神話
遠すぎる空作戦が始動する数日前。
地下都市ミソル・アメン中央の大教会にて、彼女は行動を開始した。
高貴な身分の者を幽閉しようと思えば、それなりの部屋を用意せねばならない。
例えそれが哀れな虜囚であったとしても、贄としての運命を定められた家畜だとしても。
アーレイが与えられた部屋はそういう意味では優秀であった。家具は揃っており、ベッドメイキングは完璧。ただしかし唯一出入りは厳重に封じられており、明かり窓は鉄格子で腕を屋外に伸ばすのが精一杯。
魔法を使おうにも、部屋全体が魔封じの結界と化しており手は出せない。
執拗で一分の隙もない、高貴なだけが取り柄のか弱く哀れな姫を捉えておくには充分な牢屋であった。
「―――よし、一本取れました」
だがしかし、この部屋の主はただ高貴なだけが取り柄のか弱き姫君ではない。脱落者が続出し死亡事故すら起きる過酷な訓練を乗り越えて正規騎士となった、本物の軍人である。
出入り口を封じられている以外は至極快適な、アーレイにあてがわれた客室。
家具などは一通り揃っているものの、武器となりそうな物は何一つない。抵抗どころか自殺すら難しい状況だ。
しかし彼女はそれでも室内を徹底的に調べあげ、幾つか有用な物を確保した。
小さな薄いブリキ板、ランプの油、そして釘などなどである。
ブリキ板に釘で穴を開ける。それだけで一苦労な仕事だが、彼女には時間は幾らでもあった。
一つ一つ開けていった穴はやがて一列に並ぶ。そしてそれに沿ってパキンと割ることで、金鋸を制作した。
その鋸の切れ味が落ちないように油で手入れしつつ、太い窓枠の鉄格子を一本一本切断していったのである。
時折訪ねてくるスヴェルや食事係の目を盗んでの作業。かなり神経を擦り減らす作業であったが、アーレイは成し遂げた。
魔法を一切使わず、脱出手段の確保に成功したアーレイ。外した鉄格子は大きくないが、人間というのは猫の髭のように肩幅さえ通ればそこから下も問題なく抜けられるとされている。
アーレイは鉄格子の隙間が充分な広さになったと判断し、穴抜けを試みる。
「くっ、胸がきついですっ」
肩は通ったものの、胸部の関係で引っかかるアーレイ。
彼女の体型は一般的の範疇になかった。
それでも無理矢理脱出したアーレイは、身だしなみを整えて堂々と施設内を歩く。
「こんにちは、スヴェル様」
「はい、おはようございます」
通りかかった騎士ににこやかに返答するアーレイ。堂々としていれば、アーレイとスヴェルを見分けられる者はいない。
「おや、スヴェル様。今日は遠方の視察では?」
「ふふっ、バレてしまいましたか。実はそれは方便でして、ここに私がいたことは内緒ですよ?」
スヴェルの気安さをイメージしつつ、アーレイは人差し指を唇に当ててウインクする。
短い付き合いの人間に化けるのだ、違和感はある。しかし彼女は友人譲りのふてぶてしさで辛うじて乗り切っていた。
「さっき鐘が鳴っていたから……あと一刻は大丈夫」
事前に聞き出しておいたスヴェルのタイムスケジュールを元に、本物が通りかかっても不思議ではない場所を積極的に進んでいく。
アーレイの目下の目的は情報収集であった。教会からはともかく都下都市から自力で逃げ出すことは難しく、また時間的制約もある為にあまり遠くまではいけない。
ここまで大胆な行動をとれるのは、事態が露見しても殺されはしないという打算故。だがそれでもこの探索行為が発覚してしまうのは避けておくべきであり、だからこそアーレイはせめて情報をかき集めるのである。
教会やその周辺の地形や情報を暗記していく。この大教会は地下町の中心に聳える丘の上に建築されており、さながらある種の城のようにも見えた。
事実、大教会は清奏派の統治機構としての役割も兼ねている。町そのものが地下空間ということもあり防衛拠点としては不出来なのだが、この大きな教会は正しく清奏派の中心であった。
「少数でも精鋭なら、ある程度突破出来そうですけれど……あれ、こっちは行き止まりですか。―――この建築方式は」
「スヴェル様?」
ふとあることに気が付いたアーレイだが、思考は背後からの声に中断される。
慌てて笑顔で振り返り、だがアーレイの取り繕った笑顔は凍り付いた。
「バール」
彼女の前に立っていたのは、補佐役としてスヴェルの傍らに立っていたバールその人であった。
「どうなさったのです? 本日はお出かけの予定でしたが」
「え、ええ。ちょっと体調が優れなくって、後日にしてもらったの。ちゃんと貴方に伝わっていなかったみたいね」
「なんと! それはいけません、安静にしなくては!」
「平気よ、充分に休ませて貰っているわ」
「貴女が倒れられるようなことがあれば、我ら皆が心労で倒れてしまいます。どうか寝室にお戻り下さい」
「そうね、そうしよっかな。ああ、1人で行けるから大丈夫。バールは仕事に戻って頂戴」
「それならば宜しいのですが。―――寝室がどこか、判りますか?」
自分の家の寝室が判らない者などそういない。
アーレイはバールを睨んだ。
「バール。何故裏切ったの?」
「おや、もう終わりなのかい? てっきりこのままあの小娘に成り代わって組織を乗っ取るつもりかと思ったよ!」
ははは、爽やかに笑うバール。
理解し難い彼の思考回路に、アーレイは数歩後ずさる。
「僕は何も裏切ってなどいないさ! 常にこの胸に住まうのは1人の女性だけだ!」
「―――イリスに何をしたの」
アーレイの瞳に、裏切った事実以上の怒気が孕む。
バールはそれを涼しげに受け流し、踵を返した。
「着いてきなさい、面白いものを見せてあげよう!」
情報収集しているのだろう? と続けられた言葉に以前から脱柵がばれていたと察しつつ、アーレイは後を追った。
アーレイが連れて行かれたのは大教会の地下であった。
元々が町自体地下に存在する空間だが、大教会が丘の上にあることもあって階段はひたすらに長く地下へと伸びていく。アーレイはこのまま後戻り出来ないのではないかと、何度か背後を振り向いてしまった。
「まるでいつかイリスが話していた異国の神話です……」
恋人を亡くした男が地下の冥界に旅立ち、神に恋人を地上へ連れ帰ることを許される。
しかし言いつけを破り地上に着く前に振り返ってしまい、恋人は再び冥界へ戻されることとなった。
「……全然違う話でした」
目の前で飄々と背を晒す男が恋人役など、アーレイは御免であった。
元々アーレイはバールが嫌いであった。彼がイリスに向ける目が特別なものであると、何となく気がついていたのだ。
ましてや清奏派の幹部。この男は危険であることは、あまりにも疑う余地がない。
「足元に気を付けたまえ、滑るからな」
告げるバールにアーレイが周囲を見渡せば、歪な柱が不規則に立ち並ぶ広大な空間であった。
「これは、貴方達が作ったんですか?」
「いいや、自然に形成された物だそうだ。学者に言わせればこの柱一本が出来上がるのに何千年とかかっているらしい」
そこは広大な鍾乳洞であった。
氷柱のように垂れる鍾乳石。異世界故の成分の違いからか、太く成長したそれは石筍と繋がり石柱と化した物も少なくない。
知らぬアーレイからすれば、前衛芸術的な人工物に見えるかもしれない。しかしれっきとした自然の産物である。
地平線すら見えるのではないか、と錯覚しそうなほど広いこの地下空間において、人工物はただ一つのみ。
「こんな地下に建物があるなんて」
「君がここしばらく生活していたのも地下だがね」
地下都市中心のそれより遥かに小さいながらも、ここにも立派な教会が建てられていた。
観音開きの正門をバールが押し開ける。内部は長椅子の並ぶ、平凡な作りの教会であった。
そして最奥には祭壇。その上には、巨大な盃が据えられている。
「やっぱり。この祭壇、水の国のもの……!」
「まあ当然ではないか? この地がそもそも、水の国なのだ。国が滅んで数十年で、これを作り上げることは出来まい」
「……まだ滅んでいません」
アーレイを筆頭に、水の国は亡命政府として以前存在している。ほぼ機能を失ってこそいるが、主権を放棄したわけではないのだ。
しかし負け惜しみのように先の言葉を言いつつも、アーレイは目眩を覚える。
彼の言葉が正しければ、清奏派は水の国の国政事業なのだ。この戦争の犠牲者に対して思うところがあるのは当然であろう。
それは決してアーレイが責められねばならないことではない。だが、それはそれと割り切れるほど彼女は王族らしくはなかった。
「僕だって全てを知っているわけではないが」
前置きをして、バールは補足する。
「どの程度かはとかく、水の国の意志を曲解して清奏派を狂信集団に作り変えた黒幕はいるぞ」
「それは、どういう」
バールは答えず、祭壇を見上げる。巨大な杯が鎮座した台座は、まるでそれそのものが偶像であるかのようだった。
「清奏派の目的はドラゴンによるドラゴンの為の世界。ドラゴン種への、世界の譲渡だ」
この世界の主は誰か。
人は人こそ王者だと誇る。学者は数の多い昆虫こそが主であると語る。
この異世界において、それはドラゴンであった。
「ドラゴンは古くから畏怖の対象であり、信仰の対象であった。魔獣の一種とされながら別格の力を持ち、知性をすら有した」
その生態はあまりに奇妙で歪。あまりに多様性に長け、知能が高く理知的であり、そして本能に忠実。
「生物としての能力は、ドラゴンは人を遥かに凌駕する。人は空を飛べない。水中で呼吸出来ない。火を吹くことも出来ない。何故だと思う? 何故、ドラゴンだけがこうも強大なのか」
「そういう生物だから、では?」
「足りないんだ。それでは足りない。ドラゴンが強大なのは、ひとえに精霊の加護を受けているからなんだ」
精霊。この世界における神やそれに類する存在とされているが、その定義はあまりに曖昧である。
多様性に富み定義が難しい、というわけではない。単に『よく判っていない』のだ。
『いる』ことは判っている。しかし、蟻が人の全景を見渡せぬように、マクロな存在たる精霊は人にとって理解しがたい存在であり続けた。
されど、信仰の対象である以上は研究もされているし、ある程度の概念が構築されている。
バールのいう、ドラゴンが大精霊の加護の対象という言葉はそんな精霊信仰者にとって受け入れがたいものであった。
なにせ、大精霊は人ではなくドラゴンを愛しているということだ。愛する相手の寵愛を欲するのは当然の欲求であり、バールの言葉はそれを真っ向から否定するものに他ならない。
「グランドドラゴン。かつてイリス君が目撃した超巨大なドラゴンこそが、今代の大精霊に他ならない」
「―――今代?」
「そうだ。大精霊といえど寿命は存在する。だからこそ、大精霊は定期的に新たに生まれるのだ」
「初耳ですが。あの山より巨大なドラゴンが大精霊様だというものそうですが、大精霊様が代替わりするなど聞いたことがない」
「人の時間感覚ではそもそも理解しえない寿命だ。人類の有する歴史書の範疇では代替わりしていないと考えたほうがいい」
気の遠くなる話だ、とアーレイは思った。
この世界にも相応の歴史が存在する。その大半が戦争の記録だが、数千年にも及ぶ戦果の羅列は世界の始まりから記されていたと錯覚しそうなほどに長大である。
それら全てが、一代のうちの出来事だというのだ。途方もない長寿命である。
「時期が訪れると、様々な種族から1個体にのみ異常な者が現れる。白化汚染個体と呼ばれる彼らは『鍵』たる一族を捕食するレースを開始する、そうだ」
「そのレースに勝利した者が、次代の大精霊ということですか」
「そうだ。かつて狼の大精霊がいたのだろう、鳥の大精霊がいたのだろう。全ての種族に権利が与えられ、そして前代においでドラゴンは勝利した」
そしてドラゴンという生物は加護を勝ち取り、世界最強の生物として君臨するに至った。
「だがグランドドラゴンにとって、予想外のことが起きる。加護を得たはずのドラゴンは世界の主とはならず、他の種族が知能や技術のみを糧に世界の主として立ち振るい始めたのだ」
「……人?」
「そう、人の台頭だよ。当初こそ小さな集落を作り原始的な武器で生き延びてきた人類だが、やがてコミニュティを広げ鉄製の武器を作り、ドラゴンの立場を脅かし始めた」
グランドドラゴンは危機感を抱いた。時間と共に増え続け、技術を磨き続ける人という種族。これを放置すれば、いったいどこまで成長してしまうのかと。
「グランドドラゴンは決断した。様々な副作用を承知の上で加護を更に強化し、人類を駆逐すべく進軍すると」
「それが黒竜……そして黒竜軍だと」
「グランドドラゴンの決断は遅すぎた。当初こそ順調に国々を滅ぼしていった黒竜軍だが、進軍は徐々に鈍化し土の国においては絶対防衛戦の構築に成功。それ以上人類を駆除することが出来なくなったのだ」
確かに大きく力を削ぐことは出来た。
だがそれだけだった。
人は個体としては弱い生物だ。しかし、群体としては異常なまでの強大さを垣間見せる。
グランドドラゴンはそれを予測出来ていなかった。戦争は技術開発を加速させるというが、その速度は神に等しい存在の予想すら超越していた。
「人は文明を築き、技術を向上させ、この世界そのものといっていいはずの大精霊の軍勢とすら拮抗してみせてしまった」
そうして、人類を滅ぼすことも叶わず70年。
遂に焦れた大精霊は、次の手を打ったのである。
「彼らが生み出した次の手。フォートレスドラゴン、黒曜竜、汚染兵……近年出現しはじめた、数々の変種ということだ」
「清奏派の目的は世界のドラゴンへの譲渡、でしたね」
頷くバール。
「つまりは、貴方達は今代のドラゴンの白化汚染個体に、私を食べさせることというとですか」
そうだ、とバールはどうでもいい事柄であるかのように頷いた。
「『彼ら』は本来無秩序に争いあう白化汚染個体同士の競争を、人為的に操作しようとした」
二体目のグランドドラゴンの出現。人類に敵対する新たな大精霊の誕生。
その結果が如何なるものか、容易に想像がつく。
大精霊一体の加護で人類が滅びかけているのだ。彼らの悲願が達せられた暁には、人類は今度こそ命運が尽きる瞬間を目撃するだろう。
「―――そもそも何故、私が『鍵』なんて御大層な役割を持っているのですか。言ってはなんですが、王族なんてただの人ですよ」
アーレイとしては、まず自分がそのような大層な役割を有しているという言葉こそが疑わしかった。
「君はこの世の全ての生物が、何処で生まれたか知っているかい?」
脈略もないように思える、唐突な問い。
アーレイは僅かに逡巡し、答えた。
「海でしょう?」
今までアーレイと会話しつつも、アーレイに興味を一切示していない風だったバールが初めて彼女を凝視した。
「―――それを、何処で」
「昔イリスが言っていました。生物は海中のアミノサンがなんとかして誕生した、って」
「彼女は時々変なことを知っているな……その通り。多くの学者は大精霊がその誕生に関与していると考えているが、生物そのものの祖は海中から自然発生したものだ」
それは、神話より古い時代より伝わる血筋であった。
「水の国の王家とは、その直系なんだ。海で誕生した原始的生物、その血筋。ある種の楔脈系継承魔法としての力をすら有する系譜は、だからこそ『生贄』として相応しい」
いい迷惑だ、とアーレイは思った。
直系などというが、イリスから聞いた生物の起源は生物と呼べるほど大層なものではない。物質か生物かすら曖昧な存在であったという。
雌雄の区別すらない時代から受け継がれてきた魔法など、地球で聞けば眉唾ものであろう。
だが、いい迷惑と考えつつもアーレイはバールの言葉を否定出来なかった。
魔導とは物理現象のようなものだ。人間がいようといまいと、生物が生まれていようと生まれていまいと、絶対的な法則としてこの世の存在し続けたもの。
小さな蟻ですら、魔術的な意義が皆無なわけではない。本当に初歩的な魔法ならば、虫を贄とするものも存在する。
楔脈系継承魔法という技術体系として明確に確立してもいなかった当時。虫以下の存在に、それが偶然的に付与される可能性がないとはいえないのだ。
「本来の目的は純粋な人類の救済だったんだ。次の大精霊を人類から誕生させ、現行の大精霊を滅する。そうなれば、今度こそ人類はこの世界に謳歌していただろう」
「それが『曲解』ですか」
「そうだ。実をいえば、これまで拉致され捧げられてきた生贄にも何の意味もない。単に人類を弱体化させる為の一環だな」
人類の為の組織が、ドラゴンの為の組織へと変貌した経緯。
バールは多くは語らなかった。だが、アーレイはただ安堵する。
ドラゴンへの世界の譲渡。それは疑いようもない、人類に対する裏切り。
自分の祖国がそれを目的としたわけでもないと聞き、肩の荷が多少は降りた気分であった。
「だが、それは当然手段でしかない。本命はもっと別のところにある、実に俗物的でつまらない願望だよ」
「その口調だと、その俗物的な願いを抱いているのは貴方ではないということですか」
「僕は無欲な男でね。欲しいのは宝石一つだけだ」
バールは壁のレバーを押し下げる。
壁が動き、更に地下への階段が現れた。
「どこまでも地面の下が好きなんですね」
「降りたまえ。それとも、閉じ込められるのではないかと不安で足が竦むかい?」
つまらない挑発だったが、反抗するもの馬鹿らしくアーレイはズカズカと階段を降りていく。
どの道、バールがその気ならアーレイの命はこの場で潰えるのだ。
先程の階段よりはずっと短く、すぐにたどり着いたそこは湿っぽい牢獄のような場所であった。
「―――バルドディ!」
暗い地下の地下の地下で捕らえられていたのは、友人の相竜。鎖で雁字搦めにされ身動き一つとれない彼は、しかしそれ以外の理由から微動だにしない。
「まさか、彼が白化汚染個体?」
鱗が真っ白に変貌しているが、それは間違いなくバルドディであった。イリスがアキレウスとそれなりに仲良くやれているように、アーレイもバルドディとそれなりの面識があるのだから。
バルドディは見るからに衰弱した様子であった。だがその割に隆々とした肉体は衰えておらず、奇妙なアンバンスさを彼女は感じ取る。
竜騎士の知識で彼を診察し、すぐに異常の原因を知る。
腹部を触診し、腹に何も入っていないことを確認したのだ。
「せめて、食事を与えてはどうです!?」
「与えているさ。そこを見たまえ」
バールの指差す方向を見やり、アーレイは小さく悲鳴を上げた。
死体であった。腐乱し蝿の集ったものから、真新しく見えるものまで多くの人間の死体。
その大半が女子供であることが、アーレイに彼らの異常性を知らしめる。
「食べてしまえば楽になるものを、強情な奴だよ」
「彼は誇り高いドラゴンです。食べるわけがない」
「まあ、どちらでもいいのだが。本能とはいつまでも抗えるものではない」
アーレイはバルドディの前に回り込む。不用意な行為だが、彼が自分を傷付けないという確信があった。
彼の目は虚ろで、焦点が定まっているようには見受けられない。どういうことかと更に近付こうとして、彼女は腕を強引に引かれバルドディから離された。
「痛っ」
何をするのか、と抗議しようとして目を疑う。
つい先程まで自分がいた空間を、バルドディは渾身の力で噛み砕こうとしたのだ。
「バルドディ……貴方」
今、バールが腕を引かなければ人類の歴史が終わっていた。
あまりに唐突に訪れた分岐点に、アーレイは冷や汗が吹き出すのを感じる。
「もう君が誰かも見えていまい。これ以上粘られては計画の変更もやむなしと考えていたが、ちょうどいい塩梅に仕上がったな」
唾液を撒き散らし、理性もなく呻くバルドディ。
この世界では精霊信仰と共に、ドラゴンを神聖視する価値観が存在する。
それに真っ向から相反する虐待行為に、アーレイはせめて罵倒を向けようとする。
だが、それは次のバールの言葉に行き場を失うこととなった。
「先程の黒幕についてだが。ある人物を面白がって観察していたようだが、いよいよその異常性を認識したようだ。これから彼女を排除する方向で動くつもりらしい」
「―――イリス」
「まあ、無駄だろうな。あの少女は立ち塞がる障害を斜め上から飛び越えていく。真っ当な思考回路の者に打倒出来るものではない」
それはバールのイリスに対する、本心からの信頼であった。
「ここまで来い、イリス・ブライトウィル。愛を捧ぐには絶好の場所だ」




