プロローグ2
愛していた。
『彼』は愛してしまった。
狂おしいほどに。誰よりも、何よりも。
熱望していた。切望していた。渇望していた。
崇拝していた。熱狂していた。心頭していた。
朝の冷たい空気も。
日中の乾いた土の匂いがする風も。
夕日に染め抜かれた群雲も。
夜の帳が降りた群青より尚深い闇の中も。
濃厚な1気圧の砂漠の熱風も。
20000メートルを越える窒息しそうな高空も。
『彼』は空を愛してしまった。どうしようもなく恋してしまった。
大気という大海を、自在に泳ぎたいと思ってしまった。
惑星の表面にうっすらとへばりつく、矮小で哀れなほどささやかな水底生物の分際で。
吸い込まれるような蒼穹を見上げるのが好きだった。鏡面のような海を見下ろすのが好きだった。
嵐に翻弄されて思うように進めない空が好きだった。ラジエーターが焼けそうな熱砂に巻かれるのが好きだった。
『彼』は空を愛していた。
《お前に空を飛ぶ資格はない》
だからこそ。
教官からの一言は、彼にとって受け入れ難いものであった。
その時、『彼』はただでさえ機嫌が悪かった。何故飛行機に乗っているというのに、目隠しをしなければならないのかと。
中等練習機Tー4の後部座席にて。飛行中だというのに四方はカーテンで塞がれ、青い空は微塵も見えない。
Tー4名物、計器飛行訓練。メーターが示す数字だけを頼りに様々な機動をこなさなければならない、戦闘機パイロットには必須の技能を会得する為の訓練だ。
戦闘機は進路を選べない。必要とあらば、どのような空だって飛ばなければならない。
例え一寸先も望めない雷雲に飛び込んだとしても、自身の位置を喪失するわけにはいかないのだ。
『彼』はなんとなく、周囲を覆うカーテンを弄った。この布こそが今の『彼』にとっての雷雲である。
《おら、ぼーっとすんじゃねぇぞヒヨッコが》
前席に座る教官が、『彼』の行為に気付き注意する。
《近くには俺の女房と垣崎練習生が乗るドルフィンもいるんだ、ぼさっとしてるとニアミスするぞ》
教官と呼ぶには粗雑な態度。こんな立ち振る舞いだが、相棒と共に計器飛行だけで離陸から別基地への着陸まで、一切の外部情報なしに成し遂げてしまったという伝説のファントムライダーである。
そんな男にパイロット不適正だと言い切られ、『彼』のご機嫌は全力で斜めであった。
そも、不適正ならば不適正だと評価すればいい。練習生の評価は秀・優・良・可・不可の5段階に評価されるべきものであり、先程のような曖昧な言葉はかえって困惑するだけだ。
《そのふてぶてしさがそもそも異常なんだっての》
教官は呆れた声を漏らす。
《他の奴は訓練中、ガチガチに緊張して手順を何度も確認しながら飛ぶもんだ。だがお前さんは本気で空を楽しんでいる》
何を当然のことを、と『彼』は訝しむ。空が好きではない者がここまで来るはずがない。
脱落した練習生達とて例外なく空を愛していた。能力才能の優劣はあれど、その一点においては皆共通なのだ。
そう返答すると、教官は頭を振った。
《評価は良常連、特別優れているわけでもない。普通はもう少し焦るもんだぞ》
『彼』は特別才能に恵まれていたわけではなかった。用意されている最も高い評価は『秀』だが、これは文字通り用意されているだけで与えられることなど滅多にない。評価基準は常に厳しく、練習課程の突破には全て『可』であっても構わない。
そして『彼』もまた、評価を『良』か『可』に甘んじている。決して余裕のある状況ではないのだ。
《のびのび飛べるなら結構さ。だがよ、そんな奴とエレメントを組みたいって奴はいない。お前は空と向き合ってはいるが、パイロットとは向き合っていない。目を逸らしているんじゃない……そもそも見えてすらいねえ》
やはり『彼』は困惑するばかりであった。他の練習生とも、整備員の方々ともうまくやっている。編隊飛行訓練だって滞りなくこなしている。
他の練習生がもたつけば、それに付き合いフォローを行ったりもしている。決して見下した態度を取ったことはないし、そのように思ったこともない。
むしろ、試行錯誤を行っている彼らを『楽しそう』と思ってしまっている始末。
《お前には『空で死ぬ矜持』はあるのか?》
『空で死ぬ覚悟』ではなく、『空で死ぬ矜持』。
どういうことかと首を傾げる『彼』に構わず、教官は話を続ける。
《空はおっかないもんだ、誰も助けてなんてくれない。お前の目指すイーグルライダーになれば尚更だ、ありゃ単座だしな》
『彼』はいぶかしむ。教官の話そうとしていることは、到底事務的な業務に含まれているとは思えない。
数メートル前にいる男は間違いなく、尊敬すべき日本最高峰のパイロットであった。とにもかくにも『彼』は教官の伝えんとすることを聞き逃すまいと、改めて耳を傾ける。
《シングルってのはどうしても背中が寒いもんだ。お前さんは空の冷たさを知らなすぎる》
「……!?」
前部座席に、教官がいなかった。
ハーネスを外し、身を乗り出して再度確認するもやはりいない。
カーテンを払い視界を確保。無線封鎖を解除し、管制塔に非常事態を伝える。
だが返答はなかった。チャンネルを変えようと、無線機からはラジオ一つ聞こえない。
上を確認する。T4練習機はキャノピー破砕方式の脱出装置を備えている。キャノピーはしっかりと閉まっていた。
当然である。目の前で教官が脱出していて気付かなかったはずがない。
高度計を確認。計器はつい先程確認したままの数値を示していたが、それが今も尚正しいか判断する術はない。
旋回しつつコンパスを確認するも、方位の変化と全く連動していない。
太陽を探すが、どこにも見あたらない。快晴だというのに、空は全てが青く上下感覚すら喪失してしまいそうであった。
昇降計も反応なし。三半規管を信じて慎重に機体を降下させていく。
やがて海面が顔を出すはずだが、それらしいものは見えない。
高度計の針もやはり動いていない。間違いなく降下しているはずなのに、ぴたりと固定されたように針は動かない。
高度計は気圧を元に高度を割り出す。つまり低気圧へ向かって飛行しつつ降下するならば、針が動かないこともあり得る。しかし計器の大半が狂ったこの状況、どこまで信用していいものか。
飛行機の燃料は無限ではない。いつかはエンジンが止まる。いつまでもこうしていられない。
早く地上に降りてしまいたい。そう考えが至った時、『彼』は自分に愕然とした。
空の青が闇と同義になり果てる。なにも信用できない。
落ち着け、そう『彼』は自分に言い聞かす。こんなことで取り乱す人間はパイロットとして認められはしない。
冷静になれ。平静を保て。理知的に判断しろ。自己暗示はしかし、焦燥の加速要因にしかならない。
『彼』は今、誤魔化しようもなく空に怯えていた。
「イリス、イリスッ」
揺すられる体に、イリスは唐突に覚醒する。
懐かしい香り。優しく柔らかい光が目を霞ませ、少女はたどたどしく上体を起こした。
「どうしたのですか? イリスが魘されているなんて珍しい」
「アーレイ……」
寝間着姿のルームメイト。イリスはようやく、先程の計器飛行訓練が夢であることに思い至る。
窓の外には変わらぬ青い空。練習機で飛んだ地球とは違う、異世界の空。
冬も始まったばかり。しかしイリスはそれ以上の寒さを感じ、微かに震えた。
「もう朝です。ふふっ、私がイリスを起こすなんて久びきゃっ!?」
思わずイリスはアーレイを抱きしめる。むしろ衝動的な、イリスらしからぬ行動であった。
それはきっと、数分後には忘れてしまう気泡のような記憶。それでも、イリスは確かに知ってしまった。
彼女も知らぬ、空の恐ろしさの片鱗を。
「イリス、私っ心の準備がー!? ははは、初めてなので、優しくして下さいっ!」
さっさと本編に入りたいので、今日はもう一話投稿したいと思っています。
↓いつもの
黄金柏陽剣付金剛双翼勲章騎士(ドラグーン・ミトス・クルトウィンド・ミット・ブリラート・ウィス・エイチェル・ヴ・ディス・ブリーデン)
人類より13人選定される、最高の武人に与えられる称号。ただし竜騎士とは限らない。
これまでの竜騎士がww1時の戦闘機なら、彼らはww2時の戦闘機。次元が違う。
現在名前まではっきりと判明しているのはルバート・ブライトウィル、スティレット・アンドリュース、ソフィアージュ・アンドリュース、バール・ド・デュラン。ここに、半年前にイリス・ブライトウィルが加わった。
常に埋まっているわけではなく、空席もある。実力のみで選ばれ、誰かが外れれば棚ぼたでなれるというわけではない。
イリスは十三位。
その起源はかつて存在した伝説的竜騎士。戦場で数々の武勲を上げる彼に時の王は勲章を与え続けるも、遂には全種類の勲章を送ってしまい次がなくなってしまった。
しかし戦果には名誉を以て答えなければならない。そこで、新たな勲章を新設することにした。
彼と同等の騎士が多く生まれることを願い、12個用意された勲章。戦士として一つの到達点に達した者だけに与えられる、人類最強の証明。
形状は、鎖の描写があることから首かけタイプの勲章らしい。




