宿の老主人の耳掃除
癒し小説を書きたくて。専門家ではないので、かなり適当なところもあります。
鉄板の耳掃除。時代設定や、こんな宿ないだろ、はファンタジーなんでご容赦ください。
「耳掻きですか」
「ええ、耳掻きです」
不惑の歳とも言われるほどとなり、確かに近ごろ好奇心も失せてきた。だが、枯れつつあった好奇心が、ここでむくりと頭を持ち上げたのがわかった。
「次の宿の、隠れた名物らしいのです」
「それは…また変わった名物でございますな」
長年お仕えしてきた御家がとり潰しとなり、殿もご隠居されるとのこと。
ならばいっそ出家でもしようかしら、と越前の国、永平寺に参ろうと思い立ったのは一月も前になるだろうか。
京の都をゆっくり満喫したのち、越前の国に入ってからは、えっちらおっちら山道を上り、下っていた。
少し先を行くのは敦賀群に入ったところで出会った若人で、同じく永平寺を目指すのだという。ならば旅は道連れ、話の一つや二つもすれば山道も気が紛れようということで、ここまで連れ立ってやってきた。
暑さは残る時期だが、もう日が落ちるのも早い。次の宿坊で、今日はもう休もう、と前を歩く御仁に持ちかけたが、「宿場町の、」といいかけて、やおら内緒の話をするように手招きをしてきたのだった。
そして、冒頭に戻る。
「宿坊ではないのですが、なんでも、温泉も湧いてる宿で、そこの主人が物好きらしいのです」
詳しく聞けば、宿の主人はその昔東洋医学を大陸で学び、人の気の流れを触れるのだという。
中でも耳を診られるだけで、旅の疲れが吹き飛ぶらしい。しかも、例えがないほどに心地よいのだときた。はたして、そのような眉唾話、にわかに信じられぬ。が、それほどまでに心地よいという耳掻き、本当ならば是非とも味わってみたい。
長旅をしてきて脚はくたくた、おまけに昼間かいた汗やらなにやらが、いよいよ我慢できないところまできている。
「ね、行きましょうよ」
ここまで好奇心をくすぐられたら、行くしかあるまい。二つ返事で頷いて、件の宿を目指して歩き始めたのだった。
「もし、ごめん下さいまし」
宿にたどり着いたのは、もう日も暮れようかという時分であった。
爽やかな瓶覗き色(薄い水色)をした暖簾を潜れば、こざっぱりとした土間と暖かな行灯の灯り。
数こそ少ないが、一つ一つ色つきの和紙の囲いが被せてあり、洒落た雰囲気を醸し出している。
「ようこそ、お越しくださいました」
出迎えたくれた宿の、主人はもう老爺といっても差し支えないほどの御仁だが、足腰のしっかりした様子で深くお辞儀をした。
「男二人、こちらの宿で部屋をお借りしたいのだが」
「ええ、本日訪ねられたのは、あなた様方お二人だけです。どうぞ、お上がりください」
その言葉に胸を撫で下ろした。ここまで来て、宿が埋まってるなんて考えたくなかったが、その心配は杞憂に終わったようだ。
早速部屋に案内してもらう。
先程くぐった暖簾の横には、夏らしく風鈴が吊るされており、時折ちりん、と鳴っては、夕暮れの深緑の香りを運んでくる。ひぐらしの声と、鈴虫の音が聞こえる時間帯ともなれば、疲れ果てた男二人の腹からは、ぎょろろ、と盛大な音が鳴った。
「これは…失礼した。昼間は握り飯を二つ食べたきりで」
「おや、それは大層空腹でしょう。あなた方は運がいい、丁度、イワナを分けてもらったところなんです。今日の夕げにお出ししましょう。それまで、汗を流しておくとよいでしょう。奥に、温泉がございます」
イワナとはありがたい。どうやってもうまい魚だ。主人に案内された部屋に旅の荷物をおろして、お言葉に甘えて体を清めることにした。
部屋には手拭いと浴衣が置いてある。ありがたい心遣いだ。部屋は畳の香りが気持ちのよい、少し手狭だが清潔な一間だ。大きな窓からは、夕暮れに照らされた山々が見える。
「温泉の入り口には湧き水も引いてございますので、長く浸かるようであれば、適度に召し上がっていただくとよろしいと存じます。その時、お塩も少し取るとよいそうですよ。梅干しがありますので、召し上がって入られるとよいでしょう」
主人のいう通り、温泉の前室にはよく冷えた湧き水が瓶に引いてあった。
湧き水は絶えず竹の筒から瓶に流れ落ち、瓶から溢れた水は下の石畳から外に流れていく。瓶で冷やされている壺には、大粒のよく冷やされた梅干しがある。一粒口に入れれば、酸っぱさによだれの線が痛くなるが、昼間に散々汗をかいたので非常にうまい。
酸っぱい口を湧き水で潤して、ようやく温泉だ。山々に囲まれた石風呂の温泉は、少し温めの源泉のようだ。硫黄の香りがほのかに立ち上ぼり、微かに湯の花が浮いている。
「これは…なかなか」
「すでに贅沢な心持ちでございますな」
日も暮れれば涼しくなってくるというもの。暖かい湯を桶ですくい、まずは髪、体を流していく。少し肌寒かったので、湯の心地よさに肌が震えた。
若人は短い髪をざっと洗い、すでにそろそろと片足を湯船に沈めようとしている。
一方、湯が好きなだけ使えるというのはなんともありがたいので、こちらは念入りに流し洗っておこう。ようやく入って一息つこう頃には、若人はうとうとと眠たそうに船をこいでいた。
「まさに極楽ですね、このあとイワナの夕げに耳掻きですか」
「この旅の最後の贅沢ですからな」
「それもそうですね」
出家すれば、こうはいかぬ。思う存分満喫しておこう。
心行くまでくつろいで、上がる頃には宿中に香ばしい香りがただよっていた。
イワナである。
「本日はイワナの塩焼き、越前おろしそば、握り飯、天ぷら、香の物でございます。天ぷらはタラの若葉、みょうが、青紫蘇、海苔でございます」
お楽しみにしていた夕げである。
部屋に運ばれる膳の器は全て緑色と洒落ている。
先ずはイワナの塩焼き。立派な大きさだ。腸は取り除かれ、串にさしてじっくり焼いてある。一口かじれば、香ばしさとイワナの油の旨味が口一杯に広がる。
お次は越前そば、太めに切ったコシのある蕎麦に、出汁の効いたつゆとぴりりと辛いおろし大根をかけて食べる。薬味にネギ、刻み海苔、七味唐辛子がある。こちらも、蕎麦の香り高く、非常にうまい。さくさくの天ぷらも、このつゆにつけて食べる。タラの若葉は脂気があってうまい。夏の天然みょうがは言わずもがな、海苔、青紫蘇はいくらでも食べれそうだ。そして、油のしみたつゆで蕎麦を食べると、またこっくりとした旨味が足され絶品である。
握り飯も、空腹の男二人にはありがたい。
香の物のしば漬けで口を落ち着け、いれてもらった熱い蕎麦茶を一口。
「ご主人、この宿の夕飯は最高だった。このような素晴らしい宿には、二度と出会えないだろう。感謝いたす」
ほう、と息をついて出たのは、世辞ではなく素直な感想だ。文句なしの宿だ。若人も、隣でうんうんと首を縦に振っている。
主人は相変わらずにこにこして、終わった皿を下げ始めた。
「ありがとうございます、私はお客様に安らぎと癒しをお届けするのが仕事ゆえ、そのようにおっしゃっていただけると多幸にございます。そこでなのですが…」
主人は膳をすっかりきれいすると、おもむろに袂の包みを取りだし広げ始めた。
ついに、噂の真偽を確かめるときが来た。主人の手には細長い竹の棒、先がくるりと上を向いているものだ。
「ご存じではございますでしょうが、差し支えなければ、等宿自慢の、耳掻きを味わってはいかれませんか」
若人との、無言のせめぎあいの後、最初に耳掻きを受けることとなった。あんなに言っていた癖に、途端に臆病風を吹かせおって。小心者め。
半分に折った座布団の上に頭を乗せ、敷布団の上に体を投げ出す。灯り用の少し高いところにある燭台油が、たまにじじっ、と小さく鳴っていて、和紙の囲いがその光を柔らかく拡散させている。
「越前和紙という、上質なものを使っております。大変薄く作っているので、手元は明るくなっておりますゆえ、安心しておくつろぎ下さい」
まるで心を見透かされたかのような主人の一言に、いささかばつが悪くなる。しかし主人は気にしてない風で「では、」と一言いって耳を触診し始めた。
「まずは、耳を綺麗にしていきます」
耳たぶを引っ張り、耳の穴の外側のひだを開くようにする。主人は竹の耳掻き棒を持つと、そっとひだのすぼまりをなぞった。
カリカリ…パキン、カリ…カリ…カリカリ…
耳のひだのところに、何やら乾いたものが沢山溜まってるような感触がする。主人はそれを一匙ずつ掬うと、目の前の懐紙に落として行く。
カリカリ…サーッ、カリカリ…サーッ
大きいものはとれたのか、まんべんなく掻いて、淵をなぞる動き。何度もするのは汚れがひどいからか。
若人は、興味津々といった様子でこちらを見ている。目があったので、なんだか居たたまれなく、そらしたあと目を閉じた。
適度に汚れを取ったら、主人は耳掻き棒を、先の丸い細い棒に持ち換えた。この棒の先で、何やら耳の至るところを軽く突いてるようだ。
「耳ツボでございます。血行が良くなれば、耳の垢もゆくるなっていきますので」
これが不思議と心地よい。触れているのはただの木の棒なのだが、何故か熱いくらいに感じる。後頭部が、痺れたように暖かい。体がまるで茹ですぎた葉物野菜のように、くたっとなっていくのが止められぬ。
「では、耳の穴の中に匙を入れますゆえ、動かないようお願い致します。」
ツボ圧しが終わり、主人は再び耳掻き棒に持ち換えると、耳の上側にそろっ、と匙が入ってきた。
ガサッ!ゴソッ、ゴソッ
これは絶対大物である。主人はごく軽い力加減を崩さず、ゆっくりゆっくり奴の周辺を掻いているようだ。
そのたび、ポロッとこぼれる破片を、たまに掻き出しては懐紙に落とす。
みるみる、焦げ茶の汚れが懐紙に積もっていく。
「さあ、取れますよ」
奴が、グラッと大きく動いたのがわかった。主人は、先の細い銀の 鑷子に持ち換えると、狙いを定め奴をぐっ、と摘まんだ。
慎重に慎重に引っ張っている。
ズボッ
今まで感じたことのないような爽快感。主人の 手の鑷子の先には 、まるで岩石ようないびつな奴が鎮座している。ほとんど焦げ茶の容貌だが、所々薄黄色、真っ黒といかにも汚らわしい成りだ。
「いや、ビックリだ。こんなものが私の耳に入っていたとは」
ここ何年かで、一番驚いたように思う。
若人など、あんぐりとした様子で、さらに手に取って見ようとしていたものだから、そっとその手を制した。
「いやあなた、それは汚い。こちらとしてもばつが悪い」
「すみません、つい、見たことがないような獲物だったもので」
大興奮といった様子の若人はさておき、主人は何でもないような風で微笑んで、懐紙に奴をそろりとおろした。
若人よ、何を見ている、変な気を起こしてくれるなよ。
「これで、耳の聞こえも良くなりましょう。では、残りの破片も取り除きます」
再び、そろりと耳掻き棒が入ってきた。粉を集めながら穴を一周してるようで、耳壁を掻く乾いたような音が心地がいい。
サーッ、ザッザッ…サーッ、ザッザッ…サーッ、ザッザッ…サーッ…
「次は綿棒で拭っていきます。」
椿油だろうか、何か液体を染ました細い綿棒で、丁寧に耳の穴の中を拭き取る。本当にゆっくりゆっくりと、そんな様子だから、耳回りがじーん、と気持ちがよい。
サーッ…、サーッ…、
それが終われば、主人は今度は見たことがないような大きな綿棒に持ち換える。
それは親指の先程もあろうかという綿棒で、それも同様に油を染まして、外耳をそっと、丁寧にぬぐった。
「さあ、終わりましたよ。次は反対側です」
方耳がさっぱりしたところで、緩慢な動作で頭をくるりと反対にする。眠気が、すさまじくなってきた。
「反対も同じように、ひだから綺麗にしていきます」
カリカリカリ…カリカリ…コリッ…
なんだ、少し違和感が。
「コメドがございますな、抜いてもよろしいですか?」
「コメド、とは」
「毛穴に詰まった汚れにございます」
よくわからないが、スッキリきれいにしてもらおう。生返事を返すと、主人は再び銀の 鑷子を持ち、そっとコメドの頭を摘まんだ。
「だいぶ大きくなっておりますゆえ、少々痛むやもしれません」
グッ,グッ,とゆっくりと力をいれていく。確かに僅かに痛むようだが、異物が体から抜けるような、妙な気持ちよさもある。やがて、ずるッ、と中程までコメドが抜けたあと、主人は再び 鑷子を持ち換えて、 ゆーっくりとコメドを引き抜いた。
この一連の動作に、何故かぞくぞくと総毛立つような心地よさまでついてくる。
「取れました」
鑷子の先には、これまた黒っぽい、しかしつやつやとした粒がついていた。もち米一粒ほどの、かなりの大きさである。
「軟膏を塗っておきましょう」
ひんやりとした軟膏を塗られて、これでよいという。不思議な体験をしてしまった。これはなんというか…癖になる。
その後は反対同様、耳ツボと汚れとり。最初の獲物には劣るが、こちらも大物が二つもとれた。(とたんに、若人も色めき立つ。もう、好きにするがよい。)
「さあ、最後の仕上げにございます」
両方終わってからは仰向けにされ、暖かな手で耳を揉んでくれた。耳の穴のすぐ近くを、ぐうっ、と押されると、なんとも心地よい。ぐにぐにと、ツボを刺激するように揉んでいく。
「お疲れ様で御座いました。あとは、よく寝て休まれれば、旅の疲れもとれましょう」
いやありがたい。耳掻きとはなんと心地よいものなのか。
お礼を言いたくても、もう口も動かぬ。睡魔が手招きするまま、すとん、と深い眠りに落ちてしまった。
「では、お気をつけて」
主人が見送るなか、我々はあらんかぎりの感謝を伝え、宿を去った。ちなみに、宿代にもかなり上乗せした。(驚くほど安かったためである)
「これぞ、本当の贅沢でしたな」
「まったく。よい宿でした」
永平寺には、今日中につくだろうか。なに、旅は道連れ、話題も、話し相手にも困らぬ。宿の主人が持たせてくれた弁当もある。
そしてこの老体にも、久方ぶりに活力がみなぎっておる。
「また、来たいものだな」
空は青、風は涼しい。名残惜しさを振り切って、二人は歩き始めた。