バール・ド・デュラン
真っ先に行動したのは、腰掛ける翼箒を180度ターンさせたイリス。
人類最強の一画を前にし、イリスはまず教会から飛び出すことを選んだ。
「お色直しかい!? 待ちきれないよぉぉ!」
「アスカ、上への階段でスタンバイしておけ! すぐに終わらせる!」
「すぐには終わらないさぁ! 夜は長いんだぁぁあぁあ!」
疾風のように教会から駆け出ていくバール。残されたアスカは、安全を慎重に確認しつつ大教会への階段にこそこそと移動する。
イリスは足場から逸脱し、箒が飛行している利を最大限活かすべく鍾乳洞が露出している場所へと飛んだ。
「案外せこいじゃないか! 確かにそこなら飛べない僕は不利だね!」
鍾乳洞は海水によって浅瀬となっており、足場となりそうなのは点在する歪な石筍しかない。バールの身体能力ならばそれを足場に動き回ることも可能だが、大きく行動を制限されるであろう。
箒はイリスの得意分野ではないが、それでも飛んでいることには違いない。鍾乳石や石筍で狭い空間を、イリスは速度を落とすこともなく飛びすり抜けていく。
その合間。本当に一瞬だけ露見する少女の姿を、バールは見逃さない。
金砂の髪をたなびかせ、箒にて高速飛行する小さな美少女。
「―――カワイイ!」
腰から下げていた細い手槍を投擲すると、刹那渾身にて放たれた閃光は一切の狂いなくイリスの頭蓋を狙う。
「―――ッ!」
飛来する気配に、イリスは箒をドリフトさせ石筍に隠れる。
何本も持たねばならないことから携帯性を優先した手槍に、殺傷力はさほどない。脆い石筍は大きく抉れるも、背後のイリスを守る盾としては充分に機能した。
「さすが、大した動体視力だな!」
「君に目で褒められるとは……子供は3人くらいがいいってことだね!」
「目はともかく、耳は腐っているようだ!」
バールは石筍に飛び移り、射角度を変えて再び手槍を振るう。
イリスは箒での回避が間に合わないと踏み、魔法で迎撃。直後に側面から回り込んでくると予想し、あえて箒を遮蔽物の陰から飛び出すように飛行させる。
「うおっ!」
「やあ!」
バールの動きを認識する前に動き出した為に、回避のはずがバールに衝突しそうになる。咄嗟に回避するも、バールはイリスの足首を掴み勢いのまま海水の地下湖に叩き込んだ。
「パンツは純白か! 初々しい君らしい色だ!」
「死ね!」
イリスは瀬戸物手榴弾を放り、水中に潜む。
彼我の距離は数メートル。しかし水は見た目以上に強固な壁となることを、彼女は知っていた。
炸裂する手榴弾。周辺空間を殺傷するも、距離的には近い水中に被害が及ぶことはない。
気泡を伴って手榴弾の破片が海中に降り注ぐ中、イリスは箒にかけられた魔法を再起動させた。
トビウオのように海中より飛び出すイリス。バールはといえば、当然のように健在。
「解るかイリス君! 僕達は今、全力で愛し合っている!」
「倒錯するにも限度があるぞ! 先程から完全に胸や頭を狙っているだろう!」
ほぼほぼ無視しているとはいえ、イリスもバールの支離滅裂な言動に辟易していた。
「そうだ、ずっとこの時を待っていた! 君が僕だけを見てくれる時を! 僕だけに感情を向けてくれる瞬間を! 今この世界で、イリス・ブライトウィルという少女を独占しているのはこの僕だ!」
「病院行け!」
「カワイイなぁ! このくりりとしつつも凛々しい目も、華奢でありつつしなやかな四肢も! ふわふわとした髪も真っ白な肌も!」
「っ!」
あまりの狂気に気圧されたか、イリスの行動に迷いが生じる。
元より戦いはギリギリのバランスに成り立っていた。イリスの隙を見逃すはずもなく、バールは手槍を投げる。
「その形のいい頭も、中身のドロドロした脳味噌もぜぇぇんぶ僕のものだああぁぁぁ!!」
迫る手槍。魔法による迎撃すら間に合わない必殺の攻撃。
しかしそれすら、イリスは危なげなく不変の聖水剣で切り払う。
「うん?」
呼吸の間すら置かず、イリスへと飛翔する槍。
しかしイリスはその尽くを叩き折り、打ち払い物理的手段にて迎撃する。
「ほう! 戦いの中で更に成長したというのか、君では僕の攻撃を真正面から迎え撃つなど出来ないはずだったが!」
「成長期なので、な!」
「その慎み深い胸がいいんじゃないか!」
懲りずに槍を投げるバール。
再び迎撃されるであろうはずの槍は、だがイリスの跨る箒を叩き折った。
「なっ!?」
「僕の眼球の動きで、おおよその狙いを事前に察知していたんだね! やはり視力は君に分があるようだ!」
「早、もう見破られた……!」
事前に用意しておいた小細工の一つ。バール対策の戦術だが、これほどまであっさりと看破されるとはイリスも想定していなかった。
この調子であらば反撃の機会も伺える、そんな目論見は早々に破綻してしまう。イリスは箒を操り、更に時間稼ぎを強いられた。
「俺を愛しているというのなら、何故致命傷ばかりを狙う!?」
「それは僕が、君を憎んでいるからだよ!」
「また意味の判らないことを! 殺したいほど、というつもりか!」
「君が打開策を得る為の時間稼ぎに付き合う義理はないのだけれどね! まあいい、愚痴でも聞いてもらおうじゃないか!」
石筍に隠れたイリスに、バールは嬉々と述懐する。
「君だけではない、安穏と暮らす全ての者が憎いんだ僕は!」
「このご時世で、真に安穏と暮らせる者などいるものか!」
「いるさ! ずっと見ていた、君とアイギス様の戯れは実に不愉快だった!」
イリスとアーレイ、あるいはそこにフランも加わるかもしれない。
少女達は大人達に守られ、仮初の平和に身を置いていた。
賢しい彼女達はそれが偽りだと知っていた。それでも、そこには幸せな時間があった。
それを、アーレイの護衛であったバールはずっと見せられてきたのだ。
「あの時から、ずっと恨み節だったわけか。お前のこと、信じていたのに」
「お前と接して感じたのは嫉妬だけだ!」
イリスの本心を、バールは切り捨てる。
「お前に判るか、逃げるだけしかできないことが。親が、友が食われている間に逃げる惨めさが……!」
解るはずもない。彼女が同じ立場だった時、運命が与えた役割は後退ではなく殿だったのだ。
奥歯を噛み砕き、後の為に雌伏する。イリスにそんなものは似合わなかった。
「いつか、船の朝飯に文句を言ったことがあったな」
「さて、どうだったかな」
「あの飯が物足りないだと、身体に害がないだけで充分だろうが……!」
バールは生き延びた。生き延びるしかなく、イリスのように運命を覆す手段も勇気もなく、無様に生に縋り付いた。
泥水を啜り、物乞いをし、同じ境遇の者を蹴落とし、取り繕い。
―――そして、全てを恨むようになった。
「ああ憎い、おまえの高潔さが、美しさが憎い! もっと汚れろよ! こんな汚い世界なんだからさぁ!」
「隣の庭は青く見えるそうだ。まあ、枯れ葉剤が撒かれているそちらよりはマシかもしれんがな」
「頼むよぉぉ、殺させてくれよぉ!」
ガシャン、と何かが動く音がした。
イリスがそっと陰から覗くと、バールは格納魔法から取り出したのか巨大な槍を構える。
「憂さ晴らせろよぉぉ、後生だよおぉぉぉ!」
槍の機構が動き出し、槍先に魔法が生じる。
「やばい、あれはやばい」
イリスはその魔法を知っていた。彼女がよく使用する魔法と同種のものだった。
だからこそ、危険性をひと目で理解した。
「その小さな体を、僕の熱いので貫かせろよぉぉぉ!!」
飛来する全長3メートルはある機械の槍。
イリスは咄嗟に自分自身に魔法をかけ、無理矢理飛行させる。
箒という軸もない飛行魔法。安定するはずもなく、くるくると回ってすぐ墜落。
しかし、回避という目的だけは果たされる。
遷音速で白い蒸気を纏いながら迫る槍は、あらゆる障害物を消失させながら鍾乳洞を抉り取った。
空気も、個体も、精霊すらも。
モーゼのように海水を抉り、直径数メートルの見えない円柱があるかのように全てを消し飛ばした。
「マニュフェイトと同系の魔法か……!」
残滓の魔力紫電がバチバチと放電する。
バールが腕を振るうと、細い鎖で繋がれた機械の槍は彼の手元へ戻る。
「イリス君、これは君の研究の成果だよ!」
槍に搭載された工学輪唱杖が、消滅魔法の力場を生じさせている。
重く、重心が狂ったそれは爛舞騎士でなければ扱いきれない欠陥兵器。
「人工神槍オルクキヴム―――旧い神話の聖槍だが、魔導工学は伝承の力を擬似再現するに至った」
彼の技量にて回避は困難を極め、防御は事実上不可能。
兵器として欠陥扱いされるほどの使い勝手の悪さは、爛舞騎士の前にはデメリット足り得ない。
―――あんなもので狙われては堪らない。イリスは駄目元で再び魔法を自分にかけるも、やはり安定せずに海水に墜落する。
「ぷはっ、はあ、はあっ」
なんとか石筍に縋り付くも、その様は無力な敗者のそれであった。
「さあ、今度はどう捌く!?」
「た、タンマ!」
「待たない!」
槍を構えるバール。
そこに、数本の矢が飛来した。
「―――なんだ、まだいたのか?」
「こ、今度は当てますわよ!」
アスカであった。弓を構え、次の矢をつがえている。
「何が今度は当てる、だ。今のも当てるつもりだったんだろ?」
「そ、そんなことは……」
「引っ込んでいろクソブスが! 貴族の令嬢が嗜みで覚えた弓術で、爛舞騎士が落とせるとでも思っているのか!」
「アスカ。その通りだ、引っ込んでいてくれ」
イリスは石筍の上に片足で立ち、その満身創痍の体を全てバールに晒した。
「心配するな、すぐそちらに行く。だから」
「ほう? 僕のオルクキヴムを何とかする方法でも思い付いたのかい!?」
「ああ、そんな玩具、楽勝だ」
ふてぶてしく笑うイリスに、バールは今度こそ槍を渾身にて放った。
身を全力で反らし、外野などあってなきが如しと言わんばかりに全力で。
鍛え抜いた四肢の筋力を板バネのように撓らせ、毛細血管が千切れんばかりに神経細胞を酷使し。
「届け―――僕の、君への愛いいぃぃぃ!!!」
音速すら超え、人工の破滅の槍はイリスへと猛進した。
世界を削りながら、精霊を消滅させながら空間を食い千切っていくオルクキヴム。
イリスへ到達する時間はコンマ3秒。眼球に入った情報を脳が処理する猶予すらない、完全迎撃不可能な間合い。
「アスカ。お前がいなければ、詠唱しきれなかった」
それを、イリスは。
「――――――ジ・アクト」
彼女が有する最大の切り札を以て、応戦した。
彼女の世界が停滞する。音速を超えて飛来するはずの槍が、あまりに遅く認識される。
全身の魔力をただ刹那に消耗し、肉体の限界を超過して力を発現させる第一級魔法ジ・アクト。
この時を以て、彼女にとってオルクキヴムはただの手槍と化す。
目の前にまで迫る超音速の槍を、イリスは極超音速に達する速度の腕で真っ向から握り、止めてみせた。
「そうだ、これは俺が開発したシステムだ」
だからこそ、弱点も判る。
右手で無造作に掴み取ったオルクキヴムを、左手のナイフで分解する。
見慣れた工業製品、規格部品。勝手知ったる機械構造。
「電源供給は―――ここか」
ナイフの刃先で、電線を千切る。
それだけで、オルクキヴムの全機能は停止した。
世界に時間が戻る。人知を超えた早業に、バールですら何が起こったか理解しきれない。
判るのはただ一つ。イリスが必殺の槍を、真っ向から攻略したということだけ。
「借りるぞ、バール」
「なっ、おい!」
壊れたオルクキヴムに腰掛け、イリスはそれを箒代わりに飛行する。
ジ・アクトはほとんど全ての魔力を消費してしまう。こうなっては、もう当初のプランに賭けるしかなかった。
イリスが向かった先は大教会に繋がる階段。
「逃げるというのか、ここまで来て!」
バールは手にした鎖を引く。鎖に繋がったオルクキヴムもそれに従い、反動でイリスは宙に放り出される。
「うぐっ、んぎゃっ」
受け身を取ることも叶わず、木造の足場を転がるイリス。
そして微動だもしなくなった彼女の元に、バールはゆっくりと歩み寄った。
「……死んだのか? こんなことで!? 逃げ腰が最後の姿だというのか!」
バールは憤怒のまま、イリスを見下し踏み付ける。
声も漏らさず、だが辛うじてぜえぜえと息をしていることから生きていることだけは判る状態のイリス。
バールは安堵した。せめて、トドメは自分で刺せることの喜びだ。
「い、イリス……!」
階段の近くにいたアスカが、愕然と声を上げる。
「なんだ、まだいたのか。どっか行け、僕達はこれから一つになるんだ」
彼女に視線すら向けず、バールはオルクキヴムを握り振り上げた。
「あ、スカ」
声も絶え絶えに、イリスはただ一言だけ絞り出した。
「…………やれ」
アスカが階段の柱に立て掛けられたトランク、その端から伸びた紐を引く。
トランクの外板が弾け飛び、内部の数百個の金属片がバールを撃ち抜いた。
「―――なんだと?」
訳も判らぬままに、力なく倒れるバール。
アスカが使用した兵器。地球においてはクレイモア地雷と呼ばれる、指向性地雷。
「間抜け、め」
倒れていたことでクレイモアの範囲から逃れていたイリスは、なんとか立ち上がる。
「お前が立ち塞がることは判っていたんだ。俺が対策を練っていないとでも、思ったか」
「―――ただの衛生兵では、なかったのか」
全身から血を吹き出し、見るも無残な姿となったバール。
医療従事者が鞄を持ち歩くなんて珍しくない。故に、バールはアスカのそれを武器だとは考えなかった。
「お前みたいなすばしっこい敵には、面で攻めるしかなかった……何せ此方は非才の身なのでな」
「そうだ。君は弱い、才能がない。―――だからこそ、その強さは軍隊に転用可能という恐ろしさがある」
むしろ、もう長くない命だからだろうか。
バールは死の縁にあって、雄弁と軽妙に言葉に応じた。
「……なんて顔をしているんだ。変な奴だな、君は」
ボール球に穿たれ、赤い孔と化した目でバールはイリスを見上げる。
「狂ってるよ。君は狂ってる」
「そうかもな」
「なんでお前は英雄なんだ。英雄なんて嫌いだ。なんで、英雄なんだよお前なんかが―――」
バールの目から流れるのは涙か血か、そんなことももう判らない。
ただ、イリスとしてはこれだけは訂正せねばならなかった。
「英雄? 俺が? ―――見当違いもいいところだ。俺はただ戦うと決めただけの、一兵卒だよ」
バールは子供のように無垢に笑った。
「―――君が好きになれて、僕の人生は意味を得た」
バールは死んだ。
国を失い、国を裏切り、組織すら裏切った男の最期だった。
まるで勝ち逃げだ―――イリスはそう思った。
最後の笑顔は、そう思わせるほどに純粋な心を感じたのだ。
イリスは無言で踵を返し、自らの足でなんとか地下教会へと向かう。もう箒に乗る魔力も惜しかった。
それに付き従う形で、アスカも後を追い―――しかし、彼女だけは振り返った。
「ちょっとだけ、解る気がしますわ」
バールという男の狂気を、絶望を。
アスカは片鱗だけであっても、理解してしまった気がした。
「本当に、イリスが好きだったのね、貴方」
「この先にバルドディが……」
ここまでくれば、もうバルドディもついでに助けねば割に合わない。
敵はほとんどを打ち倒し、障害はもうないのだ。白化汚染個体となったバルドディも、ソフィー仕込みの暗示魔法ならば正気に戻せる。
あともう一踏ん張りであった。海水の水位もかなり上昇しており、猶予はない。
「何かお手伝い、必要ですか?」
「大丈夫。手順が面倒なだけで、暗示魔法はそう難しいものではありません」
アーレイから、バルドディが完全に肉体を拘束されていると聞いていた。
身動きが取れないならば、暗示魔法をかけるのも難しくはない。
「えっと、これですか」
聞いた話では、壁のレバーを操作すれば教会地下への道が開くとのことであった。
すぐにレバーを見つけ出し、体重をかけようとする。
―――床板が吹き飛んだ。
「イリス? えっ? これが正常な開き方ですの?」
「……いえ、私はまだ操作していません」
下から穿たれた穴より、白い巨体が飛び出す。
空を飛ぶ能力を失ったドラゴン。しかしその馬鹿げた脚力は、ただ跳躍だけで滑空するに足る速度と高度を得る。
教会内の美品をなぎ払い、人と比べあまりに重い肉体を滑らせ彼は彼女の前に現れた。
数回スピンし、長椅子をなぎ払いながら着地した彼を、イリスはよく知っていた。
「―――バルドディ。相変わらず、寝起きの機嫌はナナメといったところですか?」
白化汚染個体化したバルドディに、場違いに苦笑するイリス。
その瞳に一切の理性は失われ、飢えのままに目の前の人間を餌として認識した猛獣。
「アスカ。先に上に戻っていなさい」
「で、でもっ!」
「今はこちらに気が向いていますが、気付かれれば貴女も標的にされます。邪魔です」
歯軋りし、役には立てないと判断しアスカは撤退する。
水位は更に上昇し、教会が水びだしとなった。
その様はまさに水の教会。野獣と化した相竜を前に、イリスは退く気はなかった。
「それなりに会いたかったですよ。貴方みたいな不出来で粗雑なドラゴンでも、私の相竜には違いない」
不変の聖水剣を正眼に、剣道のように構えイリスは挑む。
「まあ、アキレウスみたいな素直な子と比べるとどうにも見劣りしますが。……アーレイに頼んで、今から交換してもらいましょうか」
バルドディの軽口への返答は、殺意の滲んだ咆哮であった。




