第二章 開戦
遠く霞むガルガンの山肌はひんやりと光を反射していた。
ほんの二週間前ならば心地のいい日を全身に受けながら読書をして、時折トラブルメーカーが持ち込む事態を解決して。かわいい年少の成長を見守って。そんな日々がこの先も続くと思っていた。
一際大きなラッパが背後から鳴り響いた。それに呼応するようにして相対するリンドブルム帝国軍からもラッパがけたたましく声を上げると敵軍の証である黒鋼の鎧が行進を始める。クェンティスに砂埃が舞い始めた。帝国の旗や、伸身槍を携えてスピードを増し大平原を馬で駆ける黒鋼たちはアレクサンドリア軍から数百メートル先頭に待機する私たちへ接近する。
一人一人はまだ豆粒のような大きさの敵軍だが、筋肉を躍動させる馬たちの蹄と士気を上げんとする戦士の叫び声が讃美歌の様に徐々に聞こえ始めた。
人を、生物としての同種を殺すということ。種の繁栄を考えた時に禁忌とされる行為。その一線を越えてしまう瞬間が私にとって最高の一瞬なのだ。
柔らかい肉を裂き、その隙間から覗く白百合の様な骨を断ち、吹き出す鮮血が地を濡らす。どんな芸術も及ばない至高の光景を私は見たい。私自身が死ぬまでに殺して殺してその光景を瞳の奥の奥底まで焼き付けてから死にたい。
そんな私を仲間たちは知らない。
一応弁明しておきたいのはこの感情が過ちだということ、狂っているということは自分が一番よく分かっているんだ。だからそんな理性の枷すら軽く壊して見せるほどにこの感情が大きいことも分かってほしい。身勝手だと言う輩もいるだろう。
あぁ。屈強だ。鎧に包まれていれど分かる。彼らを乗せる馬には興味がないんだ。その鞍を挟み込む内転筋、鞭を打つ前腕、続く上腕二頭、三頭筋、さらには僧帽筋、大胸筋、全てを支える広背筋。
切り刻みたい。早く、速く。
「え、エリンさん、私」
視界の端が白く濁り、中央に集中していた意識がフッと羽ばたいた。君はいつも弱気だねロイ。
「大丈夫だ。私が先に行くから」
今の私はいつものように笑えているだろうか。内から湧き上がるどす黒い狂喜を仮面で覆い隠して私は一歩前に出ながら眼帯を外す。悟られてはいけない。彼女らの前では"優しくて厳しいエリンさん"で私はいなければならないんだ。
我を忘れてしまった二週間前。女の身でありながら戦争に参加できる千載一遇のチャンスに目が眩んだ。
もちろんあの日十六人の前で語った気持ちに嘘偽りはない。金はもちろん城下町への出入り許可証は喉から手が出るほど欲しい代物だ。しかしどちらの気持ちが心の過半を占めているかと問われてしまえば私は笑顔でそれに回答できないだろう。
だが結果として巻き込む形になってしまった仲間だけは生きて返す。それだけが"長"としての役目であり残された矜持でもあった。
『千の刃、万の剣、喝采の左手、弱者の足跡……』
まったく私の契約した悪魔は烙印を目に刻んでくれたものだ。若干の視力は残っているものの、この瞳を通して認識できる世界は余りにも酷く歪んでいる。おかげで眼帯は日常生活の必需品になった。
しかしそれがまたスパイスとなって私の作品を一段上の段階へ押し上げてくれるんだ。この光景を共有できないのがとても心残りなんだけどね。
先日設営した私の供物である丸石を、両の手で作った三角形越しに、眼前に捉える。河川で他の石とぶつかり合い、その角を失った彼らはどれも歪な円を描いていた。
『潮の塩とニルヴァーナの雷光を以って契約を履行せよ・・・…』
春季になると緑色にその肌を変えるクェンティス大平原の乾いた土から無数の鎌が生え、その石を細かく、鋭利に切り刻んでいく。砂かと見間違うほどに小さくなった石はやがて地面へと吸い込まれていった。
「エリンさん! もう!」
「……もう少し、引き付けたい」
豆粒ほどだった軍勢は、既に旗の模様を細かく視認できる距離まで近づいてきている。
さぁ、おいで。もっと声を上げるんだ。槍を掲げ、旗を揺らし、私の胸に飛び込んでおいで。力いっぱい愛してあげるから。
リンドブルムの兵は徴兵によって集められたものなのだろうか。それとも志願兵? 故郷に家族を残してきた者もいるだろう。
――だめだ、堪らない。
三角形を解く。指先が興奮で震えていた。手のひらは丸石に向けたまま腕を左右に広げて機を待つ。まだだ。我慢するんだ。殺したい。まだ、まだ――。
クェンティス大平原を山脈から見下ろす後衛部隊にもその様子ははっきりと目に映った。
といっても事態を正確に把握できたのは仲間の魔法をそれぞれ知りえた魔女たちだけであり、同じく後衛部隊として様子を伺う雑兵達には何が起こっているのか、そもそも目の前で起こっていることは現実なのかはっきりと判別がついていない。
数秒前まで勢い猛々しく進軍を続けていた黒鋼の軍が先頭から順に崩れていく。その後ろに続いていた砂埃さえも切り裂いて、およそ千は下らない軍勢が先頭から中ほどまで次々に紅をまき散らしながら勢いを失っていった。
「エリン……」
「……始まりましたわね」
レイナが伏し目がちに名前を呼ぶ意味を推し量りかねたそれとなくパティは相槌を打つ。
「お、おい! 貴様ら! あれはどういう状況だ!」
魔女が理解できた状況を理解できない己に腹がったのかサリは眉間にしわを寄せてパティに詰め寄る。ずかずかと大股で歩み寄ると勢いそのままに背中に対して地の底から発されたような大声を上げた。
「私たちの長、エリンがその魔法を使っただけのこと」
「それは分かっている! 何をした! 何が起こったのかを教えろ!」
サリは背を向けたまま目線を合わせようとしないパティの左肩を乱暴につかみ、無理やり視線を交わす。振り返った彼女は微塵も揺らいだ様子がなかった。
「私どもの魔法は小難しいことは出来ませんわ。昨日使った魔法も私めが使えるたった一種類の魔法」
「今起こったのは、あれはなんの魔法なんだ」
「至極簡単、『断ち切った』だけですわ」
まったくと言っていいほど起伏のないパティの言葉とその水晶のような深い瞳に苛立ちをぶつけていたが、次第にその表情は穏やかになり、やがて畏怖を物語る。その中には静かな興奮も入り混じっていた。
当然だろう。エリンが手を叩いた瞬間にあれほどの軍勢が死に絶えたのだから。女が一人でこの戦果を挙げたのである。
「こんな戦……負けるわけがないじゃないか……」
冬季の痩せた土が徐々に赤色に染まっていく。
視界が先程の比にはならないほどの白で包まれ、末端からやってきた痺れは私の体中を駆け巡り、一際強く頭の奥が痺れた。快感に全身が震え、涙が零れそうになる。
生というものは途方もないエネルギーだ。目標なんてあいまいな形の無いものを打ち立て、確約されていない未来を掴むためにもがき苦しみながら突き進む。茨をかき分けた方がまだ生ぬるい。死はそんな苦しい生からの解放なんだ。おやすみと言ってそれぞれが夜の闇に沈むように、長く険しい人生を最大の優しさを以て解き放つ。この行為が愛だとは言わない。だが、愛に近しい何かだと私は思っている。
声を出す間もなく私の『切断』を受けた群衆は真紅に染まった。血の海、いや地獄絵図か。陳腐な言葉しか浮かばない自分に若干の憤りを覚える。
さて、残党狩りは後ろに控える一番隊に任せる手筈。ラナールを呼ばなくては。薔薇の香り交じりの空気を胸一杯に吸い込み、私は口を開いて。
「……っあ」
声が出ない。
私の欲望が爆発してその心に身を委ねたおよそ二十年前の快感はほんの数秒前まであれほどまでに強く脳裏に焼き付いていたというのに今は断片しか思い返すことができなかった。ダリの魔女となった所以だ。逃げまどい打ち震え、共に育った村人たちを三十四人この手で切り裂いた。
その倍か、百か、あるいは千か。地に伏せる肉片はもはや一音も発さず、ひたすらに真紅を垂れ流している。桃色の中に白、それを鮮血と砕けた鎧が慎ましく覆いかぶさり情緒を奏で、馬の茶や黒や蹄の銀が散ることで更に重厚で青みがかかった雰囲気を醸し出した。遠く連なる声はもはや悲鳴交じりだというのにその部隊を中央から二分し、迂回しながらこちらへ捨て身の特攻をけしかけている。まだこの芸術は終わりではない。
隣では腰が抜けたのか、座り込み大声を上げてロイが泣きはじめ、その奥でアイヴァンが粛々と自身の祝詞を述べていた。例えるならばバックコーラスのようにそれは讃美歌に続く第二幕を彩りながら広い平原に飲みこまれていく。
「私も行ってくるよ!」
視界の外からそう声を発したのはアイヴァンだろう。『暴力』の魔法は特殊で対外的に効果を発揮する他の魔法とは違い、魔女自身の力を底上げしてくれる。
隆々とした四肢をまるで流れ星のように用いて彼女は残党を迎え撃つ。背後から怒号が聞こえ、ラナールたちが進軍を開始したことが分かった。平原を駆ける馬に轢かれてしまわぬよう、まだ震える両手でロイを抱き寄せる。
「エリンさん……」
「大丈夫だから」
何が大丈夫なのだろう。それは言った私にも分からない。早ければ三か月。この快感を定期的に味わえるのであれば本望じゃないか。
いつまでも座っていられない。そう思い足元に力を込めたがどうにも上手く行かなかった。世界は揺らぎ、耳鳴りが止まない。自然と息が上がり、肩が上下してしまっていた。
あぁ、そうか。私はこの余韻にずっと永遠に浸っていたいんだ。