7
廃墟。
最初に見たとき、そうとしか思えなかった。のっぺりと存在を主張する灰色のコンクリートの建物が田んぼの真ん中にそびえ立つ光景は、はっきりいって恐怖でしかなかった。夜一人で行けと言われても絶対に行きたくない。
なんてことを隣を歩く芽依に言うと、何も言わず思いっきり手の甲をつねられた。まあ芽依が怒るのも当然で、その廃墟みたいな建物がこれから芽依が三年間通うことになる三北高校なのだ。
「おーい芽依、そんなに怒んなって。俺が悪かったから」
それでもこちらを振り返ろうとしない芽依の腕を思わず掴んだ。
「何よ。別に怒ってなんかないし」
「ん」
俺の視線の先、そこにある満開の桜に気付いた芽依は、ふっと笑みをこぼした。普段外でするような落ち着いた微笑とは違う、何か芽依の身体から漏れたといったほうが近いような笑みだ。
「綺麗……」
「だろ? 怒るのに必死で上に目がいかなかっただろ」
「だっからねえ……もういいや。もう本当に怒ってないから」
「ということはやっぱりさっきまで怒って――いてて! わかった、俺が悪かったから!」
俺の手を離すと芽依は「じゃ、行こっか」と言って、先に歩いて行ってしまった。その背中にもう怒りを感じないことにほっとして、そのあとを追いかけた。
***
やたらと広い天井に鉄柱に囲まれた外壁。三北高校の体育館は、体育館の典型から一寸も漏れない造りだった。新品同様に綺麗、とまではさすがにいえないけど、外見ほどボロさは感じられない。むしろこれぞ体育館、という汗やらワックスやらの混じった臭いが、体育館らしさを助長してなかなかいい感じになっている。
入学式はとくにこれといったこともなく進んだ。俺が高校生の頃は容赦なく寝通していたから定かではないが、校長やPTA会長やらが無駄に長ったらしい挨拶をするのはうちと変わらない。というかこれはおそらく、どこの学校も変わらない暗黙の了解なのだろう。
皆が同じ学ランとブレザーに身を包んでいる中で芽依を探すのはもう不可能だった。芽依のように小柄で肩の下あたりまでの髪を下ろした子自体、数え切れないほどいる。後ろ姿では誰が芽依かなんて確信できなかった。ついさっきまでは。
「新入生代表、挨拶。新入生代表、月野芽依」
「はい」
そう、ついさっきまでは。聞き覚えのありすぎる凛とした声、声と同じようにピシッとまっすぐな背中。間違いない、芽依だ。と認識する頃にはもう、芽依は舞台の中央に立っていた。頭を下げると横髪がはらりと月見大福のような頬にかかる。その髪をさりげなく耳にかけると、手元の原稿をほとんど見ることなく入学しての決意や期待などを簡潔に、けれども冷たくならない範囲で述べた。
マジかよ、と思わず呟いた。芽依は新入生代表なんて大役をやるなんて一言も言ってなかった。それどころかあのスピーチの内容を練習してる素振りすらなかった。
あたりからチラホラと「あの子可愛くね?」「俺マジタイプだわ」という声が漏れ聞こえる。芽依ほど可愛ければ男が食いつかないはずがないと頭でわかっていながら、腹ただしく落ち着かない気分になるのを抑えることが出来なかった。
「――と思います。新入生代表、一年一組、月野芽依」
一度もつっかかることなく締めた芽依に、会場中から割れんばかりの拍手が溢れた。最後の最後で俺に気付いたらしい芽依が、照れたようにはにかんで見せた。その一瞬の表情で何人の男が落とされたかと思うと気が気ではなかったが、やはり素直に、芽依がこの人の中で俺に気付いたということが嬉しかった。
***
「いやあびっくりしたよ。まさか芽依が全校の前でスピーチをするなんて」
式やもろもろが全て終了し、今は二人で昇降口から下駄箱までの桜並木を歩いている。たった五メートルほどだが、それでも暗く見えがちな校舎を華やかに魅せるには充分すぎる美しさだ。惜しむらくは、相も変わらず吹き付ける強風によって、次々と桃色の花びらが散ってしまうことだ。数日暮らしながらここら辺はこれくらいの風が普通だという感覚には大分慣れてはきたが、こういった光景を見ると少なからず残念に感じる。
「そりゃあ誰にも言ってなかったもん。言ってたら何としてでも見に来ようってなっちゃうでしょ? 私の周りの人たち」
「なるほどな。じゃあ本当は俺にも来て欲しくなかったわけだ――っと」
横から伸びてきた手から逃れる。三度も同じ手は食わない。
「央芽はいーのっ」
伸ばしかけた腕を気まずそうに引っ込めながら、芽依はぶっきらぼうに言った。
「きゃっ」
ひときわ強い風が吹き付けた。周りの女子高生と同様、芽依は反射的にスカートを押さえる。それが一瞬遅れていたような気がしないでもなかったが、勢い目を逸らしてしまったのでどうだったのかは知る由もない。少し残念な気持ちになり、そしてそのように感じてしまった自分に罪悪感を抱いた。芽依相手に俺は何を考えているんだ。
「あはは、今のは強かったね」
俺の気持ちなど全く知らないであろう芽依は、あっけらかんと笑いながら髪を整えようとする。その手を思わず掴んだ。
「へっ……何?」
「いいからじっとしてろよ」
「う、うん」
いつもと違う俺の様子に芽依はすっかり身を固くしてしまっている。そんな彼女に構わずおもむろに近付き、そして――。
パシャッ
「ほら、見てみろよ」
ついさっき写真を撮ったスマホの画面を芽依の鼻先に持っていく。
「――そういうこと」
「そういうこと。髪飾りみたいだろ?」
「うん」
画面には、桜の花びらを頭につけて上目遣いで不安げに見上げる、とっても可愛い女の子が写っていた。
***
「いらっしゃいませーっ!」
元気な男性の声が店中に響く。それは厨房の中だったり、ホールのあちらこちらだったりだが、とにかく幾人かの男の声が混ざるととんでもない声量だ。
俺たちは三北高校のすぐ傍にある、中華料理専門のファミリーレストラン『天津亭』に来ていた。丁度昼飯時で俺ばかりでなく芽依までも限界までお腹を空かしていて、とても家までもたないからだ。
座敷とカウンターに別れていたが、俺たちは座敷を選んだ。俺が上着を脱ぐのに倣って、芽依も紺色のブレザーを腕から抜いた。白いブラウスに赤いリボンが結ばれただけの姿はどこか頼りない。夏はもっと薄着だろうに、何とも不思議な感覚だ。
「はあぁ、落ち着くー」
芽依は白い足を惜しげもなく投げ出す。普段家以外ではそんなだらしない姿を見せないので、珍しいことだ。俺は思わず目を逸らした。
「おい芽依。流石に外でそれはまずくないか?」
「えっ何が?」
自覚なしかよ。
「そのさ、スカート短いんだし、危ないんじゃないかなって」
「――ふぅん」
「何だよ」
芽依は両膝を立てて体育座りのような体勢になり、こちらに身を乗り出してくる。そのまっすぐな瞳に思わず見入ってしまう。……というよりは、下に目を向けないよう必死に芽依の目を見つめた。
「おい――」
「外では、ってことは家ではいいってこと? 央芽も見かけによらずエッチだねえ」
「なっ!?」
「ふふふふふ」
目の前で芽依が軽やかに笑う。軽蔑するような響きがないことに一安心。だけどこの状況はヤバい。芽依は多分――というか絶対気にもしてないだろうが、男にとって女の子が体育座りで身を乗り出してくるというのは精神衛生上とてもヤバい。何がヤバいってはらりと頬にかかる横髪とか吸い込まれそうな瞳とか柔らかそうな唇とか……あとは視線を落とせば膝に押しつぶされた胸とかあらわになった太ももとか。挙げていったらキリがない。全くコイツ、無駄に整ったプロポーションしやがって。目のやり場に困る。
「お客サマ、ごっ注文お決まりデショウカ?」
中国人らしい、独特なイントネーションの店員が、メモと鉛筆を手に俺たちの顔を交互に見た。俺的には助かったが、世間一般で考えたら相当間が悪いんじゃないか? この人。
「俺は……このラーメンと炒飯のセット。芽依は?」
「私はねえ、天津飯と……あと餃子」
それだけ告げると、事も無げに座り直す。あんなことされた後だと普通のアヒル座りでさえまともに直視できない。全く余計なことしてくれやがって。
「わっかりました。少々お待ちクダサイ」
手元のメモにゴチャゴチャと書き込むと、店員は厨房へと入り込む。オーダーを通す声がここからでもよく聞こえる。
「それでさあ、今日隣の席の子と喋ったんだけどね――」
芽依はいつも通りの調子で話しかけてきたが、俺はずっと空返事しか出来なかった。
***
「美味しかったねえ央芽」
「そうだな」
天津亭の料理は、極上の味とまではいかなくても、どれも無難な味だった。特別舌が肥えた人でなければ、普通に美味しいと感じるだろう。ボリュームも申し分なく、これで二人合わせて千五百円もかからないのだから、俺たちのような食い盛りの貧乏学生にはうってつけだ。
食い盛りといえば、ここ数日で驚愕させられたのが、芽依の食べる量だ。小柄でほとんど運動しないにもかかわらず、芽依はほとんど俺と変わらない量を食べる。さっきだって天津飯と餃子だけでは飽き足らず、俺の炒飯を半分ほど奪っていった。これで全然太る気配がないものだから恐ろしい。一体コイツの食ったものはどこに消えたというんだ。
「ねえ央芽」
「何だよ」
「まだ怒ってるの?」
つり目な芽依には珍しく目尻を垂らして、下から覗き込んでくる。さっきからぶっきらぼうな返事しか返してないからそう思ったのかもしれないが、実際俺は怒っていない。からかってきたことも、勝手に炒飯を奪ったことも。ただ、芽依のことを漠然と妹のような存在としか考えていなかったので、完璧に女を見る目で見てしまったことが気まずいだけだ。ただいつまでも気にしていたって、芽依を不安にさせてしまうだけだ。俺は気まずさを払拭するかのように、鼻をしかめて距離を置いてみせた。
「うっわ、餃子臭っ。寄るな寄るな」
「えっ嘘!?」
「ホントホント」
芽依は口を抑えて俯いてしまった。ヤベ、流石にイジリ過ぎたかも。
「むう……でも寄るなはヒドくない?」
「ははは、嘘だよ。お前の口からは薔薇の香りしかしねえ」
「それは逆に嘘くさいなあ」
それでも芽依は顔を上げ、ニッコリと笑ってみせた。俺の好きな、クールな外見からは想像もつかない、あの柔和な微笑みだ。
「央芽の大学って、私の高校よりもうちょっと先のとこだったよね?」
「そうだけど、何で?」
くすぐるような微風が俺たちの間を通り抜ける。膝上くらいの丈の芽依のスカートが、太ももを垣間見せる程度に浮き上がる。
「時間の合うときはさ、一緒に学校行かない?」
同じところに住んでいるのだから、何もわざわざ了承を得なくだって。別に流れで一緒に出ればいいものを。そんなことを改めて言う芽依がいじらしくて、思わず笑みが溢れた。
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