ヘスコ前哨屯地3
翌朝、不動の巨城の医務室にイリスはいた。
「食べ物、どうするのかしらぁ」
セラミーが呟いた。
「野生動物は黒竜に食い尽くされています。この時期では芋だってそうそう育たない。植物は多いですが、食べられるのは木の皮程度でしょうか。あとは魚ですね」
「お魚? 冬でも釣れるのぉ?」
「別に冬眠はしませんが、釣れないとは聞きます。……というか水の国出身という話では?」
「二代目といったでしょー。それに両親は漁業従事者ではなかったものぉ」
「とかく、彼等は撤退するわけにはいかない。不退転の覚悟というやつでしょう」
ヘスコ島からの撤退は人類の後退を意味する。世間が落ち着いてから遅れを取り戻すというわけにはいかない。
これまでもそうであった。敵の絶対数を減らさなければ、人類世界に黒竜が到達してしまう。故に、今まで遠征作戦が中断されたことはほとんどない。
もっとも、今までは本国からの補給があった。想定外の損害があれば増援を呼び、想定外の消費があれば追加物資を要請すれば良かった。
しかし今回それは叶わない。全て自前で対処しなければならない。
「飯も満足に食べれない軍隊なんて、魚と芋なしのフィッシュアンドチップスのようなものでしょう」
「皿しか残ってないわよぉ」
半ば医務室の住人と化したイリス。アスカは衰弱していたものの大きな外傷はなく、今はイリスの隣のベッドで眠っている。
ソフィーは居座ることを希望したものの、物静かとはいえ健康な者を置いておくわけにはいかないとセラミーに追い出されている。よって、今会話しているのはイリスとセラミーであった。
「アスカを診察して、何か判ったことってあるのでしょうか?」
聞き取りは体力が戻ってから行われる段取りとなっているので、先んじてセラミーに訊ねる。
セラミーは躊躇いつつも、正直に答える。医者の守秘義務はあれど、イリスの立場は一応セラミーより上なので黙秘は出来なかった。
「……暴行の形跡が確認されたわぁ」
「それは―――いえ、なんでもありません」
意味のない悪趣味な確認でしかないと考え、イリスはそれ以上聞かないことにする。
戦争である。そういうこともあると、イリスは理解していた。
「それはまあ、置いておきましょう」
「ちょーっと冷たくないかしらぁ?」
「生きているのです、どうとでもなりますよ」
「ならどうとでもならない、生きていないお友達のことはどうするのぉ?」
イリスはセラミーをじろじろ見た。
「その質問に何の意味があるのです」
「興味本位よぉ」
「悪趣味ですよ」
「……そうね、ごめんなさいー」
しかしイリスに躊躇う理由はない。正しく言えば、躊躇う大義名分がない。
故にイリスはフランシスカに対する方針を、正直に打ち明けた。
「彼女は敵です、ならば戦うのが戦場の習いです」
父を討ったのだ。今更級友を討つのに躊躇う理由があろうか。
そう自身を納得させると、ふとフランシスカの言葉が脳裏に蘇る。
確かに聞こえなかった。だが、唇の動きは確かに見えていた。
『しばらく見ないうちに、ひっどい顔するようになったわね』
「―――余計なお世話です」
イリスは再度、空を睨み上げた。
無論そこには天井しかない。だが、イリスには常に空が見えている。
今日は生憎、酷い曇天であった。
「なんで、生きていたのですか」
自然、イリスの口からは残酷な言葉が漏れた。
過去の自身の過失。怠慢故の犠牲。それと直面し、彼女の心中に生まれたのは二つの感情。
また会えて、良かった
素直に死んでいて、ほしかった。
二つの思いはどちらも嘘偽りなく、しかし彼女達の関係はどちらかの破滅以外にはありえない。
「ところでぇ、そろそろ出航よぉ? 貴女、船を降りた方がいいんじゃないかしらぁ?」
「え?」
「貴女は本土に戻るのでしょー? この船、数時間後には南に出発しちゃうんだからぁ」
セラミーに指摘され、彼女は思い出す。
「そうですね、手紙を第三騎士団に託してきます」
「手紙ー?」
「バールには話しましたが、私も作戦に同行するつもりなので」
よっと、と声を漏らしイリスはベッドから立ち上がる。
出航にはこれ以上となく景気のいい青色に、イリスは少し出歩くことに決めた。
自分が今、空を無意識であっても否定的に捉えたという異常事態にも気付かず。
元より積み込む荷物もなく、予定時刻に従い抜錨を待つだけの不動の鉄城。
イリスは時刻に余裕があることを確認し、野戦病院に足を運ぶ。
島の中心部、開けた場所に構築されたお粗末な病院。
そこで、彼は死を待っていた。
「……ショーテル」
「―――ああ、君か」
掠れた声。
しかし意識ははっきりとしていた。
治癒魔法にて治された皮膚。彼はただ、ベッドに横たわっているようにしか見えない。
だがしかし、炎のダメージは臓器にまで及んでいたのだ。
「遺書を書かされたよ。私はもう長くないそうだ」
「そうですか」
イリスは無感情に相槌をうつ。
「君はこれからどうするのだ?」
「本国に戻ります」
嘘である。
「そうではなく、その後だ」
「本来の職務に戻りますよ。あまり戦闘は得意ではないので、あちこちに雑用して回るだけですが」
イリス・ブライトウィルという人間の身分ははっきりと定められていない。対外的には成績が振るわず所属をふらふらとたらい回しにされている厄介者、という設定だ。
ルバート・ブライトウィルの一人娘は父親の才能を引き継がなかった。一般的にはそう称されており、イリス自身それを否定していない。そもそもが、この噂を広めたのが彼女なのだから。
「ふむ、まあそれもいいかもしれない。ルバート団長も娘が危ない場所に配属されるのは喜ばないだろう」
ショーテルはイリスにニカッと笑いかける。
イリスは終始表情がなかった。
「君にも世話になったな」
「私は何もしていません」
「随分と、遠くなってしまった気がするよ」
「そんなことは、ありません」
沈黙。
数分の後、イリスは一礼し踵を返す。
「聞けよ」
背後の声に、イリスは退室しようと動かしていた足を止めた。
「なんでだ、なんで俺が死ななきゃいけないんだ」
「…………。」
「お前達があそこにいたから、なんであんな場所でうろちょろしてたんだよ!」
「…………。」
「お前らが悪いんだ! 畜生、お前がいなけりゃ俺は降りたりなんかしなかった、なんで俺がこんな痛い思いしなくちゃいけないんだよぉ!」
「…………。」
「やりたいことがあんのに、本だって読みかけなのに、なんで俺が死ぬんだ……」
「睡夢の最中、到りし術中。汲むは嚥下の絶望の音。識域の深淵に潜み、枯渇せし杯を飲み干せ。スリール」
小声で詠唱し、イリスは作業的にショーテルを眠らせた。
電源が切れたかのように意識を途絶えさせるショーテル。
問答無用の魔法行使。担当の治癒術師は呆れた様子で声をかけた。
「残り時間の少ない人を眠らせるなんて、酷い人だね」
「私は訪ねてきてなどいない。そういうことにしておいて下さい」
ショーテルの生死など歯牙にもかけない、そんな態度でイリスは退室する。
彼女は淡々としていた。しかしそれでも、無言の苛立ちを周囲に放っていた。
すれ違う騎士が、ただ黙するイリスを避けて通る。小さな少女らしからぬ剣呑とした気配が、彼らに関わらないという選択を選ばせていた。
不動の鉄城への道中。人気のない木々の中で、彼女は手を額に当て苛立ったように唸った。
「男なら精々意地張って、綺麗に死に際を晒せ。それが矜持というものだろう」
数歩よろめきつつ歩き、木に背を預けずるずると腰を地面に落とす
「父上。貴方は、どんな爛舞騎士でしたでしょうか」
イリスにとってのルバートは、屈強で、揺るがず、そして強い男であった。
父としては不完全で、しかしそのあり方は間違いなく常に全力全身全霊。だからこそ、イリスは今生の父を尊敬している。
しかし、よくよく考えるとイリスは知らなかった。
爛舞騎士が如何なる存在か。それを父から学ぶ機会に、イリスは一度も恵まれることはなかったのだ。
「ソフィーもついてくる気まんまんのようですし。爛舞騎士って何なのでしょう」
イリスとしては、ソフィアージュの同行は反対であった。
彼女は軍人ではない。そのように扱われようと、死にかけの人間を見て怯えてしまような年相応の少女であった。
バールは合計3人の爛舞騎士が参戦することとなり単純に喜んでいたものの、どうしても拒否感があるのだ。
自衛隊時代の考えが、兵士でもない子供が戦場にでるという現実を拒んでいた。
この世界にはこの世界の常識がある。基準がある。
むしろ、人間の命の価値が異常に重い近代の方が歴史的には異端なのだ。
しかしそれを理解していようと、長く刷り込まれた価値観は簡単には覆ることはない。
「は、どの口が偉そうに」
とはいえ、イリスにその価値観を糾弾する権利はない。何せ、彼女自身がかつての価値観を遵守してなどいないのだから。
ショーテルはイリスにとって不要な人間であった。
ソフィーは価値観から守るべき人間であった。
そして『彼女』は、イリスにとって間違った判断をさせるほどに大切な存在であった。
イリスが遠すぎる空作戦に参加することは、人類にとって全く意義のない自分本位な我が儘でしかないのだ。
「人の命に上下なんてない―――ですが、優先順位はあるのかもしれません」
それは決して大儀としてのものではなく。
組織として優先されるべき命云々としての話ではなく。
「友達だから、私が欲する人間だから。―――ああ、なんて醜い」
人類世界に被害が及ぼうとも。
どこかの町や村が壊滅しようとも。
それでも、イリスはアーレイの救助を優先する。
数時間後。不動の鉄城は点検準備を全て完了し、ヘスコ前哨屯地を出港する。
ここから先は、人間が失った、人を拒絶する世界である。




