バルドディ
「久々だな」
「成仏してください」
「いきなりそれか」
イリスは目の前に立つ人物……ルバート・ブライトウィルに対し、とりあえず合掌することにした。
「他にいうことはないのか。半年ぶりだというのに」
「どうせ私の記憶から再現されただけの別人でしょう。剣と魔法の世界といえど、そうそう人が生き返って堪るものですか」
「生き返っているだろう。本人の意に関係なく、だが」
確かに黒騎士やフランシスカなど、人が蘇る例をイリスは何度か目撃している。
とはいえここは走馬灯の夢。ルバートの幽霊がイリスの精神に干渉している、などと考えるより全て妄想と割り切った方がよほど合理的である。
「まったく、喝の入れ甲斐のない奴だ」
「精神論で勝てるわけではないでしょう。友人達に教えられたつもりでしたが、私も大概成長がない」
肩を竦めるイリス。
自惚れていたのであろう、自分であれば死地であろうと戦えるかもしれないと。
勝ち目がないと知りながら、奇跡などに縋ってしまった。敗北は必然である。
「お前の理想の自分とはなんだ?」
唐突な質問に、イリスは目を丸くする。
「なんです、来世のリクエストですか?」
「そのようなものだ。魂ある者は何かしら自分に不満があるものだろう。美しい顔が欲しい、身長が欲しい、力が欲しいとな」
ふむ、と考え込み、イリスは結論付ける。
「別に不満はありません」
「……何かしらあるだろう。背丈がもう少し欲しいとか、貧相な胸が大きくなって欲しいとか」
「娘相手にセクハラかまさんでください」
「むう」
そういうつもりではなかったのだが、と唸るルバート。
「この体は気に入ってますよ、パイロット向きですし」
「だがそれでは困る。何かないのか」
「……強いて言えば、心肺機能や毛細血管が強化されてると嬉しいです。50Gくらいへっちゃらで耐えるような身体だと素晴らしいかと」
G、即ち重力加速度。
どれだけの急旋回に肉体が耐えきれるかという指標だが、訓練された人間の限界はおよそ9G、イリス・ブライトウィルの限界は15Gほどである。さらりと要求したが、かなり高望みした内容であった。
「つまるところ今の肉体の延長か。てっきり、翼を背中に付けろとかエンジンを足に埋め込めとか言われると思ったぞ」
「娘を何にしたいのですか、貴方は」
意外かも知れないが、イリスにとって翼とは外付けする取り替え可能な部品であった。
航空機の技術は日進月歩。旧くなっても交換も出来ない翼など、彼女の望むところではないのだ。
「でも、前回との違いはなんです? 前はリクエストなんて訊かれませんでしたが」
「別件だからな」
首を傾げるイリスに、ルバートはあっけからんと答える。
「お前の知識を借りれば、不正アクセスだったのだが。それでも届きはしたのだ、こちらとしては受理しないわけにはいかないのだ」
イリスはいよいよ、この人物がルバートではないと確信した。
「貴方、何者です?」
「これはお前のものだろう?」
ルバートの姿をした男は、イリスに握りこぶしを突き付ける。
こぶしから垂れるチェーン。その下で揺れるのは、黄金柏陽剣付金剛双翼勲章騎士の証明たる勲章。
「これは」
「お前に必要なもののはずだ」
躊躇い手を伸ばし、しかし触れる直前に指を引いてしまう。
「要らないのか?」
「あの、やっぱり貴方は父上……なのですか?」
男は小さく笑う。
「いいのか? 急がねば、あいつが人食いドラゴンに成り果てるぞ」
イリスの目の色が変わる。
チェーンに吊られ、揺れる勲章。イリスは今度こそ躊躇なく、それを握り締めた。
「―――ごちそうさま、も言えないのか駄竜?」
小さなメスを喰らい尽くし、次なる標的を探すべく教会から出ていこうとしたバルドディ。
その背に声をかける存在がいたことに、彼は理解が追い付かず、そして戦慄を覚えた。
「これは、躾をし直さねばな」
振り返る。
そこに立っていたのは、傷一つない裸体を晒す少女。
バカな、とバルドディは祭壇の床を見やる。血や肉片の散乱した台は、間違いなくそこがスプラッターの現場であったことを示している。
だというのに。イリス・ブライトウィルは平然とそこに立っていた。
当の本人はといえば、バルドディのことなど眼中にないといわんばかりに唯一身に着ける勲章を不思議そうに眺めている。
バルドディは警戒する。突如として死人が蘇ったことも尋常ではないが、それ以上にイリスの気配が変化していた。
このメスはもう、無力な存在ではない。そう肌で感じ取っていた。
「まったく、服までボロボロにしてしまって。アスカからの借り物だぞ」
イリスは格納魔法から、手頃な換えの服を探す。
彼女が取り出したのは白いワンピースであった。寝間着として持ち歩いていたそれを、頭から被りモゾモゾと着込む。
完全に視界を失う、あまりに無防備な行為。だというのにバルドディは警戒のあまり、行動を取れなかった。
「むっ、これだけでは裾がバタついて動きにくいな。何か縛るもの、あったか?」
適当な紐を取り出し、端を咥えて襷がけを行う。
警戒心の欠片もない着替え。バルドディは怯んでなるものかと、全力でイリスへと突撃した。
白化汚染個体へと変質したことによる、条理の外を闊歩する尋常ならざる脚力。
更にバルドディは空の『何か』を蹴り、更なる加速。
時速にして1300キロ以上。音速すら超え、椅子や机を衝撃波で吹き飛ばしながらの突貫。
破城槌と化した重量2トン以上の巨体を、イリスは避けることもせず迎え撃つ。
「着替えの途中だぞ、焦れるな童貞」
襷がけの途中。解けぬように右手で紐を握り、イリスは左手でバルドディを受け止める。
大型トラックの衝突などと例えるのもおこがましい、超重量超速度の激突。
イリスはその細腕一本のみで、バルドディの全てを受け止めた。
「――――――ッッッッ!!?」
余波がステンドグラスを破砕し、調度品が台風の如き暴風で壁に突き刺さる。
それでも、イリスは一歩も退くことなかった。
「片手では結べないだろう」
左手が受け止めたバルドディの鼻先。イリスはそれを、軽く押す。
張り手のように突き出された腕は、その華奢さに似合わぬ豪力にてバルドディを吹き飛ばした。
訳の判らぬまま、転がり、体勢を立て直すバルドディ。イリスはといえば、何事もなかったかのように襷がけを終えワンピースの埃をパンパンを払っている。
「これは母上が縫って下さった寝間着だ。汚しては悲しませてしまう」
むしろそれこそ最重要の問題だ、と言わんばかりのイリス。
最後に首元から勲章と長い髪を取り出し、準備完了とばかりにバルドディに向き直す。
バルドディは自分が怯んでいることを認めざるを得なかった。吹けば飛ぶような少女に、実際あまりに脆弱でしかなかったはずの小さなメスに自分が怯えているのだ。
されど、彼も勇名轟くドラゴン。恐怖など些事でしかなく、戦う理由など万より多い。
「腹は満ちたか? あとで空腹を言い訳にされては堪らんからな」
バルドディは吠える。
世界を轟かすかのような咆哮。残っていたステンドグラスも残さず粉砕し、壁が音のみで砕け崩れる。
本能すら喰らい尽くすほどの宣戦布告。イリスは敵たる彼の声を、嘲笑で返答した。
「ざまぁないな、バルドディ。―――それでいいのか?」
常人がこの場にいたならば、その戦闘を戦闘と認識することすら叶わなかったろう。
縦横無尽に教会内を駆け回るバルドディ。それをひたすらに回避し続けるイリス。
先までの逃げ回る戦いとは違う。イリスの瞳には常に余裕が残り、対してバルドディには焦りが滲んている。
「面白い力を得たな、それがお前の白化汚染個体か!」
イリスは笑う。鋭角な軌道で教会内を駆け回るバルドディに対し、何ら気負いはない。
スーパーカー以上の速度で突っ込んできたバルドディ。突っ込んだところで仕留められないことはこれまでの戦闘で判りきっている。
故に、バルドディはイリスから向かって右へと駆ける。そして空中の『何か』を踏み台に、更に左へと跳躍する。
フェイント。理性を失いながら、培った戦闘技能はバルドディから一切失われてなどいない。
「結構、その程度でなければ張り合いがないというものだ!」
イリスは不変の聖水剣の切っ先を床に突き刺してからの、前方宙返り。棒高跳びのようにくるりと巨体の上へと回避する。
すぐ下を通過するバルドディ。イリスのエメラルドグリーンの瞳と、バルドディの縦に裂けた瞳孔が交錯する。
刹那の睨み合いも過ぎ去り、教会の端まで一気に滑っていくバルドディ。制動しようと思えば出来たはずだとイリスも判っているので、あえて距離を取るべく新たな『力』を使わなかったのだと推測する。
「空を蹴る能力。白化汚染個体は本来知覚出来ないはずのものを知覚する能力を有すると聞くが、そこに何かあるのか?」
物理学に詳しいイリスではないが、エーテルやダークマターなどの実在を推測・仮定された物質を名前くらいは知っている。
あるのではないか、その前提で計算すれば辻褄が合うのではないか。そんな直接的観測が不可能な存在。
バルドディが知覚しているのは、そういった類であるとイリスは推測した。
「常に見えているのなら、動きにくくて仕方がないだろうに。都合よく見たり見なかったりとは、都合のいいことだ」
イリスは魔法を唱え、バルドディへと差し向ける。
「十の鉄塊よ、金色の清雅を汚す者よ! 暗闘の戒場、その刻その業。汝の罪と心得よ! アークフェリス!」
第六級魔法アークフェリス。教会の外より制御された鍾乳石が壁を貫き、スピアのようにバルドディへと迫る。
一つ一つが1トンを超えるであろう巨大な石柱、それが十。
何故か沸き起こる魔力量に任せた、強引な一撃。しかしそれは間違いなく必殺と成りうる強襲。
されどバルドディに通じるはずがない。彼は巨体に似合わぬほど身軽に胴体を捻り、僅かな攻撃の隙間から見事に安全圏へとすり抜けた。
到底理性を失った者とは思えぬ身のこなし。だが、イリスは確信を得た。
「随分と無茶な避け方だったな、見えない何かで壁は作れなかったのか?」
見えない何かに干渉出来るのは、バルドディ自身のみ。それを他者にぶつけたり、壁として防御に使えるわけではない。これがイリスの確信。
とはいえバルドディの強靭な脚力を支えきる足場として活用されれば、今までしてみせたような出鱈目な機動が可能となるのは事実。油断出来る要素はない。
バルドディは狭い教会内では動きにくいと判断、上へと跳躍する。
「逃がすか!」
イリスはすかさず魔法を放つも、見えない壁を足場に左右へ跳びながら昇っていくバルドディを魔法の攻撃は捉えきれない。そんな使い方も可能なのかと関心しつつ、イリスは彼を追って教会の出入り口を目指す。
しかし、攻撃は予想以上に早く落ちてきた。
天井を突き破り、幾つもの大岩が迫ってきたのだ。
「質量爆撃―――!」
イリスは教会からの離脱を断念、落ちてくる岩の軌跡を見極めるべく急停止。大きく足を開き中腰のまま天井を見上げた。
「前もあったな、こんなことが!」
イリスがバルドディの質量爆撃に晒されるのはこれで2度目、されど難易度は桁違いであろう。単純に岩が落ちてきた『前回』と違い、今回は瓦礫の雨も伴っている。
刹那のうちに全ての脅威度を判断。低く降ろしていた膝を更に屈伸させ、上へ向けて跳ぶ。
バルドディの真似事であった。落ちてくる岩を足場に、天井近くまで駆け上ったのだ。
「クロック、ブム……!」
手の平に生じた炎を、天井へと向けて放つ。
質量爆撃には奇妙な偏りがあった。まるで、意図的にその地点へと誘導されているように。
天井を突き破ってくるバルドディ。その鼻先に迫るイリス。
奇襲のつもりが、突然迫ってくるイリスに彼の方こそが驚愕した。
クロックブムの炎がバルドディに炸裂する。クリーンヒットした豪炎に、バルドディの視界が一時的に失われる。
それだけであった。イリス自身、頑丈さが取り柄の彼にこのような小細工が効くとは思っていない。
だがこのドラゴンに対し、僅かといえど猶予を得られたことは成果であった。
堕ちるバルドディ、昇るイリス。空中にあったまま、バルドディの背後に回り込んだイリスは渾身の力で彼を蹴り落とす。
小柄がイリスが巨大なバルドディを突き落とすのは絵面としては極めて不自然な光景であったが、今のイリスにはその力があった。溢れんばかりの魔力が彼女の筋力を補強し、強引に敵たるバルドディを教会の床へと縫い付ける。
「 ッ、…………!!」
されど、なすがままのバルドディではない。彼も空中に見えない床を認識し、それを足場にイリスの打撃を受け止める。
「このっ、しぶとい!」
不変の聖水剣の切っ先を見えない床へと向けるも、何かを切断した手応えはない。やはり駄目かと歯軋りしつつ、イリスは一旦離脱を余儀なくされる。
岩を蹴り、横へと跳躍。
空中にある以上、こうなってはバルドディが有利であった。砕け散った窓から外へと飛び出さんとするイリスをバルドディは猛追、追い越してからの反撃に移る。
大きく身体を回しての、尾による攻撃。
「うげっ」
見えていえど対処も出来ず、イリスは腕で頭部を庇いつつ吹き飛ばされた。
壁を突き破り、鍾乳洞内に浸水した海水中まで突き進んでようやく止まるイリスの身体。彼女の身体が生身のままであれば、間違いなく即死していた。
数瞬気絶していたものの、すぐに目覚めイリスは自分の状況を理解する。
ふむ、と考え込むイリス。とりあえず気泡魔法を発動し、水中に潜み様子を伺う。
やや息を潜め、そっと上を見上げる。
「……降りてこない? ああ、そういえば泳ぐのは得意ではなかったか」
頭の回る敵はこれだから嫌だ、とイリスは頭を捻る。
イリスは海底を蹴って上に跳び、水面から飛び出すと同時に氷結魔法を唱えた。
鍾乳洞全域の海水を凍らせるイリスの魔法。その出力は以前ソフィーが海に放ったそれに、勝るとも劣らない。
氷の大地と化した鍾乳洞に、イリスはそっと降り立つ。
「あ、崩れてる」
どの時点でトドメとなったのか、地下教会はいつの間にか消滅していた。倒壊ではなく消滅なのは、既に木製の足場は勿論のこと、教会の瓦礫までも既に氷の下であり残骸の姿すら完全に見えないから。
バルドディは空中、イリスより10メートルほど上に立ち彼女を見下す。バルドディがとった行動は更なる質量爆撃の嵐であった。
だが狙いはイリスではない。足場である氷の地面である。
自由に自前で足場を確保出来る彼と違い、イリスは安定した場所に立たねば戦えないという判断。理性を失っていようと知性を失っていないことにイリスは小さく舌打ちする。
大きな岩盤となり、不安定に揺れる氷板。その亀裂より水が吹き出し、水位が一気に上昇した。
「っと、と」
氷の上に水が湧いているのだ、当然滑る。
バルドディの足場も氷のように溶かせるなら楽なのだが、と考え気が付いた。
「―――そうか、別に真っ向から物理攻撃でアプローチする必要はない。『アレ』も物質だというのなら」
イリスは手を掲げ、バルドディへと向ける。
彼の足元。立っていると思しき架空の物質へ向け、魔法を発動させた。
「消えよ、アスポート」
格納魔法アスポート。格納魔法、命ある者以外の全てを魔導血界領域へと仕舞う魔法。
突如として消滅した足場に、バルドディは呆気なく落下した。
重量のままに氷を突き破り、海中に没するバルドディ。すかさずイリスは氷結魔法をかけ直し、砕けた氷を補強する。
分厚く成長した氷を突き破らんと、海中で暴れるバルドディ。しかしイリスは魔力を緩めることはしない。
「死んでくれるなよ!」
氷結魔法は鍾乳洞内部の海水全てを凍らせる。表面上だけではなく、海底までも全てを。
膨張した水が隆起し、平坦だった氷野は氷魔の巣窟と化す。
「耳を澄ませ、それは破滅と慟哭の唄。昏い深淵より覗くのは、忘却されし赤子の詩」
イリスの狙いは一つ。バルドディの殺害ではなく、その無力化。
分厚い氷であっても彼を拘束するには足り得ない。そんなこと、彼女自身が一番良く知っていた。
「誇りは明白なる使命。記録されぬ葬送曲。故に裏面へ刻む。大憲章の片隅に彼の鎮魂歌を」
だからこそ、彼女はこの魔法を選んだ。このあまりに馬鹿馬鹿しい戦いを、早々に終わらせるべく。
「―――マニュフェイト」
天井を、魔法でぶち抜いた。
奔流する海水。水位の上昇は急激に加速し、イリスもまたその渦に巻き込まれる。
ようやく氷を破ったバルドディも、更に流れ込む海水に翻弄される。
「遅かったな、俺の勝ちだ!」
流されるがままに、それでもイリスは勝ち誇る。
イリスとバルドディの決定的な違い。それは魔法の有無。
気泡魔法を使えるイリスとは違い、バルドディに水中での呼吸手段はない。
如何に強力な個体であろうと、加護を受けていようと。
酸素がなくては生きられない。あまりに単純で根本的な脆弱性であった。
やがて、バルドディの意識も朦朧としていく。
散々もがき暴れた彼も、次第に力を失い四肢を脱力させる。
―――そこに、人魚のように軽やかにイリスが泳いできた。
彼女もまた呼吸を止め、一つの魔法を準備している。
猶予はなく、だがバルドディは抵抗した。
子供がイヤイヤと駄々をこねるように。力が失われていようと、イリスにとっては厄介なことに身体を暴れさせる。
イリスはバルドディの太い首にしがみつき、あやすようにポンポンと叩く。
そして、そっと暗示魔法を彼にかけたのであった。
抵抗はもう、なかった。




