第一章 月と帰路
「珍しい方でしたわね」
一人ペースを落として歩くタイラーが朝露のように消えてしまわないか後方を確認をしながら帰路を辿っているとパティはそう呟いた。
「うん。優しい人だった」
「今は排斥派の勢いがなくなっていることも要因の一つかもしれませんわね」
「排斥派?」
左手を繋いだユニの頭頂部から横を歩くパティへと視線を移す。彼女の二つの碧が涙越しの月のように揺らいだ気がした。
「えぇ。……以前富裕区に住んでいた頃はそう言った話が入ってきましたから」
背負う夕日に陰り、美しい碧はその明度を落としている。釣り目がちな彼女の目じりは少しだけアーチを緩めた。
「ご、ごめんね」
「何故謝りますの? 排斥派は文字通り魔女を危険な人物としてその……排斥すべきとする意見の方たちのことですわ」
脳裏に森が焼き払われる光景が浮かぶ。夏季前節になれば芽吹き始める野花、アリアの成長と共に太さを増した木々たち、そして愛おしい魔女の民とテントが炎により形を失っていく。それは彼女の物差しで世界の終わりと形容できる恐ろしいビジョン。
「今では穏健派が実験を握っているでしょうから多少寛容な見方も広まっているのやも知れませんわね」
パティは両手の指を組んで頭上に、追って背筋を伸ばした。緊張と緩和、はぁ、とため息混じりに手を下ろすと、彼女の正面に大きく姿を伸ばした影を羨望のまなざしで見つめている。
「アレクサンドリア以外にも魔女はいるんですのよね」
「うん。少なくともキキちゃんはリンドブルムから来たらしいからこの大陸中にはいるんじゃないかな」
「……その中には魔女が人間らしく過ごせる地域もあるのかしら」
返事に詰まる。アリアは集落以外の生活を知らない。それは貧しいことではあるが、決して不幸なことではなかった。反して彼女は上質な生活を"知ってしまって"いる。
週に一度の肉が食卓に並ぶ日、牛や豚は珍しく安価な羊肉が主だがそれはアリアにとって贅沢に当たる日だった。食事当番は必ず班長の一人レイナが務め、アレクサンドリア馴染みの料理や地方のレシピを織り交ぜて腕を振るい、各々が舌鼓を打つ。
しかし集落にパティがやって来て初めてのその日。肉を眼前にしその匂いに鼻と眉間に皺が寄り、口に含めど咀嚼のペースが落ちていたことをアリアは未だに覚えていた。
「……やっぱり今の生活は慣れない?」
アレクサンドリアの富裕区は城下町よりも一層高い場所に造られており、周囲を取り囲む外壁にはそれぞれ銀騎士が配備されている。以前パティがこの集落にやってくる前にタイラーが隙を見て壁をよじ登ろうと画策していたがその警備の厳重さに諦めたほど。
鼠の一匹も逃さぬといったそれはまるで牢獄であり、拒絶の意思の表れだった。
素直な心配から生まれた言葉だったが、彼女がどう捉えるか。それを意識した時アリアはハッと口をつぐんでしまう。
「……いえ、そういうことではありませんわ」
「それって……」
また彼女が慈しんでいる未開の雪原を踏み荒らしてしまったか。反射的にユニの右手を握る力が強くなる。しかし切なげな声とは裏腹に彼女のまとう金糸は闇の中で煌々と存在感を保っていた。
「恥ずかしながら富裕区に住んでいるときは魔女は異形の怪物だと思っていましたの」
「えっ?」
「おとぎ話のように鷲鼻でしわくちゃで、背の高い帽子と黒いローブ、ひとたび魔法を使えば竜に変身したり、強大な力で国を滅ぼす――そんな存在だと思っていて」
そんなわけ、と浮かんだ言葉は露と消えた。アリアとて今でこそ弁えてはいるが、エリンや先代の魔女たちから教育を受けるまでは人間は日頃からテントで暮らすものだと信じて疑わなかったもの。
それを払拭できたのは十六年間生きてきて自然と身についた常識というものだった。
日は半分ほど姿をくらませてしまい、影は更に大きな闇に溶けて消えかけている。幼いころエリンと楽しんだかげぼうしをするにはもう遅い時間だ。耐え難い寒さが押し寄せ、日中の暖かさありきの装いを貫通して骨が冷え始める。同じ感覚なのかユニは静かにアリアに身を寄せ、その熱を食さんとしていた。
「けれど私も魔女とならざるを得ない状況に置かれて、実際に魔女として力を得て、魔女として生きて今までの常識や価値観は間違っていたと感じましたの」
口元に手を当て、先ほどのため息よりも長い息を吐く。アリアはふと後ろを確認した。タイラーは相も変わらず奴隷に対して用いられる鉄球を引きずっているような重い足取りを続けている。
「そう。あのタイラーのように魔女と言っても人間と変わりませんもの。喜びがあって、悲しみがあって、怒りがあって。やはり幸せを願っている」
視線に気が付いたパティはアリアと同じように一瞥すると話に彼女を重ねた。
「意思がある以上、虐げられるのは屈辱というもの。ただ抗うには厳しすぎる流れだと感じていましたの」
「パティちゃん……」
彼女はきっと鳥になりたかったのだろう。富裕区という籠も、魔女という枷も取り払って。今パティを取り囲む全てがその羽を折り続けているのだと知らせるように森はアリア達を飲み込んだ。
その中を迷うことなく、一直線に彼女たちは進んでいく。
「お早いお帰りで」
エプロンを身に着けたグリフに迎えられ、アリアは班員たちから離れた。どうやら夕食の準備には間に合ったようで今度は遅れぬように自身も慣れた手つきでエプロンを着る。そしてスカートのポケットから包みを取り出した。
「はい、これお土産」
「私に?」
アリアは班ごとに買った菓子とは別に普段世話になっている数人に向けて個人宛のお土産を用意した。特にグリフとはことあるごとに物であったり、茶葉などの消耗品を送りあう仲だった。
「これは……髪紐かな? きれいな模様だ」
「ダリ織りなんだって。細かいよね」
アリアはグルグ大陸のおおよそ中央に存在する村の名前を上げる。グルグ一の広さを誇るクェンティス大平原の東端に位置し、アレクサンドリアに比べて温暖、海も近く漁業で成り立っている小さな村だと髪紐を広げていた露店の主は語っていた。
「ありがとう。大切にするよ」
大なべに水を沸かしながらグリフは今留めてある簡素な紐を解き、アリアから受け取ったダリ織りで襟足に同じく尻尾を結わえる。
「さぁ、作ってしまおう。みんなお腹を空かせているだろう」
主に各テントの中で行われる夕食をグリフと二人で配膳していく。盆に置かれた皿は三枚。それぞれに芋のスープ、パン、イワシの塩焼きが彩られている。
パンは出来合いだが、今日アリアが担当した芋のスープは自身の中でも上々の出来であり味見をしたグリフも目を丸くする。その時ばかりは地平線のように平らなアリアの鼻が少しだけ、ほんの少しだけ伸びてしまった。
しかしそれは当然と言えば当然で、食事当番として週に一回これだけの量の料理を作る機会がある以上、そして女である以上、自分が作る料理には誇りと小さなプライドを持って作っているのだから仕方がない。十代後半に足を踏み入れたアリアにとって花嫁修業の第一歩だった。――結婚できるかはどうかはさておき。
料理が冷めてしまう前にまずは比較的年長者が集まったエリン班。次にタイラー班と同じく若年層が固まり、グリフも属するキキ班。その後に傷病者がメインのレイナ班へ配膳を終える。
「さて、最後だね」
「あ、その……グリフちゃん。今日は私だけで運ぶよ」
グリフが目を細める。
「大丈夫? 四人分も持てるかい?」
他班にしたように二人で二人前ずつ持つ方が安全で速やかなのは確実だが、グリフを自身のテントに招き入れたくない理由が今日はある。
「タイラーちゃんが落ち込んじゃってて。多分他の人にも会いたくないだろうから……」
「また何かやらかしたのかい?」
アリアの表情と反比例してグリフがその耳を大きくしている。さながらコウモリだ。だが彼女は必要以上に物ごとに首をつっこまないことをアリアは知っていた。
「ちょっと……ね。だからグリフちゃんは先に戻ってご飯食べていて」
「そう、か。わかったよ。じゃあおやすみアリア」
大きくなった耳はすぐにその姿を消し、温かみを内包した氷の微笑を浮かべてグリフはテントへ潜りこんだ。アリアはため息とは違う深い息を吐き、最後に残ったタイラー班に重い足取りで四人分の食事を運び始める。
「…………」
「もういい加減機嫌を直したらどうなんですの……」
タイラー班のテントは予想通り静寂に包まれていた。食事に夢中になるユニの食器が触れ合う音がひたすら響き、さながら雨の日の午後に体にまとわりつく湿気が充満しているようだった。いつも床に胡坐をかき、騒ぎ立てるタイラーが珍しく備え付けられた椅子に座り頬杖をついてアンニュイな表情を浮かべているからだ。
「タイラーちゃん。ご飯食べないと……」
「わかってるよー……うん。食べる食べる」
人の小さな失敗は笑って吹き飛ばすというに自分のミスに関しては大小区別なくひたすら卑屈に自分自身を攻め続ける。キキ曰く彼女の一番面倒くさい一面が姿を現していた。
「明日はお留守番なんだから。お客さん来るかもしれないんだよ?」
「そうだよなぁ。尚更今日しかチャンスはなかったんだよなぁ……」
「うっ……」
タイラー班のテントはいつの間にやら狼の巣に場所を移したようだ。どうすれば狼の尾を踏まずに歩くことが出来るのかと思案していると静かに食事を終えたパティが立ち上がり目を細める。
「演劇など来年見ればよろしいでしょう。銀騎士に見つかっておいて無事帰れただけでも良しではありませんの」
視線は一意にタイラーに。先程のように移ることなくまっすぐに構えられていた。
「うん、まぁ、そうなんだけどさ……」
「いつまでもぐちぐちと……らしくありませんわ。しゃきっとなさい」
自らの意見を述べると言うことは様々な要素が必要になるとアリアは常々考えていた。
発言する勇気、意見を建設的に構築するということ、聞き手の受け取り方。そのどれもがアリアに不足している要素であり、パティをパティ足らしめている要因の一つだとまるで靄が一斉に晴れた穏やかな日中のように悟る。
毅然と語るパティはさながら政治家のようでアリアが仮に投票する資格を持っているならば声を上げるに違いない状況だった。
「さぁユニ。貴女も食べ終わったのなら食事を片付けましょう」
「うん……アリア、美味しかった。……ごちそうさま」
「それは良かった。お粗末様でした」
ユニも満足げな微笑を浮かべている。彼女の線はグリフに負けず劣らず柳のようで、一度強風がその体を煽ればたちまち飛んで行ってしまうだろう。満足に栄養を摂取させてあげられないことを常日頃からエリンは嘆いている。
私も早く食事を取って休んでしまおう。明日にはきっと元通りになっているはずだ。




