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使われない万年筆

作者: Joker

 キーボードを叩く、乾いた音。室内で聞こえるのは、それだけだ。時折止まり、そして思い出したかのように響くその音は、どこか眠気を誘うものだった。あくびを何度かかみ殺したところで、集中力が切れている事に気付く。


 これは仕方あるまい、と手を止め、そして、別の音が聞こえる事に気付く。今日は曇天だったが、窓を見ると小雨が降り出している。雑然とした仕事部屋の中で、そこだけ切り取ったかのような窓。ガラスを叩く小さな音。


 手に取ったマグカップには、冷めたコーヒーも残っていなかった。溜息を一つついて立ち上がり、ついでに体の節々を伸ばす。コーヒーを淹れ直した頃には、雨は本降りになっていた。今日は気温が高く、湿気が粘り着くようで気持ちが悪い。


 雨は憂鬱になる。特にこんな、重みを感じる雨は嫌いだ。あの日のことを思い出してしまうから。そう、あれは、ちょうどこんな雨の日だったのだ。ただ雨が降っているだけなのに、思い出してしまうと、もうどうにもならない。


 仕事机には戻らず、資料を収めた棚に据え付けられた、小さな収納の引き出しを開ける。そこには、あの日のままに、万年筆が収まっていた。立派な箱に入れられたまま、一度も使われた事のない、贈り物。形見になってしまった、在りし日の思い出。


 書き物の仕事をするのなら、文房具にはこだわろう、というのが、あの人の持論であった。自分としては、今はどうせ、すべてキーボードを叩いて終わらせてしまうのだし、必要最小限で良いのだ。しかし、そんな事を面と向かって口にしようものなら途端に不機嫌になるのはわかりきっている。このボールペンは大変に使いやすい、あの万年筆は高いが非常に書き口が良い、などと、何度熱弁されたことか。一応は物書きの端くれである自分が、まったくといっていいほど文房具に興味を示さないものだから、むきになっていたというのも、あるのかもしれない。それを確かめることは、もう、できないけれど。


 また、溜息を一つ。吐息に押されるように、コーヒーの香りが漂う。一口啜ると、それは少し冷めてしまっていた。随分と長く、物思いに耽っていたようだ。とてもではないが、もう仕事の続きをするような気分ではなくなってしまった。


 さらにひとつ、もうひとつと思い出す。気分が乗っている時は良いが、こうしてひとたび駄目になってしまうと、途端に仕事の手が止まってしまう、自分の悪癖について。あの人には、それが悪いとは言わないが、それならそれで余裕を持って仕事をせよ、と、よく窘められたものだ。そう、逆に、気分が乗ってしまうと延々と続けてしまうことについても、同じように。あの人は、それが悪いとは言わないが、と。夢中になって創作の世界に旅立ち、空腹で倒れて世話をされるなど、それこそ物語の世界ではないか。何遍も同じ事を繰り返すのは阿呆の所行だと、ほとほとあきれ果てたという体で、しかしそのたびに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたものだ。


 不思議なもので、そうして面倒を見てくれるあの人がいなくなった今では、かろうじて自分の面倒は自分で見られるようにはなった。それが良いことだとは、到底、思えなかったけれど。


 ぬるくなったコーヒーを喉に流し込みながら時刻を確認すると、既に夕方とは言えない時間だった。日頃であれば夜半までは仕事を続けるのだが、図らずも、ちょうど良い切り上げ時だったのかも知れない。たまには早く寝ろ、と、あの人に言われているようだ。


 雨音は少し静かになった。箱に入ったままの万年筆をもう一度だけ見て、引き出しを閉める。重たい雨はあの日の事を思い出させるが、この万年筆は、そこに至るまでの良い思い出を思い起こさせてくれる。自分とあの人の話は、もう既に終わっているが、自分は、自分一人でこの先も、終わるまでは続いていくのだ。


 今度は溜息は付かなかった。もう、雨の音は気にならない。

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