14話
前にも同じようなことがあった、とイリスは思い返していた。
脳裏に浮かぶのは巨大なステルス爆撃機と、制御不能に陥った僚機。
眼前には敵国の兵器が存在し、それは放置してしまえばやがて祖国に壊滅的な被害を与えるであろう。
目の前にそれを阻止する方法があり、しかしそれを成せば命はない。
「なぜそこまでする。あの国は、俺の祖国じゃない」
イリスは日本語で自問自答する。
怖くないはずがない。心の臓はバクバクと暴れ、口を閉じれば不吉な未来しか浮かばない。
人はイリスを異常と称した。必要とあらば命を投げ出す姿を、普通ではないと感じた。
「―――怖いよ。怖いさ。怖いに決まってる。ふざけんな、おっかねえだろどう考えても」
それでも、戦わねばならないことくらい知っていた。
必要だから実行してきた。意味があるからやり遂げた。
やらねばやられる。その原則を、イリスは前世の最期に鮮烈な印象として学んでしまったのだから。
「痛っ」
高速で後方へと流れる景色、嵐より更に荒々しい暴風。
ピトー菅が計測する対流速度は時速800キロを示し、イリスの頬に切り傷が走った。
「……考え事をしている場合ではない、か」
思考に耽っていたイリスは、ふと我に返った。
この速度域ともなれば、周囲を流れる気流は部分的には音速突破してしまっている。イリスはこれ以上の加速が現状のままでは無理な段階に突入したと判断する。
ペチペチと頬を叩いて気合いを入れ直し、バルドディの側面に増設されたレバーを握る。
補助エンジンとして上下に4発固定された回転式推進装置が、小さな爆発と共に脱落。くるくると惰性で回転しつつ落ちていった。
回転式推進装置が最も効率よく稼働する速度は亜音速だ。これ以上の加速では、むしろ足手まといにしかならない。
だからこそ低速からの加速用と割り切って運用し、一定の速度に達したとみるや固定具に仕込んだ爆薬にてパージしたのである。
遥か眼下で地面に激突し、スクラップと化す回転式推進装置。未だ高価な装備であるこれは、1つで立派な家が建つ。4つもあれば遊んで一生暮らせたであろう。
「バルドディ、翼を畳んで」
酸素マスクを装着するイリス。彼女の指示通り、バルドディは翼を畳んで小さく納める。
イリスは腰のポーチから紙を取り出し、正面へむけて広げた。
彼女の両手には無数の宝石。精霊石から魔力を解放しつつ、詠唱を綴る。
「血肉守るは黒金の棺。魂芯護るは白き疾風。風を穿て。風を切り裂け。風を避けよ。風を紡げ。激震の円錐を御し、我が矛の切っ先とせよ。ファルアルフ」
宝石が宙を走り、バルドディの周囲にピタリと浮かんで止まる。それぞれが作用しあい、ドラゴンの巨体を囲む大きな立体結界となった。
第3級魔法ファルアルフ。当作戦の為に製作された、特殊魔法。
急拵え故に魔陣刻巻物と詠唱の併用という不完全な方法でしか発動出来ず、長時間の使用には風の魔石を大量に消費せねばならない。しかし、スティレットはそれでもイリスの要望を実現していた。
バルドディの鼻先に浮かぶ、先端の宝石が衝撃波の突破口を穿つ。
円錐状に広がる衝撃波に包まれたバルドディを、更に矢尻型の結界が覆う。
上下に薄く、左右に広く展開する結界はそれ自体が浮力を発生させる翼として作用するように設計されている。
平面を多用した三角形の立体空力結界。それは多角の頂点に浮遊する宝石を除いて透明な力場。
だが、もし可視出来ればイリスなら「初期のステルス攻撃機」と称したかもしれない。
空気抵抗が減じたことで更に速度が上がる。それに伴い、バルドディの姿勢が崩れ始めた。
「以前説明した通りだ! ファルアルフを発動している最中は翼で姿勢制御出来ないぞ!」
風が当たらぬのだから、当然翼は作用しない。揚力は結界自体が稼ぐので飛行可能だが、ほぼ制御が効かなくなるのだ。
無論、その対策も用意されている。
「尾で舵を取れ! 尾翼と重心移動でバランスを確保しろ!」
バルドディの尾先には、2枚の三角形を直角に重ねた尾翼を装着していた。尾だけは結界の外にはみ出ており、最低限の制御が可能となっているのだ。
超音速の世界では通常とは異なる航空力学が必要となる。しかし単純な三角形の尾翼は、されどイリスの手によって計算・設計された装備であり全動翼として衝撃波の内であっても操舵の役割をしっかりと果たす。
戦略強襲用超音速巡航推進装置は更にバルドディを加速させる。今や時速950キロ。それでもまた、伸びは衰えることはない。
バルドディの前方に皿型の雲が形成される。衝撃波が空気中の水分を水滴へと圧縮しているのだ。
音の速度はほぼ一定であり、およそ秒速340メートル(時速1224キロ)とされる。この速度は音を生じさせる物体の移動速度とは無関係である。なにせ、物質的な移動ではなく純粋な「振動の伝播」なのだから。
つまりは、音速とは音の伝播と飛行体が並走してしまう速度。常時音は生じているのだから、並走する振動は常に積み重なっていく。
飛行体が無視出来ないほどに積み重なった、物理的ダメージすら与えかねないほどの音の壁。それこそ音速の正体である。
「時速、1100キロ!」
イリスとバルドディはそれを貫かねばならない。この程度の問題を突破出来なければ、フォートレスドラゴンの打倒など片腹痛いというものであろう。
「ッ、バルドディ避けて!」
前方を飛行していた黒竜を視認、回避を試みるバルドディ。ほとんど旋回していないはずなのに、イリスの全身にズシリと重圧がかかる。
高速では僅かな旋回でも搭乗者へと負担がかかる。まだまだ人間が耐えられる程度だが、超音速ともなればそうもいかない。
バルドディと黒竜が擦れ違う。衝撃波が黒竜を襲い、彼は失神し地面へと堕ちていった。
飛行機が音速で低空飛行を行えば、窓ガラスが割れるという。単なる飛行すら殺傷能力を有するほどのスピードなのだ。
「1200キロ!」
その瞬間は、一瞬だった。
バルドディが音を置き去りにし、戦略強襲用超音速巡航推進装置の轟音がとたんに小さくなる。
音速突破。それでも未だ、イリスとバルドディは正気で生きていた。
この世界で誰も体験したことがない世界。この場において、何人たりともイリス達を傷付けることは叶わない。
やがて、加速が遂に収まる。
「時速1500キロ、目標巡航速度到達」
地表の景色など流れる絵の具に等しく、空ですら早回しの如く後ろへ飲み込まれていく。
外はほとんど窺えず、だが眼下の景色に青調が多くなったことにイリスはすぐ気が付いた。
「水の国、人類の『本当の』最前線」
飛び立っておよそ十分と少し。既に、数日かけて移動した実地演習地より先に彼らはいる。
大小様々な島々が散在する面積の大半が海に覆われた国。ここでは日夜、人類と黒竜軍の陣取り合戦が行われている。
島を奪い、島を奪われ、その繰り返し。防衛に適した海峡国家は、人類の最終防衛線でもある。
ここを越えられた時こそ、人は黒竜軍の数に押し潰される。現状はまだ、必死の抵抗により脅威が緩和された戦況なのだ。
「さあ行こうバルドディ、お前も空は好きだろう?」
この世界に生まれ落ちてから、初めての出国。帰国の宛もない遥かな旅へ、一人と一匹は旅立った。
どれだけ飛び続けたか。イリスの主観では、数分とも数時間とも思える空間。
敵の領域を飛行しているのだから、当然敵と遭遇する。何度か目の邂敵。
その尽くを無視し強行突破してきたイリスとバルドディだが、計画など必ず破綻するもの。
イリスの恐れていた事態。黒竜軍の可能性の一端を、イリスは目の当たりにする。
「ばかな、なんでこんな場所にっ!」
悔しげに唇を噛み締めるイリス。
イリスの後頭部をビリビリと殺気が焦がす。彼女は明確に感じ取っていた、背後から迫る敵の存在を。
時速1500キロの次元。あらゆる敵も味方もが到達不可能だったはずの速度を、もう一匹のドラゴンが追撃している。
自身より巨大な気配。巨大な殺意。
荒れ狂う魔力と明確な知性。強大な敵が、背後に近付いていることを嫌が応にも認識する。
「まさか、前哨戦には重荷が過ぎる!」
この感覚を、イリスは知っている。
マザーフォートレスと同じく、全長50メートルほどの巨体と固有能力を有するドラゴン。
すらりと長い手足。鋭い翼に、滑らかな光沢を称える銀色の鱗。
空飛ぶハサミとも称される鋭角なシルエットは、敵でなければ美しさに目を奪われたであろう。
複数体目撃されているフォートレスドラゴンにおいて、例に漏れず特殊かつ強力な能力を有している個体。
ソニックフォートレス。イリスが最も遭遇したくなかった、最速のフォートレスドラゴンであった。
「こいつの縄張りからは随分離れているというのに、未調査だったのか、それとも今日が偶々なのか?」
フォートレスドラゴンの行動範囲は騎士達の必死の調査である程度解明されている。だがそれは人類圏のみの話、黒竜軍の占領範囲内で彼らがどのように生きているのかは不明な点ばかりだ。
「今日はお前と遊んでいるほど暇じゃない!」
闇雲に魔法を放つも、音速の暴風に晒された途端かき消えてしまう。
ソニックフォートレスはバルドディと並走し、ぎろりとイリスを睨んだ。
呼吸が止まり、手綱を引きそうになる。
「駄目だっ、止まるな……!」
あまりの敵意にソニックフォートレスへの対処を行わなければならない、という衝動に駈られる。しかしそれは選べなかった。
対策も用意していないソニックフォートレスとの戦闘など、無謀極まりない。現行の作戦とて無謀であることは変わりないが、ならば選ぶべきは必要な方の無謀だ。
しかし、そんな計算を度外視した上で。
一度立ち止まれば二度と音速を越えることは出来ない。理屈や戦術ではなく、精神面にてそうであるとイリスは直感的に悟った。
「きっと、心が、もたない」
イリスはこの時点で既に疲弊していた。戦友の死、父との戦い、そして人類の命運をかけた戻れる見込みのない作戦。肉体的には回復していようと、心の休息など得られていないのである。
もし勝算があったとしても、イリスは逃げを選択していたであろう。
ソニックフォートレスは首を横へ向け、イリスへと巨大な顎を開く。
すかさず放たれる高速の火球。弾速はイリスの魔法より遥かに速く、音速に晒されようと軌道が狂うことはない。
幸い狙いはかなり甘く、火球はイリスの反対側へと一瞬の間に消えていく。しかし次弾が即座に放射され、イリスの髪を僅かに焦がすほど近くをかすっていった。
「側面に撃てるのか!? まるで―――」
まるで、逃げる爆撃機と追う戦闘機。イリスはそう連想した。
「まずい、これはまずい」
旋回性能に乏しくほぼ直進しか出来ない爆撃機を仕留める手段、その一つに斜銃というものがある。
平行しながら飛行し、斜めに搭載した機銃にて死角から滅多撃ちにする戦闘機の戦法。真っ正面にしか撃てない機銃とは異なり、長時間安全な角度から攻撃を加え続けられるのだ。
音速飛行中に首をイリスへと向けるということは、この斜銃戦法を行えるということ。これはイリスにとって悲報に他ならない。
反撃など論外。そもそも戦略強襲用超音速巡航推進装置はあくまで巡航用であり、戦闘を考慮していないのだ。衝撃波からイリスとバルドディを守る風の障壁は、同時に内部からの攻撃手段をも封じてしまうのである。
それでも、敵が正面しか撃てず、攻撃のチャンスが乏しいのであればイリスも避けきる自信はあった。だが平行飛行で長時間攻撃され続けるのであれば話は別。
急旋回出来ないバルドディは敵にとって絶好の的。窮地であった。
ソニックフォートレスの口内より再び火弾が放たれる。
「くうっ、ううっッ!」
射線を読み高度を下げて回避するも、 凄まじい旋回の重圧に思わず声が漏れる。頭部に血液が集中し、頭痛と眼球の充血が襲った。
このような機動、もう何度も行えない。イリスはそう判断する。
「逃げる? 上昇する? 駄目だ、逃げきれない」
速度は同等、運動性能は敵が上。逃げられるわけがなかった。
「打つ手なし、か。いっそ体当たりでもするか、あの時みたいに」
爆撃機を仕留めた日のことは、昨日のことかのように鮮明に覚えていた。
古めかしい機影、各所に配置された無数の回転銃座が放つ機銃射線を掻い潜り、空を渡る鋼鉄の鯨へと飛び込んだのだ。
我ながら無茶をした、と思わず苦笑。そして、再度ソニックフォートレスを睨む。
「―――ははは、あの時と同じだと? そんなはずがない」
あの時より、ずっと状況はマシなはず。イリスはそう再認識する。
「何かあるはずだ、あんな妙で歪な生物、弱点がないはずがない」
イリスはソニックフォートレスを懸命に観察する。
爆撃機ならば死角がなくなるように複数設置される銃座も、先述の通り一つしかない。
目とて頭部以外にもあるようには見えない。実に脆弱な監視体制だ。
彼女の目には、敵が途端に弱々しい存在に変貌したように思えた。神々しさすら感じる銀色の翼も、口から放たれる小さな火球もお粗末といわざるをえない。
「なに、まだやりようはある」
行動は迅速であった。イリスはあえてソニックフォートレスに接近したのだ。
彼女は固定観念によって状況を見失っていた。敵は戦闘機ではない。当方は爆撃機ではない。ならば、自然対策も変化しなければならないはずだったのだ。
イリスの指針に変化はない。彼女にとっては逃げきることこそが目的であり、撃破する必要性など感じていない。
逃げる側から接近するなど普通はありえないが、イリスとバルドディの方が敵よりずっと小さいのならば話は別。
ソニックフォートレスの後方へと入り込んでしまえば、それだけでもう攻撃はおろか位置確認すらままならないのである。
そして、利点はもう一つ。
バルドディを襲う衝撃波が途端に弱まり、空気抵抗が薄れたのだ。
「バルドディ、一時的に風の防壁を解除する。奴の作り出す気流が牽引してくれるとはいえ、乱流には注意しろ」
言われるまでもない、と頷くバルドディ。イリスが魔陣刻巻物への魔力を操ると、風の精霊石が発生させていた見えざる障壁が消失した。
途端、強風に煽られるイリス達。しかし前方を飛行するソニックフォートレスが生み出す衝撃波、その中に完全に収まることで音波のダメージを凌ぐ。
障壁が消えたことで、バルドディ側から反撃するチャンスが復帰する。
「一発だ! 無駄遣いは出来ない、一発で当てるぞ!」
がう、と返答し照準を合わせるバルドディ。実弾砲の巨大な砲口が、鈍く煌めく。
刹那、音速の世界において尚狂暴な鋼鉄の咆哮が彼らの世界を揺るがした。
2・5寸口径の鉄鋼弾がソニックフォートレスを穿ち、しかし狙いは逸れ表層を抉るだけに留まる。
されどその威力は絶大。胴の後部から翼の付け根までをごっそりと抉られたソニックフォートレスは飛行能力を大きく喪失し、徐々に傾いて落下していく。
慌てて風の障壁を展開し直すイリス。速度を失い海へと吸い込まれていくソニックフォートレスは、すぐに海面と接触し急減速、吹き飛ぶように視界から消え去った。
「死んだ? いや、そんなことはどうでもいい」
今すべきはマザーフォートレスの撃破。フォートレスドラゴンを退けるという大きな戦果を誇る猶予もなく、二人は空を急いだ。
目下の世界が再び色を取り戻し、土色と緑の割合が増える。イリスとバルドディは再び陸地へと侵入していた。
不気味なほどに邂敵はなく、同時に生物の気配もない。大地に獣の姿はなく、空に鳥一羽もいない。
「食らい尽くされたのか? 緑の楽園だな、ある意味人類社会より平穏かもしれない」
人類が敗北し動物が死滅すれば、この世界は植物に覆われることになるのだろうか。イリスはそう空想する。
植物の光合成には大気中の二酸化炭素が必要となるが、動物がいなくなれば二酸化炭素が減り植物すら窒息してしまうのであろうか。
「いや、それはないか」
大型の動物が食い散らかされても、まだ微生物がいる。植物もまた酸素を消費し呼吸を行う。大気の変化はあれど、絶滅はないと推測された。
「ふん。私も存外、余裕がある」
音速の死闘より数十分。ソニックフォートレスを除けば、あまりに順調に進む空路にイリスの集中も乱れがちになる。
余裕があれば余計なことを考えてしまう。こんな状況では特に、それはネガティブな方向へと限定される。
「……怖いな。なのに何故、俺は戦場へ進んでいる?」
再度自問し、確認する。やはりイリスは恐怖していた。
恐ろしくて堪らず、今すぐ引き返したい衝動に駆られる。それでも尚、彼女達は死地へと直進する。
「疑問を抱くまでもない。自分は自衛官だ、尖兵となり真っ先に死ぬのは当然だ」
口にして、苦笑する。
いつから自分はそのような殊勝な人間になったというのか。彼女の本質はどこまでも利己的な空狂いであり、全ての行動理念はそこから起因している。
弱者を守る矜持くらい持ち合わせている。だが、イリスを突き動かすのはもっと原始的な衝動であり、そして鮮烈な思いであった。
「行かなくてはいけない。絶対に。俺は戦わなければいけないんだ」
自然と漏れた言葉に、ふと、答えが見えた気がした。だがその感覚は次の瞬間に吹き飛ぶ。
空気が変化した。臭いが変化したと例えるべきか。直接嗅いだわけでもないのに、イリスは変化を明確に理解した。
だだっ広い空の上にいるはずなのに、突然壁に押し付けられたかのような錯覚を覚える。
側面。右から迫るプレッシャーに、イリスは跳ねるように顔を上げた。
「山脈?」
地図に示された、暗黒領域南部の巨大な山脈。直接見える距離まで達したということは、ビャーク湖はもう目前ということ。
丸暗記するほどに何度も確認した地図を脳裏に広げる。遠景からある程度の現在地を把握することも不可能ではない。
されど、イリスの認識はどうしても地形と景色が一致しなかった。
よもや進路を間違えたかと焦るも、すぐに誤りではないと察する。
間違いは進路ではない。地形の方であった。
山脈の峰が隆起していた。巨大な山がうねり、起立していく。
「嘘、だ」
それは地形ではなかった。山脈の裏から姿を現し、首をもたげたのは巨木より尚壮大な頭部であった。
「ドラ、ゴン」
ドラゴン。通常全長10メートル、フォートレスドラゴンでも50メートル程度に収まる魔獣である、常識の範疇においては。
だがイリスの視線の先にいるのは、そんな既知の存在を超越した怪物であった。
全長数百メートルか、はたまた数千メートルか。想像を絶する大きさの黒いドラゴンは、ギロリと眼球を回す。
―――目があった。
「 」
明確な死の気配。
イリスの精神は、自ら最期を選択したい衝動に駆られる。
あの化け物と比べれば、フォートレスドラゴンのなんと可愛いことか。
体温がぞっと下がり、震えが止まらなくなる。ガチガチと歯が鳴り、意識が遠退く。
「痛……」
咄嗟に足をナイフで刺し、自我を保つ。ついでにバルドディにも刺しておく。
我に返り、痛みと抗議に吠えるバルドディ。
「気の利くご主人様に感謝の言葉か? いい子だ、さっさと行くぞ」
あのような敵に構っている暇はない。イリスは先を急ぐことを選ぶ。どの道それ以外に何も出来ないのだから。
最後にもう一度、山脈を確認する。
そこには雄大な尾根が横たわるだけであり、何もいなかった。
下を見下ろせば枯れた大地。
草木一つ生えず、水の一滴もない。
世界には何も存在しなかった。残るは死の臭いなき悪臭のみであり、黒竜一匹すらいない。
「植物の楽園にはならないようだな、悪食が」
生物の中には有する特性故、自らの種すら滅ぼす者がいる。黒竜軍もまた、その類なのかもしれないとイリスは考えた。
もし人類が敗北するのだとすれば、なんと敗北しがいのない敵であろうか。
「まあ、人間様が言えた義理ではないが」
この世界の人類も、いつかは自らを滅ぼしうる力を手に入れる。それは、そう遠い未来ではない。
黒竜軍の進化速度もまた異常だが、人類の科学分野における発展速度はそれ以上に異常なのだ。
どれだけ生物が生物として進化したところで、宇宙まで進出出来ようか。地球の裏側と映像通信が出来ようか。
観点によっては、よほど人類の方が化け物である。
「ああ、いっそ自衛隊が救援に来てくれれば楽なのに。集団的自衛権って奴、使えないものだろうか」
イリスは法律など判らない。ただ愚直に操縦幹を握るだけが脳の男だった。
もしこの世界と地球とか繋がれば、一月以内に黒竜軍は掃討される。この世界では絶望の代名詞たるフォートレスドラゴンとて、近代兵器の前には鈍足な的に過ぎない。
例外は先に発見された超巨大ドラゴンだ。あまりに正体不明過ぎる。
「対艦ミサイルなら貫けるか? それともバンカーバスター?」
かつて扱ってきた兵器の威力を目下の敵に照らし合わせていると、そもそも、なぜ自分は自衛隊に入隊したのかとイリスは根本的な疑問を抱いた。
思い返せば、あるいは流れだったかもしれない。今と変わらず、そうするしかなかったからそうしたのだ。
空を飛ぶ為。或いは、やらねばやられるから。
幾重にも理由と回答が浮かび、その何れもが信憑性に欠けた。自分に対する説得力が欠落し、腑に落ちなかった。
「どうして戦う。あの世界でも、この世界でも」
大切なことを、忘れている気がした。
自衛官として日本を守るのは当然のことだった。イリスの行動はその矜持の延長線上にあるのか。
それとも、イリスにとってこの世界は既に魂にまで刻まれたれっきとした「祖国」なのか。
彼方に黒い土地を視認。経験上、それが水であるとイリスは知っていた。
「ビャーク湖、ああ遂に着いてしまったか」
湖の中心には一匹のドラゴンがいた。
知らぬはずがない。相見えたのはただ一度、されど忘れようがあるはずがない。
例えるなら体育館ほどの巨体、強力な魔法を扱う為に肥大化した腹部。
既存4種や黒竜とは明確に異質な魔力を纏う、禍々しい気配。
―――そして、右目に突き刺さる不変の聖水剣。
「無数に黒竜を召喚するフォートレスドラゴン、マザーフォートレス」
それだけではない。同様の巨体を水面に沈める敵は、まだ他にもいた。
「サイレントフォートレス、ドライデッグフォートレス、ウィザードフォートレス……揃い踏みだな、作戦決行数日前に終結するとは真面目なことだ」
フォートレスドラゴン4匹。肩を並べ湖の畔に佇む姿は、周囲の造形がミニチュアに思えるほど奇妙だ。
この一頭一頭が、これまで多くの人類を殺めてきた。
一頭でも対処不能なフォートレスドラゴン、更に集まるであろう他のドラゴンまでもが一斉にクルツクルフへと転移したならば。
「皆死ぬ。友人も、家族も、嫌いな奴だって全員死ぬんだ」
ふと、彼女の脳裏に真っ赤な夕日が甦る。
かつて父と共に飛んだ空。父の温もりを背中で感じながら、あの夕日の中で立てた誓い。
「―――ああ、そうか」
イリスがロープを引くと、バルドディの全身に仕込まれていた爆薬が起爆する。
戦略強襲用超音速巡航推進装置との結合部が分解し、空気抵抗に晒され脱落していく。同様に風の障壁が消失し、バルドディは急減速を開始した。
やがて、墜落気味にドシンと着地。湖の側に降り立ち、フォートレスドラゴン達を睨む。
フォートレスドラゴンもすぐにイリス達に気付き、視線を向ける。イリスは長距離飛行用の装備を手早く解除し、直ぐ様身軽な戦闘可能状態へと移行させた。
「戦う理由など、一つしかない」
イリス理解した。理屈ではなく、ひたすら感情的に。
回転式推進装置出力全開。弾けるように再度離陸したイリスとバルドディは、果敢にフォートレスドラゴンへと挑み掛かる。
狙うはマザーフォートレス一体のみ。他は捨て置いて構わない、この個体さえ撃破出来ればクルツクルフ襲撃は阻止出来るのだから。
「そんなの、考えるまでもない」
自らの疑問が言葉遊びでしかないことに、彼女は気が付いた。
答えなど解りきっている。疑問を挟む余地などない、明瞭な答えが。
なぜ戦うのか。そう問われれば、イリスはこう答えるのだ。
「戦うと、決めたから」
彼女がこれまで経験したことのない最も苛烈で困難な戦いが、今火蓋を切って落とされた。




