16話
微睡みの中、イリスが最初に目にしたのは倒壊した建築物であった。
何故自分が外で寝ていたのか、イリスは記憶を巡りすぐに思い出す。
「……マザーフォートレス。そうだ、止めないと」
縺れる足で、懸命に立ち上がるイリス。
彼女が目にしたのは、半ば廃墟と化した町並であった。
「どこだここは」
全身の傷から来る痛みと眩暈を、歯を食い縛ることで耐える。
瓦礫を一つ一つ乗り越えていき、やがて彼女は気が付いた。
「クルツクルフ……? 何故、私はここに」
彼女が立つ場所に影が差し、反射的に頭上を見上げる。
空にいたのは、全長50メートルの巨大なドラゴン。
マザーフォートレス。そして、無数の黒竜。
イリスはバルドディを地の果てに残したままに、敵の転移に巻き込まれる形で故郷へと帰還していた。
「情報を片っ端に集めろ! 防衛本部に伝令、私の許可はいらんから即座に対処しろと伝えろ!」
イリスのもたらした情報より早いフォートレスドラゴンの襲来に、クルツクルフの王宮は上へ下への騒ぎとなっていた。
普段のおふざけはなりを潜め、鬼気迫る形相で指揮を取るフラン。来るべき時に備え可能な限り行っていた前準備が、城内の混乱を抑えこんでいた。
「くっそ、どうなってやがる……イリスは失敗したのか? それとも成功の結果か!?」
前情報によれば転移してくるフォートレスドラゴンは複数体。しかし、現にはマザーフォートレスのみが召喚されてきた。
これを幸いとするべきか悩ましいところだが、マザーフォートレス自体の戦闘能力が乏しいことは事実。緊急出撃した竜騎士達が被害を抑え込み、現状被害は最低限に留められている。
「住人の被害は!」
「現在確認されておりません! 避難者は予定通り、空輸にて輸送中です!」
彼女に取れる数少ない選択肢として、フランは準騎士をも積極的に作戦に動員していた。本来ならば未熟な騎士など足手まといでしかないが、一般人を後ろに乗せて飛ぶことくらいは出来る。
イリスが目を醒まし最初に目撃した建築物は、転移後に落下したマザーフォートレスに押し潰された物だった。それ以外の被害は現状、ほとんど発生していないのである。
だが通常の騎士にフォートレスドラゴンを撃破する手段などない。このままでは、やがて数に押されてクルツクルフは陥落する。フランとてそれは理解していた。
だからこそ、彼女は躊躇いなく切り札を切る。
「第4位を出撃させろっ!」
黄金柏陽剣付金剛双翼勲章騎士第4位・ソフィアージュ。クルツクルフに住まう、最強の竜騎士。
莫大な行使魔力量故に精神に不安定さを残し、優秀な戦力でありながら危険人物としてスティレットの被保護下にある少女である。
されど、このような場で使わずして何が切り札か。普段は自分より幼い少女が戦場へ向かうことなど良しとしない程度の良識はあるフランであったが、今日は躊躇うことはしなかった。
だが、しかし。
すぐに訪れた魔法大臣スティレットは、若干青ざめた顔で王に告げる。
「第4位ソフィアージュは今現在、行方不明です」
「なにいいぃいぃぃぃ!?」
「アキレウス、行きますっ!」
宿敵の出現に、誰よりも早く空へ舞い上がったのは蒼の少女アーレイであった。
歳を重ね一層様になってきたドレスをはためかせ、一騎は空を昇る。
彼女が何故、誰よりも早く飛び立てたのか。それは簡単だ。
彼女はずっと騎士服を着込んだまま、厩舎で控えていたのだ。
イリスが決戦へ赴くならば、留守を守るのが自分の役目。アーレイはそう考えていた。
まあつまり結局のところ、いい加減鬱憤が溜まっていたのである。
「何度見送ればいいのですか。もう嫌です、見送る側なのは」
生まれ持った身分故に、訓練への参加は認められつつも実戦経験はなかったアーレイ。実地演習ですら除け者にされた彼女の忍耐は限界であった。
「私は王女かもしれません! でもその前にイリスの友達です!」
王は守られる者。されど、一人生き延びて王など名乗れようか。
王とは先陣をきる者。そして何より、傲慢な者。
「アイギス・クレンゲル・ミスティリス―――アーレイ、参りますっ!」
マザーフォートレスへと直進していくアキレウス。無数の黒竜を次々と切り捨て、少女とドラゴンは更に前進する。
「戦えるっ、戦えます私だって!」
息巻くアーレイだが、それは無謀というものだった。
アーレイは優秀な竜騎士である。アキレウスも水竜としては最高峰の能力を持っている。
だがそれだけ。エースは戦局を左右させることなど不可能。
優等生なアーレイは、当然そんなことは知っていて。
「私だって、私もイリスと……!」
知った上で尚、空を切り進む。
その戦法は従来の騎士を踏襲しており、それでいてイリスのそれに近似していた。
振り子のように往復し、何度もアプローチを仕掛ける。
空戦エネルギー理論。一撃離脱戦法。
卓越した技能と優れた能力、そして堅実極まりない戦術論は一騎ずつ敵を落としていく。
「イリスと、いきたいんだからーっ!」
アーレイの頭上に影が差した。
「あっ」
直上より迫る黒竜。
端的にいえば、彼女は前に出過ぎたのである。
速度的優位を保ち続ければ敵に後ろを取られる可能性は限りなく低くなる。だが、全方位を飽和されては安全領域もへったくれもない。
アーレイの周囲は、戦術が無意味となるほどに黒竜が溢れかえっていた。
「くっ、そんな―――」
万事休す、思わず目を閉じるアーレイ。
彼女に襲い掛からんとしたドラゴンを、大剣が両断した。
「やってらんねぇ、ばかばかしい」
吐き捨てるようにアキレウスの前に割り込み、複数の黒竜を一瞬で血祭りに上げる竜騎士。
彼は気だるげに片手で剣を振るい、アーレイを軽薄な笑みを浮かべつつ見やった。
「どーも、アーレイさん」
「ギイ、ハルトさん?」
「どうです? 惚れましたか? デートしちゃいますか?」
「感謝します。でもしません」
「どっちですか」
背後を預け合い、周囲を警戒するアーレイとギイハルト。
毛嫌いしている相手でありながら、背中を守られることに安堵してしまったことにアーレイは憮然とした。
「ケッ。こんな戦い、割に合わねぇっすよ」
「怖いなら貴方一人でどうぞ、お逃げ下さい」
「アーレイさんは怖くはないのかい? そりゃすげーですぜ」
ギイハルトは近付くドラゴンに一瞬で間合いを詰め、大剣で両断する。
「いいからデートしましょう。いい宿屋を見付けたんです。ムードたっぷりですよ」
「絶対嫌です」
負けじと氷の槍を脳天に突き立て、黒竜を瞬殺するアーレイ。
「それじゃあこうしませんか? 俺の方が多く黒竜を殺せれば、俺と結婚して下さい」
「なら私の方が討伐数が多かった場合、イリスの前から消えて下さい」
「ひでぇ」
町より人々の悲鳴が上がる。
視線を向ければ、二人に迫ってくるマザーフォートレス。
少年少女は顔を見合わせた。
「とりあえず、賭けはなしで」
「今日だけはタッグを組みましょう」
町中を走る老ドワーフ。戦場から離れようとする人々の流れとは逆行し、彼は懸命に自宅を目指す。
「はっ、はっ、はあっ、少し身体が重くなったか! 少しな!」
老いを嘆きつつドワーフ族の特徴たる短い手足を懸命に振るい、ランスは我が家を必死に目指す。
「イリスの言っていた予定より早い、まだ避難はまったく進んでいないというのにっ」
がふがふと荒い呼吸を繰り返し、ランスは走る。自宅ではいつも通り、娘のスピアが家事をしているはずだった。
事前に避難させる段取りはあったのだ。だが、なにぶん襲来が早過ぎた。
曲がり角を抜ければ、そこには自宅。
だが、ランスの目に映ったのは無惨に倒壊した家だった。
「スピア!」
悲鳴のように叫ぶランス。見れば、黒竜の黒い尾が元自宅であった瓦礫から生えて揺れている。
胴体を我が家に潜り込ませた黒竜の姿に、遅かった、とランスは察した。
「えいやっ」
気の抜けた女性の声。瓦礫から吹き飛ぶ黒竜。
彼の頭部には殴られた拳の跡がくっきりと残り、数十メートル飛んだ後に地面へと叩き付けられた。
頭蓋骨陥没。即死であった。
続いて、倒壊した家の一画にて弾けるように瓦礫が宙を舞う。
「痛いわねえ、もう……あら、お父さん?」
ひょっこりと瓦礫の下から立ち上がる女性。当然イリスの母親スピアである。
遅かった! ランスは嘆いた。
スピアが身に纏っていたのは、少し色褪せながらもよく手直しされた優美な騎士服。
普段の緩い雰囲気を纏ったまま、一端の騎士となったスピアの姿がそこにはあった。
―――このじゃじゃ馬娘を、二度と戦わせまいと誓ったのに! ランスは嘆いた。
「お前はもう引退したのじゃろう! さっさと避難するのじゃ!」
「このご時世ですから、戦える者は戦わなくてはね。でも夕飯のシチューが駄目になってしまったわ」
しょんぼりと肩を落とすスピア。いつ娘が帰ってきてもいいように、数日はご馳走を用意し続けるつもりだったのだ。
「相竜もいないお前に何が出来るのじゃ!」
「相竜なくとも拳があります」
ぐっと拳を握り締めるスピア。ランスは大いに嘆いた。
かつて、空の上で殴る蹴るの戦いを良しとした竜騎士がいた。
あまりの武道派故に嫁の貰い手がいなくなることを危惧し、彼女の父はあの手この手で彼女を引退させたのだ。
のほほん笑顔で多くの黒竜を殴り殺してきた、名前を呼んではならない騎士。その名も、『キリングマリア』。
イリスの妙な腕っぷしの強さは、実は彼女の遺伝であったりもする。
「いいじゃない。別に再婚するつもりもないし、無理にさせるつもりもないでしょ? いっそ非常勤で復帰しようかしら、っと!」
とりあえず手近な黒竜を殴り殺し、その亡骸を別の敵に叩き付ける。
何を言っても無駄だ。ランスは空を仰いで大いに嘆いた。
とりあえず諸々の問題を先送りして、ランスはハンマーを握りしめる。
娘にばかり戦わせるわけにもいかない。覚悟を決め、適当な敵へと飛びかかった。
「おんどりゃあ、脳天かち割ったるわー!」
「その意気よ、お父さん!」
自棄になったランスと、それに声援を送るスピア。
父娘の戦いが始まる。
「民間人の協力もあって、準備時間を稼げましたな」
スティレットは安堵の溜息を吐いた。
「民間人に戦える奴がいるのかよ?」
「さすがにそれは少数派ですが。怪我人の治療や魔力保有者ならば出来ることもあります」
なんにせよ、とフランは不敵に嗤う。
「なんとか間に合ったか」
フランが立つクルツクルフ城のバルコニーからは、町のいたる場所から魔法が撃ち上がっていく様子が広がっていた。
それはまさに弾幕。花火大会の如く空を昇る閃光は、一体また一体と敵を落としていく。
それを放っているのは魔法使いではない。大半が、普段戦闘とは関わりのない民間人である。
「素人でも一流の魔法を乱射可能―――これこそ工学輪唱銃の神髄でありましょう」
イリスの研究を彼なりに噛み砕いた結果。新たなる技術に、スティレットはイリスとは別の角度から利点を見いだしていた。
フランも頷く。
「イリスはドラゴンに装備することばっかり考えてたみたいだけどよ。重くてかさばるのであれば、そりゃ固定して運用すべきだよなぁ?」
魔法を放っているのは、杖ではない。いや、それは杖の一種には違いないものの、これまでのものとは一線を画くものであった。
工学輪唱銃。操作さえ覚えてしまえば、一般人でも扱える機械の魔法の杖。
国中に配備されていた拠点防衛用工学輪唱銃、個人用の小型仕様、果ては大工房の倉庫に眠っていた試作品までも持ち出しての熱烈な歓迎であった。
扱うのはほとんどが民間人。されど、その威力は上級魔導師と遜色ない。
イリスとは別方面に、こういった固定式の工学輪唱銃も平行して開発されていたのだ。
「これほどの弾幕、火の国撤退戦以来ですな」
「いつの話だよまったく」
ま、なんにせよ。そう言ってフランは中指を立てる。
「あまり人類なめんなよ、クソトカゲが」
なぜだ、とマザーフォートレスは困惑しきりであった。
以前この地を訪れた時、人間は混乱するばかりでまともな抵抗などできていなかった。
だが今回は違う。この嵐のような魔法はなんだというのか。
無論、かつての教訓から防空体制を見直していてもおかしくはない。小さな雌が湖に強襲してきたことから、情報の漏洩があったことも伺える。
だが、それにしても異常であった。
町の各所から放たれる常識を越えた分厚い弾幕。次々と墜落する黒竜。
おかしい。これほどの魔法を行使可能な魔法使いを、この短期間で養成できるはずがない。
だが現実に、町中から光の帯が空を射抜き、空は完全に牢獄と化している。
今この時、災厄と同義とされたフォートレスドラゴンは完全に人間によって封じられていた。
あと必要なのは、フォートレスドラゴンの強固な鱗を貫ける一撃のみ。
蒼空には無数の竜騎士と黒竜。
幾閃もの光が空を穿ち、マザーフォートレスですら身動きをとれなくなっている。
大混戦と陥ったクルツクルフ上空を、イリスはぼんやりと見上げていた。
朧気だった意識が浮上し、次第に事と次第を理解していく。
「―――戦ってる」
皆、必死に抗っていた。
ここが最後の防衛戦であると信じて。ここで敗退すれば全てを失うと理解して。
全てを失わぬ為に、全てを賭して立ち向かっていると。
「皆、戦っている」
ならば自分は何だ? こんな場所で空を見上げ、観戦でもしているのか?
そんなことが、イリス・ブライトウィルのすべきことなのか?
―――イリスは、石のように重い足を引き摺り始めた。
「……マザーフォートレス」
市街地直上でホバリングするマザーフォートレス。時々迫ってくる竜騎士の投槍や魔法を、召喚される黒竜を肉壁にして防いでいく。
まさに鉄壁。文字通りのフォートレス。
あの屈強で強固な敵を、満身創痍の自分が打ち砕く方法。そんなものは、何一つとしてない。
それでもイリスは考える。奴を倒すにはどうすればいいのか。自分には何が出来るのか。
―――そして、一つだけ発想に至る。
過去一度もまともに発動に成功しなかった魔法。だが、今だけは成功する予感があった。確信があった。
痛む体を叱咤し、イリスは歩く。
必要なのは一瞬の間。マザーフォートレスの潰れた右目側に回り込み、呪文詠唱を開始する。
「空の遥は巨人の豪腕。無垢となりて暴虐を体現す」
ざわり、と彼女が纏う大気が震える。
かつて父が貫いた右目の死角。だがマザーフォートレスもそれは承知しており、しきりに首を回してカバーしている。
「偽りの四肢は幻影。されど剛鬼の血は鏡像にあり」
だが、その視線は自身の驚異となりうるであろう空中にのみ走っている。地表にいる、小さなイリスにはなかなか気付くことはない。
その幸運が詠唱終了まで続くのか、と問われれば。
イリスには「続く」と断言することしか出来ない。
続かなければ敗北するのだから、それ以外にないのだから。
「血潮は緋鉄。肉骨は鍛鋼。頭蓋は衝角。故に天下無双」
この魔法を攻撃に使用するには、頑丈な武器を必要とする。だがしかし、イリスはそんな武器を所有していなかった。
持っているのは短剣のみ。護身用のソードは既に紛失し、ナイフに毛が生えた程度の短剣では魔法の効果に耐えきれない。
ならばどうするか。現地調達しかあるまい。
イリスは、マザーフォートレスの右目に突き刺さった剣を確認した。
「贄よ、刹那の狂乱に躍り狂え」
不変の聖水剣。アーレイの所有する宝剣であり、父ルバートの愛剣。
不変に恥じぬ特性故、長期間ドラゴンの体内に埋まっていようと切れ味に問題があるはずがない。
得物としては充分。否、この上ない。
「ジ・アクト」
気軽に呟いたかのような魔法名に、イリスの全ては奪われた。
筋力も、魔力も、全てを根こそぎ消耗しての発動。元より負荷の大きい魔法は、死にかけの彼女が発動することにより生命力すら消費する。
まさに命掛けの一撃。細い手足に人の域を越えた強化が成され、爆発しかねないエネルギーが彼女を満たす。
そっと身を屈め、彼女は跳ねる。
跳躍。単純なジャンプは地面にクレーターを穿ち、少女を超音速まで加速させた。
「 ―――!」
マザーフォートレスはようやく気付く。自分へと真っ直ぐ迫ってくる、恐ろしい少女の姿に。
召喚される黒竜。同時に10匹も現れたのは、敵がどれだけイリスを警戒しているかの指標か。
イリスの眼前が小さなドラゴンに埋め尽くされる。
「愚鈍め、忘れたか」
されど、それはイリスにとって障害足り得なかった。
空中で黒竜を蹴り飛ばし、軌道変更しての特攻。通常の彼女では絶対に不可能な芸当。
だが、これをルバートも出来たかといえばそうではない。イリスだからこそ、可能であった。
もしジ・アクト発動中であっても、これが横から、上下からの攻撃だったならイリスとて対処しかねていたであろう。
だが、幸運なことに、マザーフォートレスにとって不運なことに、彼らは真っ向から対峙していた。
「真っ正面なら、俺は負けやしない」
既に、彼女を阻む者などいなかった。
マザーフォートレスの頭へ目掛けて直行するイリス。
マザーフォートレスは心底恐怖した。恐慌と言い換えてもいい。
目の前の小さな生物が、心から恐ろしかった。
やがて黒騎士と呼ばれ恐れられる汚染兵は、自分の上司といえなくもない立場である巨大ドラゴンを見据える。
全てが死滅した絶望の世界。空を飛ぶのは黒竜とマザーフォートレスのみ。
時はルバートが汚染兵にされたばかりの頃。未だ黒曜竜は存在せず、彼もまた能力の低い黒竜に跨がっている。
「知能があるように思っていたが、案外無能なのか? それとも剣を抜けるほど器用ではないのか?」
かつて自分が突き刺した、マザーフォートレス右目の剣。ルバートはそれを彼が放置していることを、ずっと疑問に思っていた。
彼は確かめようがなかったが、不変の聖水剣は砕けようと再生する水の聖剣。その刀身はマザーフォートレスの体組織と同化し、抜けに抜けなくなっていた。
「まあ、いい。どうせ俺にはそれをこれ以上押し込むことは出来ん」
一度汚染兵となってしまえば、黒竜軍への敵対行動はほとんど取れなくなってしまう。本人の意思に反し、目の前の敵に殴り付けることすら出来なくなってしまう。
それでも、何故かルバートはさほど悲観していなかった。予感があったのだ。
「俺である必要なんてない。誰かが、次の世代を担う新たな竜騎士がその剣を貴様の脳髄にぶち込むだろう。それまで精々、お山の大将を気取ることだな怪物め」
人類はこの新たな驚異を必ず打倒する。怪物にとってはあまりに矮小で惨めな二本足の猿であっても、人類はこの世界の覇者であり続けたのだから。
「この世界は、我々のものだ。お前達の繁栄など、いつしか歴史書に書かれる災害の一つでしかない」
イリスは右目に突き刺さった不変の聖水剣に掴みかかり、その勢いのまま脳を貫いた。
砕ける頭蓋。飛び散る脳漿。灰色の血肉が飛び散り、軽銀の竜騎士の純白ドレスを汚す。
失速したイリスは木の葉のように回転し、地面へ落下していく。
「ア、アキレウス!」
イリスに気が付いたアーレイは咄嗟に地面を水で満たし、落下の衝撃を和らげる。
元より町中、即座に捌ける水。その流れからイリスの片手を掴み、アーレイはアキレウスの背に彼女を乗せた。
「イリス? イリス、イリスッ!」
「…………あー、よく聞き取れません。耳が片方やられているようなので」
自分の声すらしっかりと聞こえないからか、若干ちぐはぐな発音で返答するイリス。
アーレイは歓喜した。どうして彼女がここにいるかは問題ではない。最愛の友人が生きている、それだけで充分であった。
地面が揺れた。死亡したマザーフォートレスが町に墜落し、その巨体を横転させた音だ。
誰もが自失した。誰もが目の前の現実が信じられなかった。
一騎、また一騎と騎士達が地面へ降り立つ。空前絶後の巨大ドラゴンを恐れるように、崇めるように一定の距離を置いて囲む。
警戒する必要などあるものか、何せ頭が完膚なきまでに砕かれてるのだ。
「ああ、アーレイ。これ返しますね」
場違いに、イリスが手にした剣をアーレイに差し出す。
「これは……?」
「不変の聖水剣、です。本来の持ち主は貴女でしたよね」
水の国の宝剣、不変の聖水剣。名義上は未だアーレイの所有物ということになっている、ルバートの愛剣。
震える手でそれに触れ、アーレイはイリスの胸元へ押し返す。
「アーレ、イ?」
「これは、貴女が持っていてください。きっと必要になるものです」
戸惑いつつも、頷き受けとるイリス。
イリスの基本戦術は一撃離脱、近接戦闘を避けたがる自分が持っていいのだろうか、と思わず首を傾げる。
途端、思い出したかのように大きな歓声が町中に響き渡った。
勝利の勝鬨。人類を救った少女は、突然力一杯に喜び始めた人々に終始目を白黒させるばかりであった。




