周囲を警戒していたナリやヤミ、ヨミとその他2人の官吏も緊張から解きほぐされていた。
「まあ、そう簡単には東官吏の座を手にする事はできませんが。13ヶ所あるバース圏内のコロニーで、最も競争率の高い就職先だと言われています。」
「そうそう、なんせ中枢部の高官になった後、ヘルに貢いで東官吏に成り下がった執念深い御方もいらっしゃるくらいだ。」
「ヤミにリョウ、軽口は控えなさい。」
ヨミがぴしゃりと注意した。
「確かお前もその1人だったかな、ヨミ?」
そう言ってヘルが首を傾げてみせると、ヨミは少々間誤付いた。
「ラ、ラシュトラ。そうやって貴方が甘い御顔を見せるから、彼らが図に乗るのです。」
「俺がいつ顔を見せた?」
ヘルは、怪訝そうに彼に聞いた。
「なっ・・・揚げ足を取ってからかうのはおよし下さい!」
官吏たちは和やかに笑いあった。
テトラは彼らのやり取りを見ていて気持ちが楽になった。一時は人離れした恐ろしいアウラを放っていた彼らも、本来は人らしい心を持った者たちなのだと彼女は確信した。
鍾乳洞のトンネルを抜け、ドーム状に広がった地底湖へと出た。
「うわぁ・・・!」
テトラは感嘆の声を上げた。
そこには、何本もの立派な鍾乳石が折り重なるように連なっていた。湖水は透明度が極めて高く、遥か下の水底が透けて見えた。
赤い目をした白く発光する巨大魚、セキメが悠々と水中を行き交い、舟を歓迎するように水面に小波を立てた。その水の輝きが濡れた岩壁や天井に反射して、洞窟全体が水に沈んでいるような不思議な感覚に陥る。
エスにこのような美しい場所が残っていたのだという事を知り、テトラは感動で胸が一杯になった。
「すごいな!こんな場所がまだ残ってたんだな!!」
彼女は瞳を潤ませながら、冷たく澄み渡った空気を胸いっぱい吸い込んだ。ヤミは少女の反応を見て満足げに笑いながら、袂から布袋を取り出した。そして、その袋の中から白い固形物をつかみ出し、幾らかテトラに手渡した。
「セキメの骨や鱗を粉にして固めた餌です。」
彼はそう言って、それを湖に高々と投げ入れた。
水中からそれを見ていたセキメたちは、水しぶきを上げて勢い良く跳ね上がり、大きな丸い口を開けて空中で餌に食らいついた。その瞬間、彼らの透き通ったヒレが発光石のように輝き、紅玉の目が美しく光った。
テトラも続いて餌を投げた。近過ぎたため、セキメたちの打ち上げた大量の冷水が舟に乗る者たちに降り注いだ。
「・・・・。」
皆は水を滴らせながら、責めの視線をテトラに向けた。
「ゴ・・・ゴメンナサイ。」
ずぶ濡れになって恐縮する少女を見て、ある者は呆れてため息をつき、ある者は声を殺して笑った。
湖の浅瀬から湖岸にかけて建てられた社殿が、鍾乳石の間に姿を現した。水に浸かる朱塗りの柱、白石の壁、鈍く重たげに照る金属瓦。回廊に囲まれた幾棟もの雅やかな建物が、灯篭の放つ柔らかな光の膜に包まれている。それが湖面に映り揺れる様は、言葉で表しようのない情緒ある風景であった。
大門前から水中へと伸びている白い石階段に舟が着けられた。階段の両脇に整列した白と朱色の装束を纏った狐面の官吏たちが一斉に跪いた。
「御帰りなさいませ、ラシュトラ・ヘル。」
手前の女官が、簡潔かつ敬意のある言葉で一礼した。細身で、赤茶色の髪を短く刈り込んだ、いかにも活発そうな女性だった。
「キナ、早急にこの子の身を清め、正装を。」
ヘルは階段を上りながら、彼女に指示した。
「男児物で、宜しいですか?」
「構わん。」
キナは、主に託されたアバターを持たぬ小汚い少女を、疎ましそうに上から下まで眺め回した。
「ラシュトラ、〝イシュラ〟様の御容体が・・・悪化されたとの報告を承っております。明日にでも、御見舞いに行かれた方がよろしいかと。」
官吏の1人が、深刻な面持ちでヘルに報告した。ヘルは一瞬歩みを止め、再び歩き出した。
「・・・カミツレは取寄せられそうか?」
「明日の昼には届く予定です。」
「流石だ。」
「キ、キャ―――っ!!!!」
「!?」
突如、キナが耳を劈くような叫び声を上げた。その場の全員が、見事な早業で武器を構え、臨戦態勢で彼女を振り返った。その迫力で、テトラは心臓が止まりかけた。
「ヘ、ヘル様!この子、か、か、影が・・・!?」
「・・・大声を出すな、驚くではないか。」
キナが叫んだ理由を察知したヘルは、安堵のため息をついて銃剣を下ろし、うろたえている彼女に優しく言い聞かせた。
テトラは涙目でヘルに駆け寄り、彼にしがみ付いた。
「だ、だって、影が、無いんですけど!!?」―――「!?」
当然の事、官吏たちは騒然となった。
動揺し、警戒する彼らにヘルは明るく言ってのけた。
「安心しろ。とりあえずは、無害な生物だ。」
「ホ・・・ヘル、そんな、い、言い方しなくたっていいじゃないかっ!」
テトラは顔を真っ赤にして泣きべそをかきながら、ヘルのわき腹を思い切り殴った。
「痛っ!」
「んなっ!?ラシュトラに対して何たる無礼をぉ!!」
ヨミはテトラの腕を鷲づかみしたが、すかさずヘルがそれを制した。
「ヨミ!乱暴は止せ。」
「何事だっ!!?」
「御怪我はありませんか、ラシュトラ!!?」
騒ぎを聞きつけ、建物の中にいた狐官吏たちが完全武装で飛び出してきた。テトラはさらに驚き怯えて、ヘルに力の限り抱きついた。
「何でも無いっ!見ての通り、こやつには影が無い。その事実を全員今すぐこの場で受け止めろ。」
「!?」
主の無茶苦茶な命令に、一同唖然となった。ヤミとナリの2人だけは、愉快そうに腹を抱えて笑っていた。
「急いでくれ、キナ。シャイマンを待たせる訳にはいかん。」
「は・・・はい。お、おいで!」
ヘルに張り付いている少女の腕を、キナは恐る恐るつかんで彼から引き離そうとした。ところが、恐怖で興奮状態に陥っているテトラは、ヘルを離そうとしなかった。
「わ、悪かった、俺が先に話すべきだったのだ。うっかりしておった。もう怖がらなくていいから、な?」
アタフタしながら少女をなだめるヘルの姿を見て、ヤミとナリはさらに大爆笑した。他の者は呆然としてその光景を見守った。
備考)
東官吏(武官・文官)のアイオン以上は赤鬼のアバターを被っているため、赤鬼官吏・赤鬼武官と呼ばれている。上級アルコン以下の東官吏および女官は小麦色の狐面。