世界一幸福な男の極めて理想的な家族
「オリバー、早く起きなさい! 遅刻するわよ」
妻が息子を呼んでいる。
息子の部屋からは眠そうな返事とガサゴソと動き出した音が聞こえ出した。
黄色と白のマーブル模様を描くスクランブルエッグにケチャップの鮮やかな赤が映え、トーストの焼き目も上々。上に載せたバターがじわりと溶けていく光景は筆舌に尽くし難くコーヒーの温度も申し分ない。
完璧な食卓が我々を待っていた。
「いやぁ、今日も最高の朝だ」
ちらりと目を向けた空には重く黒い雨雲が張り付いているが、それすら気にならないほど心地よい。
眠い目をこすりながら起きてきた息子と共に朝食を摂る。
「パパ、今日は友達とサッカーをするんだよ」
「オリバー、今日は雨降りだぞ」
私は笑いながら息子の頭を撫でた。
息子は早々に食卓を離れ、リュックを背負って玄関に向かった。
玄関の靴の脇には妻が用意した傘がそれぞれ添えられている。
「いってきまーす!」
息子は子供用の青い傘を手にドアノブへ手を掛け、そのままバタリと後ろへ倒れ込んだ。
キリキリキリキリ……ネジが巻かれる音がして逆再生のような動きで息子が立ち上がる。
履いたばかりの靴を脱ぎ揃え、傘は傘立てへ。
そして滑るような動きで音もなく自室へ移動した。
私は一連の動作を見守ってからリビングへ戻る。
リビングから続くキッチンでは妻が食器を洗っているところだった。
食器を手に取り、スポンジでこすって、泡を水で流すと食器カゴに並べる。
規則的な動きでその動きを繰り返す妻だが、時おり食器を掴み損ねて空気を掴み、空気をこすり、空気を水で流して空気を食器カゴに並べている。
この点は改良の余地がありそうだ。
「そろそろ行ってくるよ」
妻が食器を洗い終えたのを確認して私は声を掛ける。
「お夕飯はいかがなさいますの?」
「うちで食べる」
「わかりましたわ」
妻はにこやかに答えて、私を見送るために玄関まで着いてきた。
「いってらっしゃいませ」
手を振る妻に見送られ、私は家を出た。
妻の用意してくれた黒い大人用の傘を片手に。
向かう先は自宅の隣にある離れだ。
「おはよう。待たせてしまったね」
私は声を掛けながらスーツケースの蓋を開けた。
その瞬間にふわりと香るのは摘みたての薔薇の花。
スーツケースの中には薔薇の花に埋もれるようにして器用に身体を折りたたんだ少女が横たわっている。
ただのガラス玉に過ぎないはずなのに複雑に光を反射する瞳とシミ一つなく透き通るような白い肌。血が通っているような淡い紅色の頬と愛らしくやわらかに見えるくちびる。
顔を寄せれば彼女の体臭は天然の薔薇の香水で彩られていた。
まさに芸術品と呼ぶべき存在の前に私は跪く。
今はまだ一体の人形に過ぎない彼女に、これから命を吹き込む。
神にも勝る所業の前に私はひとり高揚した。
「あぁ、ローズ。君を我が家に迎え入れることができて私は本当に幸せだよ。
家では君の母親や弟が待っている。君の部屋にはもちろん天蓋付きのベッドを用意したよ。服も家具も全て一流のものを揃えてある。
当然だろう? 私を捨てたあの忌々しい女たちと君は違うんだ。君はこれから永遠に幸福な暮らしを手に入れる。私とともに、ね」
恍惚の表情で人形に語り掛ける男は、かつて世界一の天才人形師と呼ばれていた。
彼が手掛けた作品はひとつで一人の人間が一生のうちに稼ぐ金額をも凌駕すると言われるほど高額で取引されたという。
しかし、莫大な富と名声と引き換えに失ったものも多かった。
その最たるものが家族だ。
妻子を失った男ははたと我に返り、己が本当に欲していたものはこれだっただろうかと自問自答した。
そして、独りになった男は表舞台から姿を消し自らのために人形を作り始めた。
知人が彼を訪ねてきた時にはもう、彼の正気はとっくに失われていた。
精巧なカラクリによって動き、最新鋭の人工知能で喋る人形を生身の人間のように扱いながら、それでいて彼自身まで人形になってしまったかのように規則的に動き規則的に笑い規則的に暮らしていたという。