第十一話
3人が扉の中に入ると、先ほどの子を背負った母親が白い石床に平伏していた。
「コ、この度は、し、神殿への立ち入りを、ご許可して頂き、真に有難く・・・この、ご恩を一生忘れはしません!ヘル・アイオン、何なりと、お、お申し付けを!」
若い母親は声を裏返し、言葉を詰まらせながら必死で感謝の意を述べた。
ホーグは嫌気が差したように「はっ」と息をつき、彼女の前にしゃがみ込んだ。
「おい、俺を見ろ。」
「そ、それは・・・それ、だけは・・・。」
彼女は酷く怯え、うろたえた。
「アイオンを目にすれば魂を抜かれると、本気で思っておるのか?」
「・・・・。」
「くだらん。その体勢では、子が苦しいだろうが。目は閉じたままでよいから頭を上げてくれ。」
母親は目をしっかりと閉じ、恐る恐る少し上体を起こした。
「よく聞け。地下と地上では、苦しみの種類が違う。地下では酸素も水も、食糧も充分にあるが、いつ何時ファミリアの餌にされるかわからん。冷酷非道なパイマーたちが集う場所だ。立ち入るには覚悟がいる。酸欠で死んだ方が楽だと思える時もある。発狂し、自ら命を絶つ者もおれば、それさえも出来ぬ無気力状態に陥る者もおる。これは脅しなどではない。」
ホーグは淡々と早口で語った。
「覚悟があるなら、俺の社に置いてやる。俺はよく留守にするが、その間が特に危険だ。ついこの間、糞アイオンのファミリアが留守中に侵入して官吏のアルコンを何人か喰いやがった。そのような事が、日常茶飯事に起こる場所だ。」
テトラはこの時、先ほどラビが言っていた事を理解した。
「・・・・っ。」
「それでも地下を選ぶか?それとも地上に残って職に就き、飢えに耐えて生きるか?その場合、幾らかキューブ代を貸してやろう。」
若い母親は、震えながら考えていた。
ホーグは少し間を置いて、彼女に答えを求めた。
「地下へ来るなら、俺を見ろ。地上に残るなら、そのまま目を閉じておれ。」
母親は葛藤していた。彼女は酷く震えながら上体を起こした。目を開けるか開けまいか、迷い揺れていた。
目蓋がほんの少し開かれたように見えたが、彼女は地下存在への恐怖心に耐えられず、再び平伏した。
「・・・・。」
ホーグは袂に手を入れ、セルとなる水流石を取り出した。そして、床の上にことりと置いた。
「1ヵ月分だ。俺が死ぬ前に返せ。」
若き母親は、床に額がめり込まんばかりに頭を下げた。ホーグは立ち上がり、彼女の脇を通って神殿の奥へと向かった。その後をリウォは足早に追った。
テトラは少しその場に留まって、平伏している母子を見つめた。母は震え続けていた。幼子は淡い茶色の瞳を大きく見開いて、きょとんとした表情でテトラを見上げている。
「・・・この子、霊感が強い。きっとパイマーに成るよ。」
「え・・・っ!」
母親は酷く驚いて、我が子を振り返って見た。
「それに、ホーグをしっかり見てた。彼が危険じゃないと分かってた。次に会った時は、彼を恐れず見てやってくれないか?変な奴だけど、いい人なんだ。」
テトラは彼女の目を覗き込んで囁いた。
「・・・は・・・はい。」
母親は、神秘的な色合いをしたテトラの瞳を見つめ返し、ゆっくりと頷いた。テトラは彼女に少し微笑んでみせ、ホーグたちの後を急いで追った。
金色の列柱に挟まれた幅広い身廊の奥には、鉄柵で囲まれた昇降機が備えられていた。その左右には槍を持った獣頭の巨大石像が立ち、昇降機のアーチ上には大きな獅子頭が、見開かれた鋭い石の目で身廊を見下ろしていた。まるで、侵入者を監視しているようだ。
鉄柵の前で、真新しい黒装束に白い仮面をつけた5、6人の官吏たちが集まり雑談を楽しんでいた。身廊の左右に並べ置かれた大理石の長椅子に寄り掛かって寛いでいるその優雅な様は、先程まで見てきたモノはまるで違う次元の光景であった。
彼らはホーグの姿を捉えると、驚くほど素早く通路の左右に退いて跪いた。彼らがホーグに対して畏敬の念を抱いている事は一目瞭然であった。
「地を支えし東の主、武神〝ラシュトラ〟ヘル・アイオン・パイマー。御無事に御帰還なされました事、心より祝福の意を申し奉り・・・。」
「必要無い。」
早口で抑揚の無い官吏の辞令を、ホーグは途中で遮った。
「御意・・・。」
その官吏はテトラに気付き、彼女に鋭い視線を送った。
「・・・恐れながら、その御方は?」
「連れのパイマーだ。迅速に願う。」
官吏は深く頭を下げて一礼し、素早く立ち上がって鉄柵門を開けて中へ入った。そしてゴンドラの開閉レバーを引き、鉄格子の扉を開いた。
3人とその官吏がゴンドラに乗り込み、別の官吏の手で格子が閉められた。滑車がゆっくりと回り出し、鉄板に囲まれた籠は降下し始めた。
「!」
それは、一気に速度を上げて落下した。
テトラは無重力感に不意を突かれ、思わずホーグの腕にしがみついた。その瞬間、前に立っている官吏が恐ろしく俊敏にテトラを振り返った。
のっぺりとした白い仮面に突然振り向かれたテトラは「ひっ」と悲鳴をあげた。
「・・・・。」
官吏はテトラを暫く黙視していが、ホーグが彼に軽く首をかしげてみせると、直ちに前に向き直った。
数秒もしないうちに、徐々に落下速度が落ち始めた。そしてゴンドラは不思議なほど全く揺れずにピタリと停止した。格子の外にある石扉が、ゆっくりと左右に開き始めた。
その時、石扉の向こう側からただならぬ異様な冷気が、薄暗いゴンドラの中へと流れ込んできた。
「・・・・っ!」
テトラは、全身に鳥肌が立った。彼女は露出した腕で自らの身体をかばうように抱きしめた。その冷気は、いくつもの強大なアウラが反発し合い、交じり合ったモノだった。数多くの強力な霊体の気配もひしひしと伝わってくる。
待機していた白装束に赤鬼の面をつけた官吏によって格子が開けられた。目の前には、暗く陰湿な異世界へと続く仄暗い列柱廊が広がっていた。ホーグとリウォは足早にゴンドラから向こうの世界へ降りていった。
「ラシュトラ、御無事で何より・・・!」
2人の赤鬼の官吏がホーグに駆け寄り、深々と一礼して用意していた純白の長羽織を彼に羽織らせた。
テトラは、ゴンドラから出られなかった。地下に満ちる異質な空気に、彼女は気圧されていた。身体が震えた。すぐにでも、逃げ出したかった。
気後れして降りられないテトラを、ホーグは扉のすぐ外で黙って待っていた。ゴンドラの天井に吊り下げられているランプの灯が、血の気の引いて青白くなったテトラの顔を照らしている。彼女の大きく見開かれた目は、得体の知れない地下の存在に怯えきっていた。
「・・・社の上、アバターを持たぬ御連れの方は、地下への立入りは難儀かと・・・。」
赤鬼官吏の1人がホーグの耳元で囁いた。
「下がっておれ。」
「御意。」
その官吏は、長い袖口を赤い面の前で合わせて後退した。
「・・・・。」
ホーグは黙ったままテトラを見つめていた。
テトラはその視線を感じながら、俯いて目を閉じた。
彼女は頭の中で自問した。自分がここへ導かれて来たのはなぜか、と。その答えは扉の外にある。テトラは、深呼吸をして顔を上げた。そして白い目蓋を開き、目の前に立つ白狐を見上げた。
「・・・・。」
彼は〝ガグル・ハンターのホーグ〟では無かった。ホーグとは比べ物にならない強力なアウラを、その者は放っていた。ちょうど、ホーグが巨大ガグルを目の前にした時、彼の身体を裂いて溢れ出ようとしていた闘気が、制御を解除され一気に解き放たれたモノのようだった。
いや、それ以上といっても過言ではない。彼の白く発光するアウラが、その他のアウラを制圧し、冷気と闇を廊の端へと追いやっていた。
テトラは身震いした。今、目の前に立っている者が異形の存在に見えた。もしかしたら、途轍もないモノについて来てしまったのではないかと思い、彼女は背筋がぞくりとした。
自分は、妖にでも化かされて踏み入ってはならない領域に、誘い込まれようとしているのではないだろうかと、彼女は急にその白狐が恐ろしくなった。
ヘル(ホーグ)は少し首を傾げて、自分を凝視する少女にゆっくりと手を差し伸べた。
「―――おいで。」
その不思議なほどによく通る冷たくて静かな声に、テトラは逆らえなかった。震える細い腕を伸ばし、彼の手を取ってゴンドラから降り立った。面の下で、ヘルが微笑した気がした。