第十三話
中央の泉前に屋形は止められた。2人が下車したその時、水路に架かる石橋の上から、甲高い笑い声が聞こえた。
「御帰りぃ、ラシュぅ。随分と早かったねぇ。」
その者の猫なで声を聞いた瞬間、ヘルのアウラが途轍もない憎悪の色へと変化した。
彼だけでは無い。ナリもヨミも、その他の官吏たちも吐き気を催すような敵意と嫌悪に満ちた凄まじいアウラを放った。
テトラは石橋を見やった。
そこにはケバケバしい2人の遊女と狸面で黒装束の官吏たち、そして派手な緑とコバルト色の衣をだらしなく羽織った男が立っていた。鼻から上だけの青黒いアバターをつけており、肥えて弛みきった青白い身体をくねらせながら、女のように赤い唇でキセルをふかしている。
「また数ヶ月は戻らないのかと思ってたよぉ。或いは、一生?」
その男の取り巻きが、不快な笑い声を上げた。
「・・・遥々、西の社から御出迎えとは痛み入る。バク。」
ヘルは懸命に湧き上がる憎悪を抑えながら、謙虚に愛想良く努めた。
「んもぅ、僕と君の仲じゃないかぁ。君がバオドを連れて入るのが視えたから、急いで出て来たんだよぉ。興味あるなぁ、ラシュが連れてくる子は魂の質が断トツにいいから・・・ねぇちょっと見せてよぉ、その子?」
西方を司る四天王バクシャのヌトは、そう言いつつ千鳥足でヘル達に近づいて来た。テトラは慌ててヘルの後ろに身を隠した。
それを見てヌトは、拗ねたように口をすぼめた。
「何も隠れなくていいじゃないかぁ。獲って喰いはしないよぉ、少なくとも僕自身はね。」
彼の意味深な発言に、ヨミが反応して前に出た。
「御無礼を承知ながらも、バクシャ様・・・。」
「御黙りっ!たかが中級アイオンの分際で千里を視し西の主、文神の名を口にするな!!」
太く轟く声で、ヌトは怒鳴った。ヨミは暫くヌトを睨んでいたが、ヘルの無言の指示を受けて引き下がった。
ヌトは「はんっ!」と、自分を睨んでいる東方の官吏たちに向かって鼻笑いした。
「・・・ラシュぅ、君は部下を甘やかし過ぎだよぉ。ま、気持ちは分かるよ?君がバオド好きなのは重々承知の上だ。けど犬猫を余り可愛がり過ぎると、主従関係に乱れが生じるぅ。寝首を掻かれないように気をつけないと、ね。」
ヌトは猫なで声でそう言い、太い人差し指で白狐の鼻先をつんと突いた。
その時ヘルの首筋に蕁麻疹のような鳥肌が立ったのを、テトラは見逃さなかった。
「肝に銘じて置く。悪いが失礼するよ、急ぎ用があるのでな。」
「あらん、どうしちゃったのかな?いつもに比べて覇気が無いねぇ・・・あ、そうそう!ラシュが勝手にここを抜け出した事で、我らがナビ〝シャイマン・シバ〟が此れまでに無くご立腹なさられてるよ?そりゃ怒るよね、こんな大事な時期に君が・・・流石に、今回はお咎め無しとはいかないだろうねぇ。」
「・・・・。」
あろうことか、ヘルが言葉に詰まった。
「ふふふ。あら?あらあら、あら!?何、この子ぉ・・・!美味しそう!!」
ヌトはその隙を突いてヘルの背中を覗き込み、テトラを見るなり甲高い声を上げた。
テトラはこの時、自分の嗅覚に馴染み深い臭いを小さな鼻で感じ取った。彼女は不愉快そうに顔を顰め、その悪臭に耐えられず鼻をつまんだ。さらに、我慢できずに鼻声で叫んだ。
「この人・・・(ハオマ)カビ臭いっ!」―――「!!」
その場にいる全員が凝固した。
一時の沈黙。そして、
「・・・ぶはっ!!」
堪えきれずに東官吏の1人が吹いた。
「ぷ、くくっ!」
それにつられて、ナリが吹いた。続いて、ヨミと残りの官吏も耐え切れずに「ぶふっ!」と、吹き出した。
「なっ・・・な、何をぉ・・・!!」
ヌトは、青白い肌に赤紫色の斑点を浮かび上がらせてあとずさった。
「ぶ、無礼者っ!」
鼻をつまんだままきょとんとしているテトラと、肩を震わせて忍び笑う東官吏たちに対して、西方の黒装束はうろたえながら怒鳴った。
「・・・口を慎め。」
ヘルは、声を震わせながらでテトラに囁いた。
彼は笑いをぎりぎりのところで噛み殺していた。
「な、何なの、この、う、薄汚い、小娘めっ!だ、誰に向かって、か、黴臭い、などとっ!!き、キェ――――っっ!!!!」
ヌトは唾を飛ばしながら喚き、奇声を上げた。
血圧の急激な上昇により眩暈を引き起こした彼は、泡を吹きながら地面に崩れ倒れた。
「ヌ、ヌト様!?」
「お気を確かにっ!!」
部下たちは慌てふためき、気絶寸前の彼を支え起こした。遊女たちは興醒めしたようにため息をつき、石橋を渡って去っていった。
テトラは、悪い事を言ってしまってヌトに申し訳なくなった。彼女は、恐る恐るヘルの背中から顔を出し、西方の連中に助言した。
「・・・あの、ハオマカビの多量摂取は心身に良くないよ?精神、肉体の両面で依存性のある有毒薬物だから、ほどほどにしないと重度の依存症に陥って他の病を引き起こす・・・〝キュービー(ガグルの一種)〟の巣に溜まる〝太陽蜜〟から抽出した水飴を、少量ずつ定期的に食べるといい。なかなか手に入る物じゃないけど・・・。」
「・・・・。」
悪意の無い純粋な少女の発言で、官吏たちの嗤いは静まった。
「そ、そのような俗世の食物を、神の御口にお入れする訳にはいかん!」
西方の官吏は声を裏返して、賢明な少女に反論した。
ヌトは意識を朦朧とさせながら、不安げな表情でこちらを覗き見ている少女に痙攣する腕を伸ばした。
「ヒッ・・・タ、ミ、フ・・・ヘ・・・・ハフッ。」
彼は奇怪な声を出して、ぱたりと気を失った。
「ヌト様?ヌト様―――っ!!」
テトラは真っ青な顔をして、前方の様子を窺っていたが、
「気にせんでよい。行くぞ。」
ヘルに手をとられ、泉の桟橋に着けられた渡し舟に乗り込んだ。