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この間の不吉な予感は何だったのかと思うほど、何事もなく充実した日々を送っている。芽依も別段気にした素振りを見せないばかりか、慣れない運動をして疲れている俺の身体をいたわってくれる。四月のお返しにとマッサージをしてくれたのだが、正直力が弱すぎて身体はほぐれなかった。でもあれは、芽依の小さくて暖かい手で触れられて、気持ちよかった。
「なあ央芽、今日もサークル行かね?」
「ああ、いいよ」
例のバドミントンサークルは、毎週金曜日に第一体育館を借りて活動している。参加は強制ではなく、行きたい時に行くというスタイルだという。こういうルーズな感覚は大学ならではなんだろうか。そもそも俺に至っては、入る際の手続きを一切していないから、正式な成員でさえないし。
「ああそうだ央芽。今日は地理科の連中で飯行くって話出てるけど、お前来るか? ていうか来い」
「強制かよ。わかったよ」
まだ芽依も晩飯の支度をする時間帯じゃないし、大丈夫だろう。そう思ったけど、電話でそのことを伝えたとき、心なしか芽依の声が寂しげだった。電波の関係でそのように聞こえただけかもしれないが。
その日バドミントンサークルに来た地理学科の連中は、俺や剛史、知遥を含めて六人。丁度男子三人女子三人なのだが、その中でも松井って奴と森永って子は、地理学科一年で幸先よく成立したカップルである。六人で食事に行ったといっても、自然とその二人で喋っていることが多くなる。そして剛史と知遥は、安定の夫婦ぶりだ。となると、手持ち無沙汰な俺は、もう一人居心地の悪そうな女の子と喋る機会が増える。眼鏡をかけて長い黒髪を二つで縛った、大人しそうな子。名前は――なんだったかな。あまり印象がないから覚えてないや。まともに喋るのだって、今日が初めてだ。
「じゃあ和久さんは東京で暮らしてらしたんですか。私都会って憧れなんです。羨ましいですね」
眼鏡少女が、レンズの奥の瞳を輝かせてそう言った。その純粋な瞳からは、全く嘘がつけなさそうな印象を受ける。
「そんな大したことはないぞ。人はごちゃごちゃしてるし、人情もあんましないし。むしろこっちの方が、適度に田舎で過ごしやすいんじゃないかな」
「そうなんですか。やっぱりこういうのって、無い物ねだりなんでしょうかね?」
「そーなんじゃない。それとさ、ええと」
「渡辺です」
「渡辺さん。俺ら同い年なんだし、別に敬語使わなくても」
さっきからずっと気になっていたことを指摘する。敬語を使われるのは、どうもその人と距離を感じてしまうので苦手だ。
「ああ、和泉なら誰に対してもそんな感じよ。昔っから」
横から声をかけたのは、カップルの片割れ、森永さんだ。二人が中学から一緒だったということは、六人で集まってすぐに聞いている。
「私も最初は慣れなかったんだけどね。でもなんか、逆にこの子に合ってると思わない?」
「あーそれわかるわー。和泉ちゃんって、深淵のお嬢様? みたいな雰囲気あるじゃん」
「だらあ。流石まっちゃん、わかってるう」
バカップルが再び二人の世界に入ってしまうと、俺らはまた二人で取り残された。というか剛史と知遥はまだ二人で喧嘩してんのかよ。本当仲良いな。これで付き合ってないんだから、驚きだよ。
「私たち、取り残されてしまいましたね」
渡辺さんも俺と同じ気持ちを口にした。大人しいが決して暗いわけではなく、素朴な暖かみがにじみ出ている。ある程度喋ってみると、敬語を堅苦しくは思わなくなった。不思議な子だな。
結局この日はほとんど渡辺さん――和泉と喋っていた。
このように、俺は徐々に大学の友達と遊ぶ機会が増えた。剛史と知遥以外にも親しい友達も増えた。和泉は物静かな見た目にそぐわず天然なところがあるし、ただ騒がしいだけだと思っていたバカップルの片割れの松井――まっちゃんはあれでいて繊細な一面があり、傷つきやすい。森永は気さくなだけではなく、結構Sな一面があって、しれっと挟まれる毒舌にはよく心を抉られる。まあ、大概被害者はまっちゃんなんだけど。
だがそれに比例して、俺が芽依と過ごす時間も減っていった。芽依も金曜についてはサークルがあるからと割り切っているみたいだが、他の日に帰りが遅くなると電話したときには不機嫌な声を隠さないようになった。それでも、帰ってみると全くいつも通りの芽依が笑顔で出迎えてくれる。それが嬉しくもあり、少し怖くもあった。
その均衡が崩れたのは、梅雨らしさが少しずつ薄れゆく六月の下旬、知遥との約束も残り一回となった時だった。
***
『央芽はサークルだよね。私、今日は友達の家に泊まるから』
珍しく芽依の方から電話がかかってきたと思うと、そう告げられた。これまで芽依は、部活で帰りが遅くなることはあれど、外泊は一度もなかった。というか俺もない。こういうと大げさかもしれないが、今までどんなに帰りが遅くなろうとも外泊をしない、同じ布団で一緒に寝るというのは暗黙の了解になっていたと思う。それは関係が変化しても、喧嘩をしても変わらなかった。だからだろうか。何か納得がいかない。だからって止めるほどの強い理由があるわけでもないけど。別に浮気してくるってわけじゃあないんだから。
「それって、女だよな」
一応念押しはするけど。
『当たり前でしょー。いつもの女の子三人グループだよ』
「いつもの、って言われても俺知らんし。でもうん、わかったよ。羽目外さない範囲で楽しんでこいよ」
『もう、こういう時ばっか年上ぶって』
「むしろ普段から年上ぶらせろよな」
『えーやだよー』
電話の向こうで芽依がからかうような笑みを浮かべているのが、声の調子で充分に伝わってくる。俺の表情は――伝わってないといいな。
『じゃ、そういうわけで。明日の朝には帰るから。そしたら一緒に買い物行こーね』
「ああ。じゃあな」
『うん。また明日』
そう言って電話は切られた。『また後で』じゃなくて、『また明日』。そのたった一言の違いが、とてつもなく心に引っかかる。
こういう日に限って、サークル後の食事会がなかったりする。帰っても芽依がいないのはわかっていたので、今日は晩飯も一人だ。ここ最近外食も増えてたし、ここは自炊した方がいいかな。
思えば、本当にこの生活を始めてから、芽依の手料理ばかり食べてきたな。もうじき二人暮らしも三ヶ月になるんだ。もう三ヶ月。まだ三ヶ月。早いような、遅いような、よくわからない気分だ。春に芽依と再会して、二人暮らしをするようになって、関係も一歩上のものになって。あっという間だったけど、全てが凝縮された、かけがえのない時間だ。それがずっとこのまま続く――なんていうのは、やっぱり幻想なのだろう。俺も芽依も、時と共に変化し、成長する。今まで通り同じだなんてことは、ない。それがわかっていながらも、割り切れずにいた。
久しぶりに一人で使う布団は、広くて、そして冷たかった。
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