第二章 変化の足音が忙しなく
「ほらユニちゃん。朝だよ」
静けさが包む薄暗いテントに響かぬよう出来る限りの小声でアリアは隣で眠るユニの胸を叩く。拳ではなく手のひらで実行されたそれは現在進行形で睡魔に襲われている彼女を救出できるものではなかった。
「ほぉら、朝ご飯練習するんでしょ?」
今度は肩を掴んで少し揺り動かしてみる。反応は悲しいかな、ぐぅと言った寝息だけだった。仕方ないとため息を一つついて立ち上がる。
テントを脱すると暖かな朝日がアリアの頬を照らした。じんわりと体の内から温める、レイナのような穏やかさを持った朝日だった。
アリアはエプロンを手早く身に着けよいしょ、と一言呟き、鍋を別のテントから取り出す。川からあらかじめ組んできた水を鍋に入れ火打ち石と打ち金でもみ殻に火種を作り、優しく吐息を送り込めば火はそれに応えるように周りにしかれた枝を燃やし粛々と自らの務めを果たす。
「小麦粉はまだあるなぁ……そろそろ芋は買いに行かなくちゃ」
あれから一週間が経過した。
当時こそ茫然自失のタイラーだったが、残された面子を確認すると一気に気を引き締めた。元々五人用の少し広い面積を持つエリン班のテントの荷物を整理し、抜いた荷物をタイラー班のテントに押しやることで二つのメインテントをテキパキ作った。居住用のテントは成果として七人が並んで寝ることができ、必要に応じて傷病者ももれなく介護できる。
事実上タイラー班のみの集落に成り代わったのである。
「おはよアリア。もうそんな時間か」
そんなタイラーが物陰からのっそり顔を出す。元々手入れがあまりされていない赤髪は更に艶を失い、目の下には色濃い隈がその存在感をアピールしている。
「夜当番お疲れ様、タイラーちゃん」
「おう、今日も暇だったぜーまったく」
そう言うとタイラーは大きな欠伸を一つ。目には涙がにじんでいた。
あの日から彼女の昼夜は逆転している。朝飯を一人早朝に平らげた後はキキ班のテントで昼から夕方にかけて睡眠をとり、夜は一人めったに来ない客を待つ。孤独との戦いだった。
「もうすぐご飯出来るよ。食べる?」
「あぁ、大盛りでな」
疲れが表に出ていることを察してかタイラーは無理やり口角を上げて見せた。これをアリアにはどう扱っていいかわからない。彼女がエリンに集落を任されたことは周知の事実。ファネットは明るい雰囲気を持っているが性質的に憶病でいざというときに頼りない。ユニやアリアも主体性がなく集落を引っ張るには向いていないだろう。残るは傷病者ライラ、の三人だけ。
そんな彼女なりの責任感の表れなのだろうと思ってはいるが、目の前で疲労とストレスを確実に溜めて弱っていくタイラーに少しずつ遠慮を覚え始めてしまっていた。今こうして目の前で昨晩の残りの雑穀米と干物を食するタイラーの箸のスピードも遅い。
「いや美味かったわ。ごちそうさん」
「もうちょっと待ってくれればスープも出来るよ? 食べていかない?」
アリアがそう提案すると少し困ったようにタイラーは笑った。先程とは違い、本心からの苦笑だ。
「わりい、眠気がもう強くてよ。アタシの分はいいからユニとかライラにでも食わせてやってくれよ。アイツら育ちざかりだろ」
「それで言ったら私も育ちざかりなんだけど」
「お前は小食だろうが。そんじゃな。おやすみ」
少しだけ楽しく話せただろうか。一週間前まではあれほど楽しく何の負担も感じずに話せていたタイラーに対して緊張してしまっている自分がいる。手汗がダラダラと伝い、鼓動はうるさいほどに体を打ち付けていた。
「ふわぁ……いい匂いぃ……」
そんな空気を壊すかのようにファネットがテントから顔を覗かせる。目は半分も開いておらず夢現といった様子だ。間抜けな声が乾燥した空気に少しだけ隙間を空ける。
「おはよう、ファネットちゃん」
「おはよぉアリアぁ……おやすみ」
「ちょっと、テントの外で寝ちゃダメだってば」
この頼りない年上をどう更生させようか。そのことに集中することでタイラーへの渦巻く感情をしまい込んだ。
「今日はみんなで買い物に行くよ! アリアとユニは鞄を持ってくる、ライラも行く?」
「行くー!」
朝食を食べた後は大方全員で食事の後片付けをし、各々ゆったりとした時間を過ごすのだがその先頭に立つのはファネットだ。
良く言えば慎重、悪く言えば憶病な性質を少しでも変えようと思ってタイラーは任に就かせたのだと思うが事実は異なり、彼女は内弁慶だった。所属していたエリン班ではこのことは常識だったのだろうか。
しかし悪い意味ではなく、今の集落の状況にのみ言えば明るい雰囲気を本心から放つことのできる貴重な存在に成り代わっていた。テントの中、狭い室内にもかかわらずその声は木霊する。
「さぁ準備できたね、タイラーからお小遣いはもらってるからみんなで手をつないでいくよー!」
「街久しぶり! ユニもでしょ?」
「……うんっ」
だが、細かいところに気が回らない。時折どこか自身の享楽の為だけに活動している節がアリアには感じられた。タイラーのことを本当に考えているか? 残された二人の傷病者の看病は誰がするのか? 頭で考え付いた楽しいと思われることをそのまま出しているような言動にアリアは心を波立たせて、同時に考えすぎる自分の器の小ささに嫌気が差す。
「私は待ってるよ。メアリーさんとサタリナちゃんのお昼ごはん作らなきゃ」
盛り上がる場を冷やさないよう、努めて明るく切り出す。しかし空気は一変し、八の字眉のファネットがアリアを見つめていた。
「そっかぁ。じゃあ三人で行ってくるね」
「うん。お買いものお願い」
袖を微かに引く感覚。振り返ると同じように少しだけ困った顔をしたメアリーが手を伸ばしていた。
「良いんだよアリア。行っておいで」
「でも」
「サタリナに運んでもらえれば私は動ける。味見は私がすればそれほどマズイ飯は出来上がらないさ」
「味覚がないからって言いすぎですよメアリーさん」
くすくすと細い目を更に細くしてサタリナは笑った。エリンの去ったこの現集落での年長者メアリーは発言こそ少なかれしっかりと自分の出来る範囲で今の集落を支えてくれている。それはサタリナも同じだった。
確かアリアの認識では彼女とファネットは同い年だったはずだが、一歩引いて俯瞰するサタリナがいるからこそ、大きく異なるムードメーカーに棘を孕んだ感情を抱いてしまうのだろうか。
「メアリーさんの言うとおりですよアリア。言ってきなさい。それに遊びに行くわけじゃないんだから」
「そうそう。ファネットだけじゃあ心配だからね二人とも。明日からまともな飯が食べられないかもしれない」
「もーそれどういう意味ですか!」
ユーモアと愛を兼ね備えた二人に押されるようにアリアは鞄を用意する。暫定リーダーは駄々をこねたが留守番の二人の意見の元、貴重なお金もアリアが管理することとなった。
「本当に大丈夫ですか?」
ファネット、ユニ、ライラがそれぞれ靴を履きもはや向かうのみとなった状態でアリアはテントの入り口で立ち止まり振り返る。
「大丈夫だよ。お互いがお互いをフォローすれば大丈夫さ。なぁサタリナ」
「えぇ。それにいざとなったらタイラーさんを起こしますから」
心配が拭えないのが本心だが、あまり固辞するのも彼女たちに対して失礼にあたるのだろう。アリアはしっかりと頭を下げた後テントの外で待つ三人に合流し、穏やかな日に照らされながら街へと向かった。
パチパチと燃える火を見つめているとあの日を思い出す。知らない女の腰を抱き街を闊歩する父の姿を。
母に聞いた。聞いてしまった。彼女は泣いていた。涙をぬぐった彼女は仕返しを始めた。次の日には知らない男の腕の中にいる母を見た。
隣の部屋から聞こえる喘ぎ声は獣に似ていて、もはや目の前の欲望しかその瞳には映っていなかったのだろう。そして新しい恋を始めるには私は足枷だったのだろう。
いつの日か家には私一人になっていた。
残ったわずかな食料を齧り、それが尽きれば店という店から食料をくすね、水道が壊れた後は雨を食器に貯めて啜った。
金なんか無くたって生きていける。
親なんかなくたって生きていける。
愛なんか無くたって生きていける。
そう自分にひたすら言い聞かせた。
自らを騙しきったつもりになっていた。
心は茶碗だと聞いたことがある。我慢できる量ってのは決まっていて、欠けてしまえば元には戻らない。物事には限界ってものがあるのをはじめて知った。
そのことに気付いた時、私の前に悪魔がいた。枕元にとぐろを巻いていた彼は一人じゃないと言ってくれた。ずるいよ。お前たちは二人だ。どんな時も一緒で離れたくても離れられない。私にはそんな存在はいない。
仲間に入れてくれと願った。
そうしたら次の日から街のみんなからもっと嫌われた。石を投げられた。唾を吐きかけられた。殺されかけた。でもよかった。友達が出来たから。元々人間からは嫌われていたし。
そんな街から逃げていたら家族が出来た。母親みたいな厳しさと優しさを持った人、明るそうに見えて実は冷静で、でも温かい人、こんな自分を慕ってくれる妹みたいな人。
その中で口調も変えて、見た目も変えて、自分の力をフルに使って居場所を手に入れた。私はやっと幸せになったんだ。
それなのに――。
「ダメだ」
一人だと考えてしまう。守るのが約束したけれど破られることがあるのも約束なんだ。もしかしたら愛おしい彼女たちはもう自分の前には姿を現さないんじゃないかと。
「そんなはずない」
いいやこの世に絶対はない。確かに生きるため彼女らは全力を尽くすだろうがそれが徒労に終わる可能性もある。
「あの人たちは強い」
強さだけでは生き残れない。その上を行くずるがしこさを持った人間がこの世にはいるんだ。陥れられれば人は簡単に死ぬよ。
「……いやだ」
――ならわかってるよね。今の自分にいったい何が出来るのか。
「うん」
さぁ今日も祝いの言葉を捧げよう。