矜持
「意識までは飛ばない薬、と言いましたよね。誰から聞いたか、お聞きしても?」
「なんでっ、貴女、お酒を飲まなかったですわねっ!」
「そこまで脳天気ではありませんよ」
じたばたと足掻くアスカだが、当然抜け出せはしない。
筋力に乏しいイリスでも、体術の心得はある。素人のアスカが抜け出せるはずがなかった。
ナイフを遠くに投げて目下の安全を確保し、現状を把握すべくとりあえず会話を試みる。
「刃物で人を殺すのって大変ですよ。手に肉の感触が残ると聞きます」
「ご心配なく! 死体には慣れましたわ、貴女よりずっと!」
そう言うアスカの瞳は、ぞっとするほど暗い。
イリスは確信する。これが突発的な犯行ではなく、アスカはずっとチャンスを狙っていたのだと。
「杞憂であってほしかったのですが―――残念です」
「ばれて、そんな、いつから」
「最初からです。貴女、私が爛舞騎士だと誰に聞いたのです?」
アスカの言動にはどこかしら、不自然なことがあった。
一つ一つならばイリスとて無視したかもしれない。だが、それらが積み重なった結果が大きな違和感としてしこりに残っていた。
アスカはイリスの警戒心を解く為にこの数日を費やした。だが、イリスはこの数日間をアスカの値踏みに費やしたのだ。
「バカにして! 私みたいな矮小な存在、怖がる価値もないってことですの!?」
「素人の決死の覚悟程度で、職業軍人は下せません。勇気とか知恵とか以前に、作戦が破綻しています」
「イリス君、無事かっ!?」
その声には聞き覚えがあった。見えずともイリスは乱入者が誰か特定する。
「バール?」
「これは……イリス君に何をした!」
バールは腰の短剣を抜き、アスカの首筋に当てる。
「貴方、な―――」
「喋るな! 不審な行動をしたら即座に首を撥ねる! 誰か来てくれ!」
手早く部下を呼び、アスカを荒っぽく連行する。その手際の良さに呆然とし、慌ててイリスはバールに駆け寄った。
「バール! アスカをどうするつもりですか!」
「……尋問した後に、憂いを断つ為にも処刑する。こんなことになって僕も残念だ」
冷酷に告げるバール。それはイリスの見たことのない、騎士団長としてのバールの顔。
それは正しい判断である。これは戦争であり、僅かな情報でも全力で得ねばならない。その手段として、敵の尋問―――拷問とて、あるいは正当化されてしまう。
この国際法も戦争法もない世界では、それは悪ではなかった。
「お願いがあります」
「なんだね?」
「アスカへの苦痛を伴う尋問、及び法外の処刑は控えて下さい」
しかしそれでも、イリスは嘆願することを選ぶ。
イリスにとっては当然の感情であったが、バールにとってはいささか予想外の言葉であった。
「意外だね。君が情で判断するなんて」
「情ではありません。矜持です」
「助命は認めない。君は殺されかけたんだぞ?」
「事前に防げた事態です。泳がせていたのは私の判断であり、失策。その責任をあんなガキに押し付けるわけにはいきません」
「不安要素を生かしておく理由がどこにある。君は今、軽率なことを言っている自覚はあるのかい」
「抜かぬ剣こそ我が誇り。第三者から見れば滑稽で間抜けな考え方に見えるかもしれませんが、それでも―――ずっとそれに縋って、守ってきたのです」
国際法。条約。人権。文民統制。反戦感情。
自衛官は様々な理不尽に制限されながら、しかしそれを否定することなく国を守ってきた。
決して抜かず。それでも錆び付かないように手入れを怠らず。
―――そして、必要とあれば神速で居合を放てるように。
「うむ……」
イリスという人間に対するバールの印象は、正しく『リアリスト』であった。感情がないはずもない。だが、それを押し殺し利を取る冷静さを失わない戦士。
しかし今のイリスの進言は、そんなバールのイメージとは相反する内容だ。
バールはイリスをじっと見つめて、訊ねる。
「矜持と言ったね。それは祖国の命運と天秤にかけられるものなのかい?」
「矜持を捨てるなら戦う意義がないでしょう」
「言葉遊びをしないでくれ。生きるのに矜持など必要ないことくらい、君なら知っているだろう」
真っ直ぐにイリスを貫くバールの目は、適当な返事を許さない。
「人というのはね、衣食が満ちてれば最低限生きられるんだよ。そういう風に出来ている。プライドなんて犬の餌ほどにも腹の足しになりやしない」
バールの言葉には、強い実感が篭っていた。
彼はイリスより長く生き、多くを見てきた。残酷な世界を、過酷な現実を。
イリスの主張など、やはり結局は現実を知らぬ平和ボケのそれなのであろう。
「……ですが、やはり矜持なのです。敗者の尊厳を守る、それが私の哲学なのです」
けれど、尚も曲げられぬ誇りがそこにはあった。
「君の中では、敵に容赦しないことと敵を愛することが矛盾せず成立しているのだな。やはり不思議な娘だ」
それでこそだ、とバールは笑う。
「やはりうまくはいかないものだ。だがそれでこそイリス君だ!」
ばしばしとイリスの頭を叩くバール。撫でているつもりであった。
軍艦には普通どこかに独房があるが、不動の鉄城にそんなものはない。
突貫工事で厩舎を拵えるだけで納期は限界に達し、本来必要な様々な設備が欠落しているのだ。
「アスカはどうしてます?」
「開口一番にそれぇ?」
よってイリスの進言によって処刑を免れたアスカは、現在医務室のベッドに縛り付けられていた。
アスカは医務室にやってきたイリスに気付き、視線を逸らす。
「少しアスカと話したいのですが、よろしいですか?」
「……いいわよぉ」
イリスが丸椅子に腰を降ろすと、アスカは視線だけではなく首まで完全に逆を向いてしまう。
「…………。」
イリスは無言で椅子を持ち、ベッドの反対側に移動した。
アスカはまた逆方向へ目線を逃げさせる。
「…………。」
イリスは無言で椅子を持ち、ベッドの反対側に移動した。
アスカは更に逆方向へ目線を逃げさせる。
「…………。」
イリスは無言で椅子を持ち、ベッドの反対側に移動した。
アスカは再三逆方向へ目線を逃げさせる。
「…………。」
イリスは無言で椅子を持ち、ベッドの反対側へ移動した。
アスカはキレた。
「鬱陶しいですわ!」
「おはようございます、アスカ」
にっこりと笑いかけるイリスであった。
アスカは一時は反応してしまったものの、やはり口を噤み沈黙を守る。
イリスはベッドに乗り、アスカに膝立ちで跨がった。
「逃げないで下さい。卑怯者」
そう言えば、プライドの高いアスカはイリスの言葉に反応する。
そんな打算からの行動は、予想外の結果に導かれた。
「ひっ」
アスカはイリスに怯えたのだ。
「イリス、そういうのはやめなさぁい」
「む、失礼」
セラミーに嗜められ、イリスは反省する。
アスカがよくない記憶を思い出してしまったことを、流石のイリスも察したのだ。
「……聞きましたわ。どうして、私の助命を求めたんですの」
目をきつく閉じながら、アスカは訊ねる。
イリスはベッドから降り、アスカとは逆方向の壁を正面に椅子に座った。
「確かにバールの判断は、正しいものです。貴女の行為はどんな理由があったにせよ、少なくとも合法でも合理的でもない」
「なら」
「正しくないことなんて、誰だってしてしまうことがある。それくらいは私だって知っていますとも」
誰しもが魔が指すことはある。万人が天使と悪魔を内包している。
イリスは性善説も性悪説も信じてなどいなかった。
「だから、そんな些細な理由で命を粗末に扱ってはいけない」
この命の軽い世界では、合法的な裁判上でも簡単に極刑が言い渡される。
だが、イリスの前世においては死刑などそうそう下されることはない。
アスカの行為について、イリスとて思うところはある。だが、それが死に値するかと訊ねられれば、やはりノーであった。
「貴女は、責任には厳しい人間だと思ってましわ」
「厳しさと甘さは同意ですよ」
アスカはばかばかしくなった。全てを放り投げ、好き勝手に話してしまいたい衝動に駆られた。
しかしそれは許されない。彼女の細い双肩には、未だ多数の命がかかっているのだから。
「友達が」
「ん」
アスカはぽつりと呟く。
セラミーは拘束の一部を解いた。
「寝そべったままじゃあ話しにくいでしょう?」
それを数瞬じっと見つめ、アスカはゆっくりと身を起こし言葉を続ける。
「……友達が、あの無法者に未だに捕まっていますわ」
「人質ですか。それをダシに、私を害するように脅迫されたのですか?」
「そのはず、でしたわ。多分―――でも」
アスカの言葉はそれ以上続くことはなかった。
「覚えていますかしら? ファルシオンで私と一緒にいた女の子を」
「あの温室でのことですか? 沢山女性がいたので、あまりはっきりとは」
「パタという娘……私の友人ですわ。あの娘は今も、処刑台の上にいる」
言葉にして、アスカは奥歯が砕けんほどに悔しさを再燃させた。
「若い貴族の娘達は、今も鶏のように飼われている。どうであれ、そこから開放された私はまだ幸運です」
「マイナス10からマイナス5になっただけで、別に奪われたものが戻ったわけではないですよ。ちゃんと報復しないと」
何言ってんだコイツ、とアスカはイリスをじまじまと見つめた。
まさか「ちゃんと報復しないと」などという過激なセリフが返ってくるとは思わなかったのだ。
「報復って、感情的に行うものではありませんの?」
「『やられてばかりじゃないぞチクショー』と強気な態度を見せる為に行うものです。魔獣だって、草食動物と狙う場合と肉食動物を狙う場合では警戒度が違うでしょう。この世知辛いご時世、肉食動物であるに越したことはありません」
「……耳が痛いですわね。残飯を漁り過ぎて、心まで家畜になってしまったかしら?」
自嘲するアスカ。身を穢され尊厳を蹂躙されたことのないイリスには、彼女にかけるべき言葉は思い浮かばない。
セラミーがアスカの前に身を乗り出し、努めて笑顔で励ました。
「そんなのじゃダメよぉ、もっと前向きにならないとっ。笑わないといいことは起きないわぁ」
「ちょっと黙ってて下さいセラミー」
「貴女のことは嫌いではありませんの、でも少し無神経ですわ」
「……ごめんなさぁい」
彼女なりに励まそうとしたのは解るものの、色々と配慮の足りない部分がある女性であった。
少し言い過ぎたかとイリスも反省する。しかし、綺麗な理想論は絶望している人間には刃物にしかならない。
場を仕切り直そうとコホンと咳払いをして、話題を変える。
「そういえば。どうして医学をあんなに懸命に学んでいたのですか? この奇襲は完全に捨て身、成功したところで貴女の命運は尽きるはずだったでしょう」
「現実逃避といったはずですわ。先のことを夢想するのは楽しかったから」
虚しい笑みを浮かべ、アスカは窓の空を見通す。
「手慰みですわ」
アスカとて理解していた。イリスを殺害したところで、約束は果たされないことくらい。
土の国勢力範囲に捕虜を運ぶより、殺して埋めた方がずっと手軽だ。
「もし貴女を殺して生き延びたとしても、もう私に行き場はありませんわ。こんな仕事の一つも出来ない娘、また男に股を広いて娼婦として生きるくらいしか選択肢はありません」
「またネガティブになってますね。それなら提案に乗らなければいいでしょうに」
「そう、ですわね。―――もう自分が嫌になりますわ。私は、私達は、あいつらの糧になる為に生かされている―――何より嫌なのは、口ばかり威勢のいい饒舌なだけの自分」
「服従するのでは搾取されるだけです。みんなで仲良く自害すれば、それは最大の攻撃になり得ます」
バールの認識通りの、リアリストなイリスの一面であった。
「酷い人ですわ」
アスカは嗤う。自分に対して、そしてイリスに対して。
「貴女は本当の意味での強者なのですわね。きっと、貴女が私と同じ条件であの町に迷い込んだりしても、最後は自力で抜け出しますわ」
「過大評価です。空を飛んでいない私はただの豚ですよ」
「貴女みたいな、弱者がなぜ弱者に甘んじているか解ろうともしない人が一番嫌いですわ」
「……すいません」
それが以前パタに言われた言葉と大差ないことに気付き、アスカは脱力した。
「次会った時、仲直り出来るかしら」
手近にあったシーツを被り、アスカは視線から隠れる。
あまりに脆弱な自己防衛。それでも、布一枚の壁を得たことでアスカは少しだけ吐露する気になれた。
「―――死ねませんわ。死んだら、それこそ私が生きた意味がなくなってしまいそうで」
「ああ、貴女ってそういう人でしたね」
納得したように、イリスは頷いた。
「貴女に私の何が解りますの」
「初対面でいきなり『がっかりですわ』とか言っちゃう人だってことくらいは、解ってますよ」
苦労を知らなかった頃のことを持ち出され、アスカも思わず苦笑する。
「私があの日にあった少女はそういう子でした。誇りあってこその命でしょう」
「奴らの玩具にされたとしても?」
「万人がそうではない。でも、現に貴女の誇りは今の今まで折れはしなかった」
アスカは泣いた。
「私、守れましたの?」
「はい、立派です。立派でしたよ、アスカ」
イリスはアスカを抱擁し、背中を軽く撫でる。
アスカの背中は、イリスが思う以上に小さかった。
「悔しいですよね。屈辱ですよね。恥辱で気が狂いそうになりますよね。ねえ、アスカ」
アスカの体温から、感情が伝わるようで。
イリスの心の剣は、錆を落とされ研がれるような感覚を覚える。
抜かぬ剣こそ誇り。されど、万人に対して抜かぬつもりなどない。
「やはり、入念に報復しなければな」
突然の男口調に、アスカは「ひゃっ」と小さく跳ねた。




