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今日芽依は部活に行ってみると言っていたので、帰ったら案の定一人っきりだった。暇なので部屋を片付けたが、普段芽依が清潔にしているおかげで、ほとんどすることがなかった。
それにしても暇だ。普段芽依といるときにお互い喋らない瞬間は気にならないのに、今は同じ沈黙がひどく落ち着かない。CDプレイヤーを再生して、もうすっかりお馴染みの、芽依イチ押しの女性シンガーの滑らかな歌声を聴いても、その居心地の悪さは変わらない。いつの間にか芽依が傍にいることが当たり前になってしまったらしい。
本当にすることがないので、芽依と共用の本棚から適当な文庫本を抜き出す。以前芽依に勧められた恋愛ものだ。俺は普段恋愛小説など読まないクチなのだが、何もしないくらいなら読んだほうがマシだろう。そんな軽い気持ちで読み始めたのだが、いやはやこれがまた面白い。主人公の男がヒロインの女に一目惚れするというありきたりな話だったが、主人公の底知れぬ苦悩や迷い――片思いをしたことのある奴なら誰もが共感できるその気持ちを、そっけなく、だがはっきりと表現している。ちょうどしんみりとした雰囲気の曲に切り替わったのもあって、切ない恋の世界にどっぷりと引き込まれた。時間も忘れる程に。
「あっ央芽その本読んでくれたんだあ」
芽依が帰って来たのにも気付かない程に。
「お前、いつ帰って来てたんだ?」
「んー、ついさっきだけど。私に気付かないほど夢中になってたってこと?」
制服の上着をハンガーに掛けながら、嬉しそうに言った。
「まあな」
心得たようにそっぽを向いてやると、芽依は「ありがと」と一言返した。ワンルームしかない部屋なので、お互い着替えるときはこう、見ないようにするしかない。脱衣所すらないので、お風呂に入る時とかうっかり振り返らないようにするのが大変だ。
「もういいよ央芽」
振り返ると、長袖のシャツ一枚にショートパンツというラフな格好をした芽依が、先程まで着ていたブラウスやスカートを丁寧に畳んでいた。スカートのひだに沿ってなめらかに滑る指は細い。
「央芽も何か洗濯するものある? ついでだからやっちゃうけど」
「そう言うと思って、もう今日着てた服は洗濯機に入れてある」
毎日私服なので適当に組み合わせを変えれば一週間洗濯しなくても平気な俺と違って、芽依は毎日同じ制服だ。そう何通りも持っているわけではないので、平日はほぼ毎日こうして洗濯をしている。するのはいつも芽依だが。手際よく洗濯機をセットすると、一日履いたのが嘘みたいにまっすぐ引き伸ばされたスカートをハンガーに掛けた。
「よーし、それじゃあダラダラするぞー!」
宣言通りゴロっと横になった芽依は、頭を俺の膝に乗せた。惜しげもなく投げ出された白い足が眩しい。
「そういやあ今日は部活の方行ってたんだよな。何部?」
「テニス部」
膝枕の体勢のまま顔をこちらに向けてくる。
「あれっ意外。運動できないんじゃなかったのか?」
「そうだけど、友達に誘われたから行ってみたの。うちんとこそんなハードじゃないって聞いたし」
そう言いながらも、芽依の顔にははっきり『ハードだった』と書いてある。思わず笑みがこぼれたのを、芽依が怪訝そうに見上げる。
「それにしても疲れたんじゃねえの?」
「うん。もう全身がパンパン。そうだ央芽、あとでマッサージしてよ」
「別にいいぞ。何なら今からでも」
マッサージは散々姉ちゃんにやらされてたので、手馴れている。
「い、今はダメ! いっぱい汗かいたから……」
「膝枕させといて言うか? 今更だろ」
たった今そのことに思い当たったとばかりに、芽依は気まずそうに目を逸らした。
「もしかして臭う?」
「まあ、多少……」
「……! ごめんね、すぐ離れるから」
慌てて起き上がろうとする芽依を思わず押さえ込んだ。
「いや、別に構わんぞ。臭うけどそこまで不快じゃないから」
「でも……やっぱりお風呂入ってくる!」
芽依はするりと俺の拘束から抜け、風呂場へと駆け込んだ。勢い振り返りそうになったが、衣擦れの音が耳に入り、寸前で押し留めた。危ない危ない。
芽依の風呂は長い。本人はこれでも急いでくれてるらしいが、それでも三十分ほどは風呂場、すなわちセットになっているトイレは塞がれてしまう。この間に晩飯を作ることにする。洗濯に掃除と、気が付けば家事の大半を芽依に取られてしまうので、飯は極力俺が作るようにしている。芽依はそんなこと気にしなくてもいいと言ってくれたが、元々は全て俺一人でやるつもりだったことだ。何もしないのはどうも落ち着かない。……といっても料理自体は芽依の方が上手いのだけど。でも俺にだってそれなりのものは作れる。
あまり手間はかけたくなかったので、簡単に豚肉とネギをオイスターソースで和えながら焼き、炊いておいた白米に乗せる。それだけじゃあ物足りないので、沸騰させたお湯に溶いた卵を入れてすかさず火を止める。固まらないようにほぐしながらコンソメも入れれば、玉子スープの完成だ。
「芽依、ご飯出来たぞ……っと」
料理を乗せたお盆を手に居間に入ると、タオル一枚巻いただけの芽依がそこにいた。てっきりまだ風呂に入っているとばかり思っていたのに。
「――ゴメン」
「いいよ。まだタオルとる前だったし。それより早くそれ置いて向こう向いててくれない? このままじゃ風邪ひいちゃう」
「あっそうだよな。ゴメン」
背中で芽依がふふっと小さく笑った。背中でタオルの落とされる音がする。
「そんなに謝らなくてもいいのに。別に悪いことしてるわけじゃないんだから」
いやまあそうなんだろうけど。でも……まあいっか。芽依がいいって言うなら。
「ん、もう大丈夫だよ」
振り返ると風呂に入る前から着ていた部屋着に戻っていた。テーブルの前にちょこんと座ると「食べよ?」と言ってこちらを見上げてくる。このような角度で見られると毎度思うのだが、どうして芽依の上目遣いは小動物のように可愛らしく、それでいて色っぽいのだろうか? 風呂上がりの濡れた髪とか、紅潮した頬とかも手伝っているのだろうが。
ネギ豚丼(としか言いようがない)は大好評だった。実際俺も食っててこれは美味いと思った。手抜きでここまでのものが作れたのなら上等だと思う。
今は、広げた布団の上で横になった芽依の腰を揉んでいるところだ。触ってみると本当にどこもかしこもカチカチで、どこをほぐすかというより全身をほぐすことになりそうな勢いだ。
「一応訊くけどっ、どこが痛いんだっ?」
力を入れる毎に語尾が跳ね上がる。芽依もおんなじ様子で、一言「全部っ」と言った。
「だろうなっ」
何も喋っていなくても、力を入れる度に芽依の口から息を殺したような声が漏れる。敢えて聞かないようにしながら、腰から背中、肩甲骨と順に上へと移っていく。肩は相当キテいたようなので、他の場所の倍掛けて充分ほぐしてやった。
「ふう……どうだ、他にやって欲しいとこあるか?」
「だいぶスッキリしたよ。あと足だけお願い」
身体を起こして、こちらに足を投げ出してくる。正直何にも隠されていない、この滑らかな流線を描く足に触ることに躊躇われて避けてきたのだけれど、当の本人にお願いされてしまっては逃れようもない。頭の中に山手線の駅を浮かべて、煩悩を吹き飛ばしながら芽依のおみ足をほぐしてゆく。内回り――大崎品川田町浜松町新橋有楽町東京、神田秋葉原御徒町上野鶯谷日暮里西日暮里田端、駒込巣鴨大塚池袋目白高田馬場新大久保新宿、代々木原宿渋谷恵比寿目黒五反田。二周目、大崎品川田町浜松町新橋――。
「はいおしまい!」
山手線を五周くらい回ったところでそう言ってパシンと叩いてやり、切り上げた。
「ふうう、ありがとお央芽ぁ。何歳も若返った気分だよお」
「そりゃどうも。ところで、結局そのテニス部とやらは入るのか?」
ゴロゴロと俺の膝へと転がってきた芽依は、そこで肘をついてしばらく「うーん……」と唸っていたが、程なく顔を上げた。
「やっぱり私に運動は向いてないんだよねえ。ラケットにボール当たんないし、そもそも全くボール見えないし」
「お前目悪かったっけ?」
「両眼一・五」
「お、おう」
両眼一・二の俺でも、テニスより小さなピンポン玉を追うのに苦労しなかった。こいつそんなに酷いのか。
「だから美術部に専念する。毎度央芽の手を煩わせる訳にもいかないしね」
「いや、それは別にいいんだけど――」
「あっ、ちょっと何これ!? すごい!」
芽依は俺のカバンからはみ出した紙切れを引っ張り出した。それは今日、剛史と競って書いた日本地図だ。
「ああ、それは――」
芽依に順を追って、この地図を書く事になった経緯を説明してやった。即興で書いたから雑な仕上がりになってしまったことや、剛史もこれに劣らないものを書き上げたことなどを特に強調して。
「ううん、それでも央芽すごいよ! 私なんて地図見ながらでもこんな上手く書けないもん。もう本物の地図より正確だね!」
「本物は人工衛星のGPSを使って作るんだから、それ以上正確になんてなるかよ」
芽依の妄言に苦笑しながらも、キラキラと目を輝かせた芽依に手放しに称賛されるのは、全身を掻きむしりたくなるほどむず痒く、照れくさかった。
***
思えば、この頃からすでに、俺の芽依への気持ちはある種のカタチあるものに変化していたのだろう。だがこの時点ではまだ気付かなかった。気付けなかった。気付いていたのなら、お互いあんな事で苦しむこともなかっただろうに。
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