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「うわあ……格好いいねえ」
「そうか? ありがと」
そう言われてもやはり、自分ではどうも不自然に感じてしまう。喉元までぴっちりと閉じられたシャツに追い打ちを掛けるかのように締め上げるネクタイ。さらに黒い上着を羽織ってしまうと、春先だというのにさっそく汗ばんできた。
今日は大学の入学式だ。着たくもないスーツを着て、つまらない儀式に参加する。それでも自然と心が踊ってしまうのは、やはりこれから苦楽をともにする学友とのファーストコンタクトだからであろう。
俺が支度をしている間に芽依は布団をたたみ、洗い物までしてくれた。元々芽依が使っていたというピンクのもこもこした毛布を見ると、一昨日本格的に越してきた日のことが鮮明に蘇ってくる。
「さてと、これで大方の荷物は片付いたかな?」
俺の部屋から持ってきた折りたたみ式の本棚を組み立て終わったところで、服をより分けている芽依に呼びかけた。
「うん。こっちの服もあと少しで終わるし、あとは――」
芽依が見つめた先。見なくてもわかる。そこにはそれぞれの家から持ち出した布団が積まれている。スペース的にひとつ敷くのが限度だ。
「ま、無理なもんはしょうがねえわな。俺は床で寝るから、この布団も実家に送り返すわ」
布団が置けないにしても、人ひとり横になるくらいのスペースならなんとか確保できる。幸いにも床には芽依の部屋に敷いてあったという毛皮のカーペットがあるし、寝れないことはないだろう。
「でも、流石に申し訳無さ過ぎるよ。私の方が無理やり転がり込んだのに、寝床まで奪っちゃうなんて。そうだ、私が床で寝るよ。だから央芽がお布団使って?」
「ばーか。出来るわけないだろ、女の子を床に寝させるなんて」
「むー……じゃあ――」
一緒に寝る? と聞いてきた。この男というものの怖さをを全くわかっていない大馬鹿野郎は。
当然無理やりこちらの主張を押し切って、俺は二晩床で過ごした。予想以上にカーペットが薄くて身体の節々が痛くなったが、だからといって同じ布団で寝るのは色々と危うい。ただでさえ手を伸ばせば届く距離で芽依が寝ているという、その事実だけでも俺の頭は煩悩でいっぱいになるというのに。
呼び鈴に応えた芽依が扉に向かう。相手がわかっているとはいえ、いきなり開けるのは不用心すぎる。慌てて立ち上がり芽依のあとを追う。開口一番、兄ちゃんと姉ちゃんが俺のスーツ姿に吹き出した。
***
入学式には俺の家族だけでなく、芽依も一緒に来た。レース地のシャツの上から紺色のカーディガンを羽織い、膝が見え隠れするクリーム色のスカートを履いている。元々大人っぽいのにそういう大人な服装をすると、正直俺より年上に見えかねない。とはいえヒールで歩くのに四苦八苦するあたり、年相応の幼さが垣間見えるが。
会場に入ると新入生と保護者とで席が別なので、芽依が手を振るのに応えながら俺は一人、一番前の方へと向かった。そこには同じ地理学科に属すであろう奴らがちらほらといた。高校以前からの知り合いなのか、やけに親しげに語り合っているもの。周りに知り合いがいないのか、一人気まずそうにキョロキョロと視線を泳がせるもの。当然一人県外から来た俺は、後者になる宿命だろう。誰とも隣り合わせにならず、かといって極端に周りから離れていない適度な席を探そうとした。だが真下から、どこぞの声優だと思わせるような、渋くてよく通る声が響いた。
「なあお前、ハンメル図法って何だ?」
一瞬誰が言葉を発したのかわからなかった。というのも、そこにいたのは目がチカチカする刺々しい茶髪でいかにもチャラそうな男と、もう少し落ち着いた茶髪を跳ねっ毛一つないボブに落ち着かせている女しかいなかったからだ。当然声の主はツンツン男だという結論に落ち着くまでの間に、彼の求める答えはすでに出来上がっていた。
「地図投影法の一つで、モルワイデ図法に似ていて楕円形の地図になるやつ、じゃないか?」
ちなみにモルワイデ図法との違いは、全ての緯線を平行に引かないことだ。
「――お見事」
「うわああ、スゴイねあんた。一瞬で答える奴なんか初めて見たわあ」
声だけは渋いツンツンは不敵に口の端を上げ、女はやたらとデカイ声を上げた。この女が落ち着いているのはどうやら髪の毛だけらしい。
「俺は宮島剛史。同じ学部なんだし、これから仲良くやってこうな」
ツンツン――もとい剛史が、ニカっと笑って右手を差し出してくる。チャラそうに見えて、気さくなイイ奴なのかもしれない。
「和久央芽だ。こちらこそよろしく」
俺も微笑み返して、そのゴツゴツした手を強く握った。
「あっアタシは松村知遥。タケとは家が隣の幼馴染なのー」
そう言って乗り出してくる茶色い頭を、剛士は容赦なく押しのけた。
「まあこの腐れ縁のバカもついでにヨロシク」
「ひっどーい。バカはないでしょバカはぁ」
「ハルほどバカという言葉が似合う奴、この世にいないだろ」
知遥の顔が醜く歪み、般若を連想させられる。なんて呑気なことを考えている間に、剛史の胸ぐらに掴みかかっていた。
「はあぁ!? お前もういっぺん言ってみろこの野郎!」
「何だ、図星だから逆上したのか?」
何だと、と反論しようとしたが、それこそ剛史の思うツボだと気付いた知遥はそれを飲み込んだ。正直部外者の俺ですら震えを覚えるほどの恐怖だったのだが、剛史は涼しい顔でスマホを取り出して、画面に指を走らせた。とりあえず俺は、この知遥という女を怒らせないよいにしようと密かに誓った。
***
ハゲ頭の学長とやらが舞台に出てきたところまでは覚えていたが、それから気が付いたらもう閉式の辞が述べられているところだった。まあどんなことがあったかなんて、俺より前にぐっすりと眠っていた剛史や知遥に聞くだけ無駄だろう。
地元出身という剛史と知遥繋がりで、他の学生とも少し言葉を交わした。全然名前は覚えられなかったけれど、それはまあ、追々覚えればいいだろう。三人で会場の外に出ると、ちょうど芽依たちに出くわした。
「あっ央芽――とお友達?」
「ああ、同じ学部の奴らだ。こいつは月野芽依。俺の従姉の娘だが、歳は三つしか変わらない」
後半は剛史と知遥へと言った。二人とも各々自己紹介し、そして剛史が俺の肩に腕を掛けながら(というかいささか首を締め上げながら)、耳元で興奮して捲し上げた。
「なあおい、むっちゃ可愛いじゃん芽依ちゃん! なあなああの子彼氏とかいるのか?」
そんな無粋なことを訊きながらも声だけはイケメンだから無性に腹が立つ。
「さあ。そのテの話はしたことないからなあ」
そう言い訳して奴の拘束から逃れる。俺よりガタイのいい剛史に締め上げられると、冗談ではなくて死にそうになる。実際はちらりとそんな話をしたことがあるが、そんなこと言ったら根掘り葉掘り訊かれるのは目に見えているので黙っておく。
「へえぇ、三北高校に通うんだあ。アタシとタケも三北高出身なんだよー。あっじゃあ入学式は明日?」
「ええ、そうです」
芽依は知遥に笑顔で返しながらも、ちらちらとこちらを伺っている。大人しい芽依では知遥のテンションに終始押されっぱなしなのだろう。
「そういや芽依、うちの親たちは?」
「何か静岡来たからにはさわやか行かないと! って言って帰っちゃった」
俺に喋りかけられて芽依は、救われたかのように表情を崩した。さわやか、とは静岡を中心に展開されるハンバーグ専門店で、何だろう。まさに肉! って感じのハンバーグが出てくる。俺と芽依は一昨日の晩、さっそく行ったところだ。
「じゃあ俺らも適当に食うか。じゃあな二人とも」
飯まで一緒に行きかねない二人に先手を打つようにそう言うと、流石に食い下がってくることはなかったが、少し寂しそうにじゃあねと言うものだから、少しだけ罪悪感を感じる。だからってやっぱり一緒に行こうと言い出そうとは毛頭思わなかったが。何故そこまで嫌だと思うのかは自分でもよくわからなかったが。
***
昼飯は芽依が作ることになった。何でも器用にこなす芽依からは想像もつかなかったが、芽依は料理が出来なかった。いや、出来ないというのは語弊を生むか。手つきは決して危なげなどないのだが、ほとんど料理をしてこなかったという芽依に、料理のレパートリーは皆無だった、というだけだ。そんなわけで芽依が何かを作るときは、常に料理本とのにらめっこだ。それでも毎度美味い料理が出てくるのだから、センス自体はあるのだろう。え? 俺はどうかって? 炒飯が限度だよ。
芽依を待つ間にラフな格好に着替える。胸元が開放的になり、自然と息が抜ける。何もすることがないので、芽依が持ってきたというCDから適当に一枚とり、プレイヤーに入れる。誰が歌っているのかはわからないけれど、とても透き通っていて、心の奥底をグッと握られるような、そんな不思議なソプラノが部屋の空気を優しく包み込む。芽依の凛とした声もけっこう好きだが、この女性シンガーの歌声はまた違った意味で魅力的だ。
「なんだ、もうスーツ脱いじゃったんだ。残念」
昼飯を載せたお盆をテーブルに置きながら、芽依が口を尖らせた。俺の前でしかしないこの子供らしい顔が、結構好きだったりする。
「そりゃあ息苦しいったらありゃしないし。それとも何、着替えるとこでも見たかったの?」
「ちっ、違うわよ! もう少しスーツ姿の央芽を見てたかっただけ」
こっちを軽く睨みながらてきぱきと料理を並べる。今日はオムレツの乗った焼きそばのようだ。こんな綺麗な半熟のオムレツ、俺にはどう頑張っても作れっこない。いつも固まってしまうか、スクランブルエッグになるかだ。
二人でいただきます、と言って手をつける。オムレツだけでなく焼きそばも、もちもちした麺にソースが程よく絡んでいて、なかなかの絶品だ。
「うん。美味い」
「ありがと」
それきり黙りきってしまい、麺を啜る音と美しいソプラノのみが場を支配する。だが不思議と居心地が悪いとは感じなかった。むしろその逆だ。沈黙が気持ちいいだなんて感覚、初めて知った。
ものの二、三分で平らげてしまうと、まだ三分の一ほど残っている芽依を一瞥してから、キッチンへと入った。食器を流しに置き、水につけておく。そうしてから俺は、冷蔵庫の中から牛乳のパックと果汁百パーセントのオレンジジュースを取り出し、白いマグカップにそれぞれ注ぐ。牛乳が俺で、ジュースが芽依だ。
「あっありがと央芽」
答える代わりにカップを掲げて、そのまま一気に牛乳を飲み干す。コップも流しに置いてから、再び腰を下ろす。
「そんなによかったか?」
リスみたいにパンパンに頬を膨らませた芽依は、慌ててオレンジジュースで飲み込む。
「んっ……スーツのこと?」
「ああ。家族みんなに似合ってねーって馬鹿にされたし、正直俺も、どうもちんちくりんに思えちゃって――」
「私はね、」
「うん?」
芽依はティッシュで丁寧に口を拭って続ける。
「私はスーツの央芽、いつもと違ってピシッと引き締まってて、カッコイイなあって素直に思ったよ?」
なっ……そんなこと真顔で言われると、聞いといてあれだがとってもこそばゆい。
「それって普段の俺はピシッとしてないってことかよ」
「うん、してないねー」
「…………」
「普段の央芽はピシッていうよりはふわって感じかな?」
「――それって褒めてんのか?」
「うんうん、褒めてるよー」
そう言って笑う芽依の目には、からかうような色が透けて見える。なんだってコイツは俺に対してだけこんなに強気なんだ? それもこの笑顔を目の前で見せられると、どうも怒る気が失せてしまう。全くタチが悪い。
「そういえば芽依んとこは明日入学式だったっけ?」
「うん、そーだよ」
「ふぅん。じゃあ俺も行こっかな」
「えっいいよぉ来なくて。第一央芽学校あるんじゃないの?」
「んいや、明日は休み」
明日は科によってはオリエンテーションがあったりするらしいが、俺んとこは明後日やるので、明日は丸々休みだ。
「でも、来たって暇なだけだと思うよ? それだからお母さんたちが来るっていうのも断ったのに」
「まあ真知ちゃんは普通に学校だしな。何より俺は、芽依の制服姿を思う存分見てみたいんだよ」
「――っもう。バカ」
そう言ってそっぽを向いてしまったが、その声は心なしか嬉しそうだった。
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