脱出劇1
「情報提供をお願いします」
現地を直接見ていた人間の証言だ。その価値は計り知れない。
もう少し落ち着いた状況で聴取は行うべきなのかもしれない。しかし、イリスはそんな時間がないことを感じ取っていた。
「教えて下さい。組織で気付いたこと、重要人物、何でもどんな些細なことでも構いません」
イリスはアスカが意図的に情報を制限していたことには気付いていた。何故、この絶対安全であるはずの船内で情報開示に対して躊躇しているのかも。
それでも、聞かねば始まらない。既にここは戦場なのだ。
「貴方をこの船に導いた『裏切り者』は誰ですか?」
「団長よぉ」
「―――えっ?」
答えたのはアスカではなく、セラミーであった。
イリスは驚愕を隠しきれぬままセラミーを見やる。アスカもまた同様だ。
「バール団長が清奏派のナンバー2、通称補佐役かしらぁ」
「それは……いえ、何故貴女がそれを『バラす』のですか!?」
船内に敵の浸透を許していることにイリスは気付いていた。それがセラミーである可能性も考慮していた。
故に、セラミーが何らかの情報を知っていることは不思議ではない。問題は何故それを開示したか、である。
「バールがあの補佐役? それでは、それではこの船は……!」
「そう、全員―――第四騎士団そのものが、清奏……」
セラミーは何気なく、自分の胸に視線を落とす。
長い矛先が、彼女の豊満な胸元から生えていた。
「あら、ぁ……?」
突然の睡魔に襲われたように、簡単に崩れ落ちるセラミー。
鮮血が床に広がり、木の床板を黒く染める。
「いやぁ、上手くいかないものだね! 時間稼ぎをしろと命じたはずなのに、まさかセラミーが裏切るなんて!」
感嘆符がやたらと多い文面。やたらと大きな声。
その正体を、イリス達は知っている。答えは、ついさっきあっさりと提示されてしまっている。
「バール、バール・ド・デュラン!」
船内に爆発音が轟く。
イリス達のいる医務室より後方。艦尾から、くぐもった衝撃が響いた。
丸窓の外に広がる赤い光。攻撃魔法が前触れもなく船内で放たれたのだ。
「上級魔法? ―――ソフィー!?」
分断されていた、と気付いた時はもう遅い。
目の前にいるのは爛舞騎士。アスカは未だ身体を一部拘束され、イリスに白兵戦能力はほとんどない。
「人の心配をしている場合ではないぞ? 投降するんだ、君に勝ち目はない」
バールが槍を振るえば、散った血痕が壁に赤線を引く。
不動の鉄城という、竜騎士にとってあまりに狭いフィールドでの戦闘が始まった。
「訊いてもいいですか?」
「なんだい?」
世間話のように問うイリス。世間話のように答えるバール。
船のどこからか怒声と悲鳴が聞こえる中、彼等はあまりに悠長に話す。
「今の投降勧告はいいとしましょう。絶対的に有利な状況なのです、欲を出したって不思議ではない。ですが、何故あの時私達の住居に飛び込んできたのですか?」
「アスカ君が君を殺そうとした時かい?」
首肯するイリス。
バールが補佐役であり、アスカにイリス暗殺を命じたというのならば―――何故それを当の本人が妨害するのか。
イリスが既に致命傷を負っておるであろうタイミング、とするには早すぎた。ならばバールの目的はどこにあったのか。
「それはだね、僕が君を愛しているからだよ!」
「ごめんなさい」
「はっはっは、振られたね!」
イリスは本気であるなどとは当然捉えなかった。
しかしバールは本心であった。
どこまでも本気で本心であったのだ。
「初めて会った時のことを覚えているかい? 君はアイギス様と会うために、よく城に忍び込んでいたね!」
「忍び込んだとは人聞きの悪い。どうせ毎回バレバレだったのでしょう、何度目かで直接挨拶までしたではありませんか」
バールはアイギス、つまりアーレイの護衛であった。イリスとバールの縁はかれこれ10年くらいも続いている。
バールの恋慕もまた、同じだけ続いていた。
「一目惚れだったんだ!」
「待って下さい、当時私は4歳ですよ?」
「愛に年の差など関係ない、多くの詩人がそう謳っているじゃないか!」
バールの瞳が輝く。彼の記憶には、その時の衝撃が鮮明に残っていた。
「君は確かに小さい少女だった! だがその目の聡明さは他の追随を許してなどいなかった! 利発な眼差し、美しい金砂の髪、細くしなやかな手足! 僕は思った、君こそが僕の生きる理由であると!」
「違います」
「僕はずっと生きる理由を求めていたんだ! 生まれながらにして清奏派の構成員であった僕だが、ずっとあのどうしようもない蒙昧な連中に疑問を抱いてきた! あんな袋小路に追い詰められた挙句妄想に囚われた狂人達において、ずっと自分の存在意義を求めていたんだ!」
誇りを捨てなかった、そう言えば聞こえはいいのかもしれない。
しかし彼らの執念は歪んだ形で文化となり、宗教に昇華される。
それは不思議なことではない。この世界において物質主義的な思想を持ち込んだのはイリスが初めてであり、それ以前はオカルトが主流だったのだ。
まして、そのオカルトも魔法や精霊という存在が実在し、異なる面から成立しうる学問であるともなれば。
この世界において、宗教と科学は同意義と成り得る。地球生まれのイリスからすれば理解し難い概念であるが、仮に太陽が地球の周りを回っているとして、それで誰も不便を感じないならば天動説は現実となるのだ。
―――そういう意味では、やはりバールは異端であった。明確な根拠もないままに、地球は太陽の周囲を回っているなどという妄想に囚われていたのだから。
「そこに、君が現れた」
バールはそれこそ、祝福を与えられた信徒のように両手を左右に大きく広げる。
「僕は理解した! 君こそが僕の理由だと! 君がいるから、僕がこの世に生を受けたのだと!」
なんだそれは、とイリスは頭痛を堪える。
いい迷惑な話だった。まさかあの紳士的な護衛騎士が、これほどまでの感情をひた隠しにしていたなどとは予想だにしなかった。
「それなら真っ当にアプローチすれば良かったではないですか。いえお断りしますけど」
「それでは困るよ! 僕には君しかいないんだ、君を妻にしなければ僕の人生に意味はなくなるんだ!」
バールはちゃんと判っていた。遥かに年下の女性に求愛することがどれだけ奇異な目で見られるか。イリスがそんなことを受け入れないことも含め、しっかりと客観的に理解していた。
だからこそ、ひたすらに雌伏し続けたのだ。
「君を追い詰める必要があった。君を苦しめる必要があった。君を改変する必要があった。君と僕が結ばれうる状況を作る必要があった。君が僕を男性として意識するきっかけが必要だった。君と結婚するにあたっての障害を排除する必要があった。君との愛を祝福される理由が必要だった。全てを満たす未来が必要だった。君を抱きたかった。君を犯したかった。君を腕に抱きたかった。だから、僕は僕の持つ全てをその可能性に注いだ!」
「きもい」
―――だとしても、やはり何ら答えにはなっていない。
少なくともイリスにはそう思えた。だがバールはそうではなかった。
「訊くが、イリス君は僕のことが嫌いだったかい?」
「そんなことはありませんが。まともでちゃんとした人だと思っていましたよ」
「そうだ。それが前提だ。だが君はどこまでも中性的な人間だった。男ではないが、女としての自覚もない。それを女に傾けるには、そう―――胸がきゅんとするようなイベントが必要だった」
「テロリストが胸キュンとか言うな」
だが、とも思う。
こうしてイリスが女として生を受けてしまった以上、その手の話はいつか避けられないであろう。
その時、バールが候補として上がったら?
彼が、「形だけでも構わない」とイリスの抵抗感に理解を示していたら?
「―――なるほど、それで『胸キュンイベント』ですか」
バカじゃないか、とイリスは思った。
しかし合理的な判断であることも、否定しきれなかった。
「信じていた同室の女性に暗殺されかけ、それを颯爽と食い止める―――そんな茶番の為に、アスカを弄んだのですね」
あまりにチープな計画だ。だがイリスがこれを茶番と気付かねば、本当に痺れ薬を飲んでしまい、空前の灯火となった瞬間に助け出されれていたならば。
バールに対して、他人以上の好意を抱いていても不思議ではない。恋愛感情とはいかずとも、アーレイやフランに向けるような気の置けない好意を。
しかし計画は破綻した。バールの10年は、計画を急いだせいで無駄となった。
「ここまで暴露されて、それでも尚貴方に好意を持つ可能性があると?」
「まさか! ここからは別の作戦だよ! 君を捕らえ、手篭めにするんだ!」
「……うわぁ」
嫌悪感を隠しきれず、一歩後ずさるイリス。
「一応訊きますが、時間をかけて私を籠絡しようとでも?」
「いや、たぶんそれはない」
バールはあっさりと否定する。
「だからこれは次善策だ。君の心は諦めるよ……ただ、身体は僕のものにする」
「貴方の株がこの数分で大暴落していますよ」
しかし、本気であることは目をみれば明らかであった。
欲望、などという単純で生ぬるい意思ではない。
好意であった。ひらすらに純度を高めた、刃物のように相手を傷付ける好意がイリスに向けられていた。
さてどうしたものか、とイリスは冷静に思考する。
この距離を、しかも狭い室内でバールに勝つ方法は万に一つもない。
奇策は趣味ではなかったが、贅沢は言ってはいられなかった。
「―――でもまぁ、許容しましょう。それが女の甲斐性というものでしょうし」
イリスは不敵な笑みを浮かべ、バールにおもむろに近付く。
「止まれ。何のつもりだい?」
「私を愛している、という割に私のことを理解していませんね。アスカに関してもそうだったでしょう?」
バールが口の端を僅かに上げる。
彼はイリスがアスカを助命することを予想出来ていなかった。実をいえばアスカの暗殺計画を看破されることは考慮していたが、まさか敵の手に落ちた人間をリスクを背負ってまで助けようとするなどとは思ってもみなかった。
バールにとってのイリスの未知の部分。それは、イリスの前世に関わる部分。
イリスはバールの前で跪き、彼の股間を撫でた。
「なっ」
「ふふ、私とて女なのですよ。知っていますよ、殿方はこういうのを好きなのでしょう?」
扇情的に騎士服をはだけさせ、焦らすように手を擦るイリス。
イリスは知っていた、男性がどのような仕草を好むか、男性の劣情を刺激するにはどうすればいいかを。
主に前世の経験頼りであったが、この異世界に成人向け雑誌や動画などは当然存在しない。こういう趣向を理解しているのは娼婦くらいだ。
だからこそ、この稚拙な色仕掛けはバールの予想外であり。
「何を、イリス君、何のつもりだ!」
イリスの予想以上に動揺していた。
「バール、こんな私、知ってました? 知らないでしょう、貴方は何も知らないのです」
顔を朱に染め、犬のように擦り寄るイリス。
「私だって魔が差すこともあれば、えっちな気分で夜を過ごすこともあるのです。清廉潔白なんかではありません」
「ななな、何が言いたいっ?」
現実問題、この間合いに迫っても尚、バールの有利は変わらない。
ソフィーのように無詠唱魔法を使えるならばともかく、高速詠唱用人工言語による魔法攻撃でも対処可能な距離だ。故にバールはイリスの言葉に付き合うことにする。
「興味が湧きました。バール、貴方の行く末に」
「ほう? それは、僕の伴侶になろうということかい?」
「前向きに考えてあげてもいいですよ? 先のお下品な発言は大きな減点なので、今すぐというのはお断りですが」
予想外の言葉に、バールはイリスの顔をじろじろと見る。
「君は土の国の騎士だろう」
イリスはぽかんと目を丸くして、それから声を上げて笑った。
「あはは、いえいえ。私はそれほどまでに国家に対して忠誠を誓っているように見えるのですか? 私が頭を垂れるのは空だけです。それ以外は些事でしかありません」
イリスは空を絶対的価値とする異常者である。故に、それ以外の部分については他から見れば不明瞭な場合も多い。
彼女はそこを突いた。一度イリス・ブライトウィルという人間の評価を崩すことで、バールの認識を混乱させたのだ。
「―――イリス君」
「バール?」
2人は見つめ合う。
確かにその光景は、人からは歳の随分と離れた恋人同士にも見えたかもしれない。
「君は、やはり僕の認めた娘だよ」
ああこれダメだ、とイリスは落胆した。
蹴り飛ばされるイリスの小さな身体。平均より遥かに軽い彼女は、鞠のように壁に叩き付けられる。
「ごほっ、あうぅ、この、子供が作れなくなったらどうするつもりですか……!」
「演技が抜けていないぞイリス君!」
腹を強打されてむせるイリスを、バールは片手で担ぎ上げる。
「あああっ、君に触れているよ! 君の体温が、君の香りが芳しいいぃぃぃ!」
「貴方、あの町で一番まともな人間だと思ってましたけど、どんだド変態ですわ……」
アスカが愕然と指摘すれば、バールは冷ややかに彼女を睨む。
「誰が呼吸を許したメス豚。イリス君の呼気は僕だけのものだぞ」
バールは槍を投げる。
投擲と呼べるほど上等なものではない。無造作に捨てられた長槍は、だが寸分の狂いなくアスカに吸い込まれる。
イリスはそれを、痛みで朦朧とした視覚でうっすらと見つめていた。
「雪華の妖鬼―――」
今更ながら、ヒントはあったはずだとイリスは悔いる。
絶対必中。防げど、避けようはない呪いの槍。担い手は得物を選ばず、なんら呪術の効用も要さぬままに的中は呪いとなる。
雪華の妖鬼。爛舞騎士バール・ド・デュランを称した名である。
バールは優秀な人間であった。文武共に優れ、努力も積み重ねてきた人間であった。
それでも尚、爛舞騎士という高みに至れた理由はと問われれば、やはり投擲の才能以外にはあるまい。
努力や集中力で覆せない高みがあった。イリスが空に狂うように、ソフィーが魔法を呼吸と等しく操るように、バールもまた必中を必然としてきたのだ。
もう遅い、とイリスは諦めた。
バールが投げた攻撃を避ける手段はない。打たれれば凌ぐ手段は防ぐしかない。
当然、アスカにそんな方法論などなく。
バールの槍は、『女性』の身体を深々と貫いて静止した。
「―――大丈夫ぅ?」
「セラ、ミー?」
愕然とベッドから見上げるアスカ。
新たに空いた穴から、更なる大量出血を零すのはセラミー。
セラミーは、アスカとバールの間に割って入ったのだ。
「ほう!」
関心したように声を上げるバール。
セラミーは片腹を貫通する槍を抜き、構える。
「第四騎士団所属治癒術士、セラミー・トライス。うふ、いくわよぉ」
赤い血飛沫を残しながら、セラミーはバールに刺突する。
バールは別の槍を手品のように取り出し、セラミーの攻撃を余裕をもって受け流す。イリスを肩に載せたままだ。
「はあっ!」
「ふっ、お前と手合わせするのは久々だな!」
第四騎士団には槍使いが多い。水の国の戦闘術は水中戦闘を想定しており、水の抵抗が大きい水中での剣技を嫌う傾向があるのだ。
バール自身が槍の達人ということもあり、第四騎士団はほぼ全員が槍の使い手。そしてそれは、治癒術士のセラミーも同様であった。
狭い船内にて、縦横無尽に長い槍が弧を描く。セラミーが必死の形相で振るうにも関わらず、バールは片手の槍でそれを逸らし、いなし続ける。
「あまり動くと出血多量で死ぬぞ? 裏切り者とはいえ元同志だ、槍を捨てるなら悪くはしないと約束しよう!」
「貴方が信用に値しない人だってことくらいぃ、ずうっと見てきた私達なら知ってるわよぉーっ」
身体に風穴が2つも開いていながら、セラミーは戦闘を続行し続ける。
「厄介だな、一流の治癒魔法を扱える騎士というのは!」
その理由は、既に何度も発動し続ける治癒魔法にあった。先の槍創を始め、戦闘開始後から身体を切られようと穿たれようとセラミーは自分の傷を塞ぎ続けているのだ。
「『 』『 』『 』『 』『 』『 』―――!」
セラミーは意味を成さない言語の羅列を呟きながら、槍を振るい続ける。
彼女の肩がバールの槍によって千切れ、即座に繋がって再生した。
「―――効かないわよぉ、いい加減諦めたらぁ?」
槍術による全力戦闘を行いながらの、高速詠唱用人工言語による自己治療。
「意外と凄い人だったんですね、セラミーって」
その困難さを理解しているからこそ、イリスはこのような状況にも関わらず感嘆した。
左右の手で別々の文章を書く、なんてレベルではない。血の滲むような鍛錬を、彼女の戦いからイリスは垣間見た。
「ふむ、確かに責めきれひゃん!?」
イリスはバールの首筋に、そうっと舐めて濡らした指を這わせる。
明確な敵意や殺気があれば気付いたであろうイリスの抵抗も、このような悪戯じみた行動は予想外。
思わずバランスを崩してしまい、イリスはその隙を突いてバールの腕から抜け出す。
元航空自衛隊の癖に無駄に洗練された五点接地で床を転がり、そのままアスカに駆け寄るイリス。
「動かないで下さい、今拘束を外します!」
「君は戦い方がいちいちセコくないか!?」
「目の前にいる女を無視しないで頂戴ー?」
僅かに動揺したバールだが、結果的には彼の能力を制限していた枷は外された。
「それは失敬、ならばすぐに墜とすとしよう!」
両手で槍を握ったバールは圧倒的であった。瞬きの間にセラミーを切り裂き、その四肢を串刺しにする。
片手でようやく拮抗していたのだ。万全な状態となってしまえば、爛舞騎士に勝てるはずがない。
治癒魔法は完全に追い付かず、復元する間もなく傷に傷が重ねられていく。
セラミーはこの戦いが長く保たないことを知っていた。誰よりも正しくそれを把握していた。
「セラミー! イリス、セラミーを助けて下さいませ!」
「―――っ」
拘束から解き放たれたアスカが懇願するも、イリスは頷けない。
イリスが割って入ったところで、何も出来ないことを彼女は知っていた。だからこそイリスは魔法を詠唱する。
「『 』『 』『 』ウェイバズ」
側面の壁に向け、第8級の炎魔法を。
一定範囲をしばしの間苛烈に燃やす炎は、魔力の供給が終われば夢だったかのように失せる。残ったのは壁の大穴だけだ。
イリスはアスカに肩を貸し、壁の穴を抜ける。
「セラミーはどうしますの!?」
「見捨てます。『我々』に彼女を支援する術はない」
何も出来ないのはお前も同じだ、そう言外に言いつつイリスは進む。
「セラミー!」
アスカの呼ぶ声。
微かに振り返り、セラミーは笑った。
「生きなさい、アスカ」
それはあるいは呪いの言葉か。
アスカにとってあるいは最も残酷な願いを、セラミーはこの後に及んで望んだ。
「ごめんなさいねぇ。色々とぉ」
壁越しの声はくぐもり、その窮地を窺い知ることは出来ない。
だが何度も聞こえる肉の潰れる音が、金属同士がぶつかる音だけがその凄惨な戦いを伝えていた。
アスカには何も言えなかった。赦しの言葉でも口にすれば、セラミーの救いにでもなったのであろうか。
しかし、その機会は失われ、再び訪れることはなかった。
「やるじゃないか、セラミー。僕は君のような部下を持って誇りに思う」
バールとセラミー、2人の戦いの決着はすぐについた。
元より無茶だったのだ。自分の負傷を治しながら戦うなど、限界はすぐに訪れる。
出血死。血が流れすぎたことにより、セラミーの脳は機能不全に陥った。
戦場ではもっとも普遍的な、シンプルな死因であった。
「君は弱い人間だった。だが心が折れる前に死に至るとは、この期に及んで一皮向けたな」
跪き、セラミーの亡骸に語りかける。
「ま、そんな決死の時間稼ぎの成果がこれでは無駄死にもいいところだがね!」
バールは笑っていた。
笑顔の嘲笑であった。
「さて―――追うか」
失った時間はあまりに短く、船はあまりに狭い。
バールは到底、イリス達を見失う未来を予想出来なかった。
「移動します! 歩いて!」
時はほんの少し遡り、セラミーの殿の間。
アスカを強引に引きずり、イリスは船内を進む。
「どこに行くんですの!?」
「今考えてます!」
次の部屋は作戦室であった。魔法の余波で崩れた紙の束を乗り越え、イリスの姿を認めた騎士達を魔法で薙ぎ払う。
断末魔を上げて死にゆく騎士達。皆、イリスもアスカも見覚えのある顔であった。
「投降しろ! この船に逃げ場などないぞ!」
「火力で押し負けているだけだろうに、笑わせるな! 有象無象が私の道を阻めると思うな!」
意識を切り替え、手当たり次第に魔法を放ちながら廊下を進むイリス達。
しかし魔力量の差は物量の差を覆すに至らない。船内を満たす大勢の騎士達は通路を回り込み、イリス達を挟撃する。
攻撃魔法を使えるのはイリスだけだ。一方向からの攻撃しか対応出来ないのは道理。
魔法の火線に追い立てられ、イリスは適当な部屋へと飛び込む。
籠城など出来ない。すぐに魔法を再び放ち、今度は天井を貫く。
「登れ!」
「ど、どうやってですの!?」
「ああもう、アキレウス!」
名を呼べば、天井からにょろりと太く逞しい尻尾が垂れる。
イリス達の真上は厩舎であった。これほどの騒ぎだ、アキレウスがアクションを起こしていないはずはない。
アスカがアキレウスの尻尾にしがみつくと、すぐにひょいと上の階層に運ばれる。イリスもそれに続いて身軽に天井を掴み、自力でよじ登った。
「アキレウス、お前は上空、いや海中にて待機をしていろ! 海面には近付くな!」
「この子に乗って船から逃げるんじゃありませんの?」
「非戦闘員を見捨てるわけにもいくまい、せめて生死の確認はするぞ」
第四騎士団そのものが裏切ったとはいえ、全員がグルとは考えにくい。
先程の戦闘音はもう止んでいた。誰と誰が戦っていたのか、なぜ音が止まったのか。
「望み薄だが、戦闘が硬直状態か、あるいは籠城しているのかもしれない」
「でも、この船には逃げ場なんて……!」
「あるさ、奴らも下手に破壊出来ないこの船の心臓部が!」
イリスは船の後方を見つめる。
外輪式動力船が動力船である所以―――動力厩舎室だ。




