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軽銀のドラグーン  作者: 蛍蛍
2章
52/85

アスカ・ロウ・トラクトスリア1

先のあとがきにも書きましたが、ここから3話はアスカ編です。

かなりハードな内容となっているので、苦手は方は飛ばして下さい。






 遠すぎる空作戦が開始されるよりおよそ二ヶ月前。清奏派(セインレイト)がファルシオンを制圧した後、領内の人間は用途に応じて分別された。

 使える者。使えない者。有用な者。無用な者。

 もっとも、それら全てに『侵略者にとって』という但し書きが付く。

 清奏派(セインレイト)にとって、住人は戦利品でしかなかった。

 老人と幼子は家畜の餌とされた。若い男性はファルシオンの鉱山で労働力とされた。女性は人間の相手が主な仕事であった。

 兵士は作業的に人間を捌き、運び、処分した。

 人はここまで人を物として扱えるのかと、誰もが彼らの行為に戦慄した。

 人類が忘れていた、人間の残酷さ。それを思い知るのに、そう時間は必要なかった。







 清奏派(セインレイト)はある種の宗教団体である。しかし、国家としての性格を持つまでに膨れ上がった組織は当然のように腐敗を内包していた。

 容姿の優れた娘達は集められ、時に権力者に、時に大勢に穢される。

 不衛生な部屋に監禁され、数名が時々どこかへ連れてかれた。

 数刻後に戻ってきた女性達は、例外なく嗚咽を漏らし憔悴していた。

 アスカもまた、連れていかれた。

 アスカは泣かなかった。







 抵抗心を早々に失った他の女性と違い、アスカは何度も抗った。抗い続けた。

 隙あらば脱走し、その度に連れ戻された。

 誘うような言動で敵兵を油断させ、負傷させることもあった。

 当然兵士達はアスカを警戒し、特に厳しく扱った。


「くっそ、っくらえですわ……!」


「もうやめましょうアスカ、きっと助けが来るわ」


 アスカと同年代の少女が、無茶を続けるアスタを窘める。

 彼女はアスカの幼馴染みのパタである。人当たりも良く人望も厚い彼女は、常に優雅さを忘れないアスカと並び貴族の子女達の憧れであった。

 その美貌はアスカと並び、社交界に広く知られるほど。貴族の男児達にとって2人は高嶺の花なのだ。

 勝ち気で扱い難いアスカと違い、パタは絵に描いたような優等生であった。敵を作りやすいアスカとは対照的に、誰からも慕われるタイプの少女なのである。

 そんなパタがこの事態に際して、外部からの救助を当てにするのは自然な流れ。むしろ自力でなんとかしようとしているアスカが奇特であった。

しかしアスカは、パタの言葉に聞く耳を持たない。


「やめませんわ! あんな粗雑者ごときに屈服? それだけは御免ですわ!」


 何度も暴行され、時に骨を折られ、命に関わるような重体に陥っても尚抵抗を諦めないアスカ。

 その様は兵士達をある意味で興じさせ、全ての怪我は治癒術者によって丁寧に治療されていた。

 小娘vs軍隊組織。絶対に敵うはずのない相手に、何故こうも反骨精神をむき出しにし続けるのか。

 アスカの行動は理解し難かったが、兵達の嗜虐心を刺激するのは確かであった。


「へへっ、スヴェル様には見せられねぇよな!」


「あの方は異教徒相手にもお優しすぎるぜ!」


 今日もまた、女性達は慰み物にされていた。

 アスカは時々、いつもより遠い部屋に連行される。部屋の主の自尊心を映したような高い場所にある部屋で、アスカは様々な趣向を凝らして玩具にされるのだ。


「どうだ? 私の女になるのならば、もっとマシな生活させてやろう!」


「くそくらえですわ!」


「くくく、いいぞっ、もっと足掻け!」


 アスカは目の前で犬のように盛る男の名前を、これまでの経験から知っていた。

 スクトゥム将軍。アスカの独断と偏見に富んだ評価によれば、個性的なお顔立ちと貧相な品格の持ち主である。


「貴方みたいなのが、騎士団を率いているなんて、質が知れますわっ、あっ」


「黙れ小娘! 我ら清奏海上軍(ゼンフ・セイレイト)は最強の軍隊である!」


 アスカを殴り、倒れた彼女を更に執拗に蹴るスクトゥム。


「そのっ、小娘に図星を指摘され、あうっ、されて、激高しているのが、いい証拠ですわっ!」


「―――ふんっ!」


 スクトゥムは満足げに、だが同時に悔しげに鼻を鳴らし、部下を呼んだ。


「こいつを連れてけ!」


「はっ!」


 監禁部屋に戻されるアスカ。丁度、同じタイミングでパタも部屋に放り込まれる。

 泣きじゃくるパタを慰める余裕は、流石のアスカにもない。


「アスカ、私もういやぁ」


「負けてはいけませんわ。ここで折れたら、それこそ私達の命に価値はなくなります」


「……うん、そうだ、ね」


 そういう彼女だが、結局表情は晴れてなどいなかった。







「お姉さん、毎日怪我しすぎなの」


「今日は犬に噛まれましたわ。とんだ駄犬ですのよ」


「噂は聞いているの。むしろお姉さんが噛み付いてるの」


 アスカを治療していたのは、まだ幼い少女であった。

 毎日決まった時間に監禁部屋へと訪れる彼女もまた、清奏派(セインレイト)に不自由を強いられる一人である。


「毎度世話をかけますわね」


「ううん……私はまだ、運がいいの。他の人はもっと酷い扱いを受けてるの」


 少女は治癒魔法の使い手であった。訓練途中で捕まった準騎士(モンス)であったものの、清奏派(セインレイト)に希少な治癒術者を遊ばせておく理由はない。

 彼女はその技能故に、待遇が他の捕虜より良かったのだ。


「世碑の剣と天座の加護よ。悔恨の村雨は淡く、懺悔の驟雨は青の龍脈を辿る。されど因果は涅槃を奔り厭世を駆らん。大精霊よ、せめて祝福あれ。ホークリア」


 第5級の治癒魔法を唱えると、鞭の裂傷がみるみる塞がっていく。

 自然治癒や手術の縫合を遥かに超える治癒効果。希少かつ個人差の大きな魔法であっても尚重宝される理由がそこにあった。


「お見事ですわね」


「これだけが能なの。お祈りしすぎて成績は良くないの」


「治癒魔法には精霊様への信仰心が必要、でしたっけ」


 治癒魔法は魔法の中でも特殊であり、その習得条件は今に至るまで明確にされていない。

 経験則から信仰心の有無が発動に大きく関わっているとされているが、はっきりとした法則は発見されておらず需要の割に供給が足りていないのが現状であった。

 多くの魔法法則を発見しているイリスですら、治癒魔法については理解が及ばず扱えない。魔法特化の爛舞騎士(ラウンドナイト)ソフィアージュですら扱いかねる分野なのである。


「でも、私は毎日精霊様にお祈りしていますわよ?」


「ならお姉さんにも治癒魔法の適正があるかもしれないの。でもないかもしれないの」


「どっちですの」


「やってみないと判らないの」


 少女は懐から小さな本を取り出す。


「試してみるの?」


「そんなことをやっている場合では……」


 こんな監禁生活の最中に、魔法のお勉強をしている時間はない。

 そう答えようとしたが、むしろ時間は幾らでも有り余っていることを思い出した。


「……貸して頂けます? 治癒魔法が使えれば、貴女の負担も減らせますわ」


「遠慮なく呼んでほしいの。自分の治療は大変なの」


 本を受け取り、ページを数枚捲る。

 記されているのは難解な魔法術式。第十級汎用魔法しか扱えないアスカには困難な代物だが、それを紐解く時間は間違いなく豊富にあった。


「どうも、ミス……そういえば名前を聞いていませんでしたわ」


 それなりに顔を合わせているにも関わらず、名前を知らなかったことを今更ながら思い出すアスカ。

 少女はにへらと笑い、名乗った。


「アロンなの。アロン・フォージャー。いつか立派な正規騎士になる女なの」







 本を暗記するほど熟読したアスカだが、それでまともに治癒魔法が使えるようになるはずはない。

 しかし無意味ではなかった。気休め程度ながらも、かすり傷を消すような初級魔法を扱えたのだ。


「これってつまり、適正があるってことなのかしら?」


「アスカ……」


 覚えたての魔法を使い、すっかり増えてしまったお肌の傷をせっせと消していたアスカ。

 パタはそんな彼女を、困惑の表情で見る。


「どうしてそんなことをしているの?」


「女性が肌の手入れをすることが、そんなに不思議ですの?」


「あの男達に取り入って……女になる為?」


 女になる。即ち、兵士の情婦となる。

 気に入られ、媚びることで監禁部屋から抜け出してまともな生活を得た女性もいる。パタはアスカがそれを狙っているのではないかと推測した。

 アスカを気に入っているスクトゥムに取り入れば、それこそ以前までのような貴族じみた生活を取り戻すことも不可能ではない。それはこの狭い部屋の世界において、最高のステータスとなっていた。


「真っ平ごめんですわ。犬に媚びたら、もう犬以下の畜生ですわよ」


「そんな、そんな言い方は良くないわ。出ていった人達だって必死だったんだから」


 アスカは敗北を知らない女性であった。

 折れることを知らぬ、妥協することを知らない人間であった。

 敗北を認めず、勝てるまで挑み続ける。そうしていれば何時か勝てる。どんな困難にあっても、どんな権力であっても。


「負ける道理なんてありませんわ。あんな無法者に、この(わたくし)が屈する理由はないですの」


「アスカが情婦になることはない、ってことよね?」


 その問いはあまりにばかばかしく、アスカは首肯だけで返答する。

 パタは安堵した。







「お姉さん凄いの。治癒魔法の才能があるの」


「ふふん、当然ですわ」


 アスカはパタとあまり話さなくなった。

 パタに余裕がないことは見れば判ったが、アスカとて友人のメンタルケアまで気は回らない。

 そんな日々の中、唯一まともな会話を行う相手といえば治癒術者のアロンであった。


「お姉ちゃんの次くらいに凄いの」


「……誰ですの?」


「お姉ちゃんはお姉ちゃんなの。かっこいい騎士なの」


 アスカは、それがアロンの血縁という意味での姉であると気付いた。


「貴女のお姉さんは騎士なんですの?」


「正規騎士、それも竜騎士(ドラグーン)なの。でも、最近は連絡が取れないの。きっと忙しいの」


 それはあり得る、とアスカは考える。

 この一年以内で、軍事事情は大きく変化している。フォートレスドラゴンも含め、多くの体制の変化があったのだ。

 地球のように情報がネットワーク化され一瞬で伝わるわけではない。地球の歴史では人が空を飛べるようになった頃には既に海底ケーブルが実用化されていたが、この世界では早馬ならぬ早竜が現役であった。

 連絡の不備や手紙の喪失など、日常茶飯事なのだ。


「お姉ちゃんは超すごいの。最強なの」


「最強?」


「なの!」


 当然、それは誤りだ。

 最強の騎士とは、即ち爛舞騎士(ラウンドナイト)の一人であるということ。だがその中にフォージャーという姓の持ち主がいないことくらいは確認せずとも判る。

 もっとも、それを指摘するほどアスカも空気が読めないわけではない。


「お姉ちゃんが、きっと怖い人達をやっつけてくれるの!」


「それは頼もしい限りですわね」


 笑い合い、アスカはそれが久々の談笑であったことを思い出す。

 粗末な監禁部屋であることには変わりない。だが、それでも確かにそこには明るさがあった。

 他の女性達がアロンをじいっと見つめる。まるで珍獣を観察するかのように。


「ねえ、貴女……」


 パタがアロンに話しかけようとした時、唐突に兵士が入室してきた。


「おい! お前、今日はお前とお前だ! 来い!」


「いやっ、もういやっ……」


「…………ふんっ」


 いつものように兵士が現れ、アスカは繋がれた鎖を引かれる。

 しかし彼女の瞳には、明確な意思が蘇っていた。


「まだですわ、この程度で(わたくし)は音を上げたりなどしませんわ……!」


 それから数時間後。意識が朦朧とするまで弄ばれたアスカが監禁部屋へと戻される。

 そこにいたのは、リンチを受けたアロンの姿だった。







「どういうことですの!? どうして貴女達が、アロンを痛め付けたんですの!?」


 犯人は同胞であるはずの女性達であった。

 糾弾するアスカの言葉にも、女性達は悪びれる様子はない。

 アスカは覚えたばかりの治癒魔法を必死に発動させ、アロンの怪我を治療する。


「答えなさい! 貴女達はもう被害者ではなく、加害者なのですわよ!」


「……私達は間違ってないわ」


 誰かが呟く。


「だってずるいじゃない。なんでソイツだけ、何もされないのよ」


「言うでしょう。お菓子は公平に分けましょう、人は生まれながらに平等です、って。不平等は良くないことなのよ」


「だからその子にも痛みを受けてもらったの」


 アスカは彼女達の言い分に困惑しながらも、アロンの怪我が他にないかを探す。

 股の間から、血が滴っていた。


「貴女達―――!」


「別にいいじゃない! 男にやられたわけじゃないのよ! むしろまだ軽い方だわ!」


「軽い重いの問題ではありませんわ! 恥ずかしくないんですの!? こんな小さな子に!」


「散々男達に股を開いて、今更何を恥ずかしがれっていうのよ!?」


 女性達の視線に、アスカはふと気付く。

 それは怨嗟であった。積もり積もった不平不満であった。確固たる意思にまで踏み固められた、八つ当たりであった。


「おかしい、おかしいですわ貴女達……! 変ですわよっ」


「変なのはアスカの方よ。変わった子だと思ってたけど、貴女の頑固さはもう精神異常」


 そう指摘するのはパタであった。


「パタ! 貴女がいながら、どうしてこんな事態になったんですの!」


 アスカはパタを叱責する。

 パタは昔から品行方正、学業優秀な少女であった。人としての完璧さにおいてアスカはパタに信頼を置いていた。

 だからこそ、完璧であるはずの彼女のこの過失がアスカには信じられなかった。


「私に何を期待してるのよ。いっつもいっつも、アスカってホントばっかよねぇ」


「パ、タ?」


 様子が違うパタに、アスカは困惑する。


「どうしましたの? 貴女は、違う」


「何が違うのよ。私はパタよ。貴女と小さい頃から一緒だった、完璧なお嬢様のパタさんよ」


「何かの作戦ですの? それとも、ちょっと疲れているんですの?」


「疲れるって、あはは。そうね、疲れちゃったわ」


 手を顔に当て嗤うパタ。

 指に隠れ、その表情は窺えない。


「今は頑張りどころですわ。耐えていれば、きっとチャンスはありますわ! 貴女だって、そう言っていたではありませんの!」


 アスカにはパタが理解出来なかった。

 結局のところ、アスカがパタという人間を理解したことなど一度もなかった。


「もうたくさん! いい加減にして! もう私を巻き込まないで!」


 怒鳴るパタに、アスカは怯え一歩後ずさる。

 背後は壁であった。


「貴女みたいな努力すれば何でも出来る人間に、努力も出来ない弱い人間の気持ちなんて解らない!」


「な、なんですの? 意味が解りませんわっ」


 解らない、判らない、分らない、理解らない。

 そればかりを繰り返すアスカに、もう誰も近付こうとはしなかった。







「アロン、ここにいたらおかしくなりますわ」


 理解し難い現状について、結局アスカは環境のせいにすることにした。

 それは実のところ間違いではない。女性達が狂い始めた根本的な原因は、間違いなく清奏派(セインレイト)なのだから。

 誰もが上辺の部分を持っている。極限の状況でそれが剥がれたところで、誰が責められようか。


「きっとこの辛気臭い場所がいけないんですわ。もしかしたら食事に危ない薬が入っているのかも」


 アスカはアロンを担ぎ、荒れたファルシオンの街道を歩く。

 彼女の言葉に返事はない。アロンはただ荒い呼吸で、顔色は死人のように真っ青なまま意識を手放している。

 先の暴行が原因であることは明確だが、何がどう問題を引き起こしているのかアスカにはまったく判らない。


「何の、何の役にも立ちませんわっ、こんな魔法!」


 かすり傷を治せても、専門的な治療など出来るはずがない。それがアスカの実力であった。

 アスカは歩く。華奢な女性が、より幼いとはいえ意識のない少女を運んでいるのだ。少しずつ前進するのがやっと、というくらいの牛歩の速度であった。

 監視は何故かいなかった。無計画に始めた脱走劇は、既に数時間経過している。

 数時間歩き続けて、未だに監禁部屋がある建物から100メートルと少ししか離れられていなかった。

 平時のアスカなら気付いたであろう。このような衝動的な脱走が、うまくいくはずがないと。

 しかし彼女の思考能力は、既に大きく削がれ平静とは言い難い状態であった。


「逃げなきゃ、この町から抜け出さなきゃ」


 中規模の町、それも山岳部にあり起伏の激しい町を横断するなど今のアスカには不可能。ましてや今の彼女は体力も落ちており、満足に動けない人間を連れている。

 衝動に駆られるままに鉛のような足をそれでも引きずっていると、ふと耳元で声がした。


「―――お姉さん、どこに行く、の?」


 ぜえぜえと、不自然な呼吸を繰り返すアロン。


「町から逃げますわ」


 数瞬の後、アロンは笑った。


「私のことは、置いていく、の。お姉さんだけなら、逃げられるかもしれないの」


「何を馬鹿なことを!」


「たぶん、肺に出血しているの。もうすぐ死ぬの」


「誰が?」


「私なの」


 アスカの耳元でアロンは、げふ、と息を吐く。

 熱くも冷たくもない血が、アスカの肩を赤く染めた。

 喀血したアロンは物のようにずり落ち、地面に横たわった。


「……何をしていますの、アロン。しっかりなさい」


 返答は沈黙。

 アスカは力なくアロンを担ぎ、重さに耐えかねて崩れ落ちた。


(頑張れ)


 誰かの声が聞こえた。

 言われるまでもない。アスカは限界を超えた四肢に膂力を込め、獣のように四つん這いで地面を進む。

 速度でいえば、秒速で数センチ。最早何の意味もない前進。


(負けるな)


(進め)


 どこからか聞こえる激励の声。どこか上滑りする力強い声。

 ふと力が抜け、アスカはまたしても肩から地面に落ちてしまった。


「こんな、ところで」


 心は死んでいなかった。

 体は既に許容限界を超過していた。

 心が負けぬ限り敗北はない。そんなものがただの精神論だと、アスカはようやく悟った。


「いやですわ。こんな終わり、いやですわ」


 頭の中だけの勝利など、アスカは御免であった。

 そんな妄想に、価値を見いだせる人間ではなかった。


(頑張れ)


(力を振り絞れ)


(動け)


 応援に人を動かす力はない。アスカに選べる選択肢など2つだけ。

 最期まで自分は屈しなかったと、自己陶酔に浸って死ぬか。

 あるいは、最期の瞬間まで闘志を燃やしたまま果てるか。

 満足した死か不完全燃焼の果ての死か、選択出来るのはその程度だ。

 必死に指先を伸ばす。

 同時に、アロンの腕をもう片方の手で掴む。

 アスカはこの期に及んで、生き方を変える気はなかった。


「―――なんだ、もう終わりかよ!」


 男の野次が、どこからか聞こえた。


「まだ曲がり角にも行ってねえぞ!」


「くそっ、やる気だせや!」


「今すぐギブアップしろ! 俺の大勝ちだ!」


「あと30メートルでいいから! 頑張れ!」


「脱走する気ならもっと気張れやブス!」


 アスカが愕然と周囲を見渡す。

 そこには、多くの清奏派(セインレイト)兵士がアスカ達の脱走成果にて一喜一憂する姿があった。


「そうだ、後ろから火で炙ろうぜ!」


「ははは、そいつはいい! 誰か魔法撃て!」


 すぐにアスカの背後に火球が咲く。


「ひっ……」


 熱量に慄き、結果的に僅かに進むアスカ。


「おおっ、前進したぞ!」


「よっしゃ、この調子で200メートル歩かせろ!」


「本人には当てるなよ! 殺して勝った奴はただじゃ置かねぇぞ!」


 何度も魔法は放たれ、その度にアスカは炎に煽られ逃げ惑う。

 やがてボロ布の衣服にも火が回った。


「いやっ、熱いっ、いやあっ」


 もう消火する為に炎を叩く気力もない。

 炎はすぐに広がり、だが水がアスカに叩きつけられ鎮火した。

 誰かが水魔法で消火したのだ。


「当てるなっつったろ!」


「いいじゃねぇか、生きてるんだし」


 火傷を負い、服としての機能すら失った布が放水の勢いでずり落ちる。

 真っ裸で大勢の兵士に見られながら、それでもアスカは脱出を目指す。


「あれ元貴族だろ? 落ちぶれているなぁ」


「顔は美人なんだろうがな、もう色々ぼろぼろでわけわかんねーし」


「たまには洗えよ、抱く時臭くてしょうがねぇ」


「川に落として水魔法当てりゃあそのうちマシになるんじゃないか?」


「おま、そりゃ洗濯物だろ!」


 げらげらと笑う男達。

 涙が零れそうになるも、それでも、意地でも堪える。

 もう彼女のプライドを守る防波堤は、そんな自己満足の一つだけしかなかった。


「貴方達はっ」


 体力の浪費でしかない。

 理性はそうと知りながら、アスカは言わずにはいられなかった。


「ん? おい、あの小娘、何か言おうとしているぞ!」


「みんな静かにしろ! あいつ何かお言葉を下さるそうだ!」


「ははぁー、ありがてぇありがてぇ」


 しん、と静まり返る町。

 清聴であった。これ以上とない、相手を愚弄した清聴であった。

 アスカは怯まない。この程度で怯む根性を持ち合わせてはいない。

 ただ端的に、自分の正しさを確信し兵士達を嘲笑する。


「貴方達は、本当にお下品ですわねっ!!」


 爆笑であった。

 街中に轟かんとするほどの、大爆笑であった。

 無力な娘の、あまりに虚しいの虚勢。象を前にしての蟻の啖呵より虚しく、正論は力の前に正論足り得ない。

 それを重々理解する軍人達にとって、それは傑作な冗談であった。

 ―――ただ一人、蒼い髪の少女以外にとっては。


「何を、しているの」


 愕然とした本来清涼であるはずの少女の声が、嫌にはっきりと兵士達の耳朶を震わせる。

 一様に声の方を見やり―――例外なく、兵士等は硬直した。


「何をしているの、みんな」


 そこにいたのは、いるはずのない人物。いてはいけない人物。


「どうして、ここに?」


「嘘だ、どうして『貴女』が」


 ギャラリーは呆然と少女を見つめ、我に返り片膝を着く。


「信じられない、本当に、何をしているの」


 蒼髪の少女は呟きながら男達に一顧だにせず、呆然とアスカに歩み寄り自身の上着を被せる。


「誰、ですの」


 美しい少女だ、とアスカは思った。

 この地獄のような町において、浮世離れしたほど見事なドレスを着込む娘。疑うことすら許しがたいほどの、純粋な眼差しを持つ少女。

 少女は薄汚れたアスカを躊躇いなく抱きしめ、自身の名を告げる。


「スヴェル・クレンゲル―――この人達の、責任者です」


 とりあえず、アスカはスヴェルを思い切りひっぱたいた。




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