港町イリルム1
涼しげな潮風が頬を撫で、彼女はぼんやりと目を開く。
蒼穹と混じり合った、上下逆さまの水平線。青に染まった視界にイリスは思わずにやける。
「空に包まれている―――なるほど。ここは天国ですね」
「死後の天国より今生の地獄の方が素敵ですよ、イリス」
独り言に返す返事があった。
「貴女がいますから」
身体を起こすと、そこには見慣れた青い髪の少女。イリスの友人アーレイであった。
改めて周囲を確認。二人がいたのは、アーレイの相竜アキレウスの背中の上。
雲一つない水色に染め抜かれた空と、絵の具を垂らしたかのような海に包まれての目覚めは悪いものではなかった。
「そりゃどーも」
「つれない返事ですっ」
脳細胞が覚醒しきっていないイリスは、アーレイをジドーっと睨む。
「ふふっ。おはようございます。もう到着ですし、いいタイミングでしたね」
イリスとアーレイがアキレウスに相乗りし、故郷クルツクルフより東へと飛ぶ。空の上で交代交代に休息をとっているとはいえ、長距離の飛行は肉体的なものとは別種の疲労が溜まるものであった。
「ですが、本当に急でしたね。いえ、私としてはイリスと一緒に居られるのは嬉しいですけれど」
「元々護衛するはずだった騎士に身内の不幸があったそうです。どうせ私も暇でしたし」
イリスはじっと、アーレイの横顔を見つめる。
イリス達は、スヴェルについてアーレイに伝えることはしなかった。幼少より共にいるのだ、今更聞き取りせねばならないことなどない。
アーレイの出生については、本人以上に国が多くの資料を揃えているのである。この国の先王が後継人であったのだから当然だ。
「まあ、お飾りみたいなものですが護衛には違いありません。出来るだけ私の近くにいるように心掛けて下さい」
「はい、喜んで」
笑顔で頷くアーレイ。騙していることに、若干の良心の呵責を覚えるイリス。
「……アーレイ、貴女に姉妹なんていませんよね?」
「えっ? 何を藪から棒に、私の妹はイリスだけです」
「いつから我々は姉妹に……えっ、私が妹?」
「えっ?」
「えぇー……」
誤魔化すように、イリスは下界を見下ろした。
「……そろそろ、ですね」
イリスが呟くと、手綱を握るアーレイが再び振り返る。
「珍しい、イリスが尻込みするなんて」
「尻込みしますとも。まさか私の分の衣装まで用意されるとは」
「人を呪わば穴二つ、です。自分だけ逃れようなんてダメなんです」
「ならばフランこそが呪われるべきでしょう。呪具を揃えるならば手伝いますよ」
「それは……えっと、また今度ということで」
二人と一匹の眼下には、小さな港が築かれていた。
幾つかの町や村を経由し、辿り着いたのは港町イリルム。戦争の最前線でありながら、未だ機能を維持している軍港である。
人口数万の小さな町であり、人類の胃袋を支える漁港でもあるイリルムだが―――その都市機能は極めて限定的。この世界における町村では大抵可能な完全独立状態による生活の維持は出来ず、後方からの支援を前提とした軍隊中心の町となっている。
「イリス、見て下さい。あそこにとても大きな船が停泊しています」
「ふむ、さほど大きいようには見えませんが」
彼女達が見つめる先に浮かぶ船の全長はおよそ100メートル。木造船主流のこの異世界においては最大級となった、黎明期のほぼ全鉄製戦闘艦であった。
しかしイリスにとっては、特別大きな船とは思えない。
有名な戦艦三笠で全長132メートル。第二次世界大戦の駆逐艦が凡そ100メートル前後。海上保安庁の大型巡視船も、ほぼ同じ大きさである。
この程度の規模の船など、前世で見慣れているのだ。
「あれが有名な『不動の鉄城』ですか。立派な船なのに勿体ない」
「降りますよ、イリス」
アキレウスは町へと降り立つ少女達。
イリスの波乱の旅は、あるいはこの地から始まったのかもしれない。
「最前線の町という割に、存外賑わっているのですね」
多くの人々が行き交う大通りを前に、イリスは関心したように見渡した。
イリルムの町は軍を中心に形を変えた港だ。かつては独特の山間な地形が天然の良港として栄え、現在でも防衛上重要な役割を果たし続けている。
黒竜軍の侵攻はイリルムに発展と衰退を同時にもたらした。国内は元より風の国との国交も盛んに行われていたこの町だが、渡航相手が居なくなっては客船を出しようがない。多くの商人や船乗りが見切りをつけ、西へと移住した。
だが同時に駐屯する軍人が増えたことで需要が増加、難民による食糧事情の悪化から起因する漁業の活発化が町の衰退を許さなかった。魚を求めて海に出ることははぐれの黒竜や魔獣に遭遇する危険を孕むが、需要があれば船を出すのが海の男というものである。
巨大な老成土竜が引く竜車が大通りを進む。荷台には魚が満載されている。
時刻は既に日が沈みかけ、町は赤く染まっていた。
「お魚が山のようです。人間世界では毎日こんなに食べられているのですね」
「減った減ったと言われていますが、人類もまだそれなりにいますし。現実問題、動物性蛋白質を摂取しないと病気になってしまいます。魚は現在飼育しにくい家畜の代用ですね」
この世界では大型の家畜があまり飼育されていない。生育に必要なコストもさることながら、放牧しようものならあっという間に魔獣の餌だ。よって飼育されるのは、狭い土地で飼える鳥程度である。
それでも過去は多くの豚などが飼育されていたのだが、現在では非効率として敬遠されている。こうして人間世界は慢性的な肉不足に陥った。
世の中には菜食主義者もいるが、バランスよく食べるに越したことはない。世界が激変する中で王政は効率的かつ栄養的に不足ない食料配給を試行錯誤し、その結果が現在の芋と魚を中心とした食生活と繋がったのだ。
「ど、動物セイタパクシツ……?」
謎の単語にアーレイは困惑する。
過去の蓄積から簡単な栄養学的考え方は存在しているものの、厳密な学問には達していない。蛋白質が何なのかなどイリス以外知るはずもなかった。
「食べ物の話をしているとお腹が空きました。しかし、芋と魚……英国面に堕ちていますね」
産業革命をいち早く果たした英国は、効率の国でもある。
切羽詰まった情勢となり効率化を推し進めていけば、必然的に食料事情もかの国に似通ってしまうのだ。
「少し早いですが、何か買って昼食にしましょう」
「そうですね、私はあれでいいです」
イリスは目の前にあった露天で揚げた芋と白身魚のセットを購入する。
「アーレイは何を買ったのですか?」
「フランクフルトです。魚肉の」
アーレイが串に刺さったソーセージを揺らす。
食肉供給量の減少は、魚を代用品とする様々な加工・調理技術の発展をもたらしていた。
「地球では魚肉系の加工技術って、割と近年に発明されたものだったような」
食にはいちいち小うるさいイリスである。
「まあ、単純比較は出来ませんか」
「この後は任務にしますか? それとも買い物? それとも、わ、た、し?」
おどけるアーレイを、イリスはしれっと流す。
「アーレイの任務は夜からですが、事前に騎士団に挨拶しに行かなくても良いのですか? 団長は『あの人』でしょう?」
アーレイとイリス共通の知り合いが率いる騎士団。イリスはともかくアーレイとの関係は深かったので、顔を見せないわけにはいかなかった。
しかしアーレイは難色を示す。
「ええっと……実をいえば、彼のことは少し苦手なのです」
「そうなのですか? 真面目な人だと思っていましたが、気に食わない部分でも?」
「―――真面目が過ぎるのです。何度脱走を阻止されたか」
何故か言い渋った後、アーレイは述懐した。
それは彼の当時の職務である護衛任務を全うしているだけなので、責められる謂われはないであろう。イリスはそう考えたが、そもそもアーレイに脱走癖が付いたのはイリスの影響なので黙っていることにした。
実は苦労性の気のある青年を脳裏に思い浮かべつつ、イリスももう少しふらふらしてても大丈夫かと思い始める。どうせ多少遅刻したところで誰も困らないのだ。
「でも、ちょっと疲れてしまいました」
「休みたいのか休みたくないのか、どっちのなのですか」
意見をフラフラと変えるアーレイ。とはいえ彼女の疲れは、イリスにもよく解る種のものでもある。
溜め息を吐くアーレイ。長距離飛行の騎手を勤めるということは、想像以上に体力を消耗する。
イリスは彼女に提案した。
「簡単に挨拶を済ませて、すぐに基地の部屋を割り当ててもらいましょう」
少女達は頷き合い、軽食を消費することに専念していった。
軍港に隣接する形で建造された、大きく強固な建築物を二人は見上げる。
「なかなか立派な施設ですね」
「人類世界の僻地ですが、やはり最前線基地。しっかり作られています」
イリルム国防軍基地。立地的にも経済的にも町の中心となる施設である。
この国の軍隊、正式名アーヴェルア国防軍はかつて対人対魔獣戦を前提とした組織運営を行ってきた。
それに際し、組織は効率化され陸・海・空軍に区分されていた。生活水準が中世レベルであることを考えれば随分と先進的な組織形態である。
しかし対抗する国家そのものが消滅したこと、主たる敵が黒竜軍に限定されたことから陸軍と海軍は解体。空軍一本に統一されたことで、現在の名称へと至ったのだ。
イリルム国防軍基地で控えている騎士兵士もほぼ全てが航空戦力、即ち竜騎士。それも、土の国が誇る騎士団の一つであった。
第四騎士団。戦争で国を追われた者の多い騎士団であり、死兵であった故に高い士気を誇る戦闘集団である。
ある種の『戦闘狂』として知られる彼らだが、無論彼らも規律と誇りがある。
毅然と門前に立つ兵士に、イリスは笑顔で話しかけた。
「どーも、爛舞騎士です」
「子供は悪戯していないで、早く家に帰りなさい」




