12
朝起きると、いつも通り芽依が台所に立っていた。
「おいおい、寝てろって。まだ本調子じゃないだろ」
「大丈夫よ、もう」
振り返った芽依の顔はまだ赤い。
「いいや、お前の大丈夫がどれだけ信用できないかは今回のことでよぉーくわかったからな。心配せず寝てろ。お前の担任の、ええと――」
「野木先生?」
「うん多分そう。その人にも今日はゆっくり休ませろって言われてるし」
「ふぅん。あの人ああ見えて神経質だからなあ。別にもう大丈夫なのに」
あの人? 出会って数日の教師にしちゃあ、馴れ馴れしくないか?
「大丈夫なわけねえだろ! 寝てろ!」
言ってからハッとなった。芽依に向かって、それもいつもより弱っているときに限って感情のまま怒鳴ってしまうなんて。
「――ごめんね央芽。ごめんなさい」
コンロの火を止めた芽依は、大粒の涙を流しながら、ただひたすら謝ってくる。そんな芽依を目の当たりにすると、さっき不意に沸いたどす黒い感情など罪悪感の下に押し込められてしまった。思わず頭を抱き寄せ、ひたすら慰めた。泣かせたのは俺自身なのに、本人が慰めるだなんて変な話だ。
「俺こそゴメン。何か最近余裕なくなっちゃって」
「あれもそういうこと?」
「ん?」
「――何でもない。じゃあ大人しく寝てるね」
俺の胸を突き飛ばすようにして離れ、そのまま布団へと潜った。
「うどんくらいなら食えるか?」
布団の隙間からわずかに飛び出した後頭部に呼びかけると、くぐもった返事が返ってきた。
***
本当は今日も大事をとって学校を休むつもりだったが、芽依があまりに強く行くように言うものだから、結局出てきた。まあ家事は全部片付けてきたし、昼も簡単なもので済ませると言っていたからよっぽど大丈夫なんだろうけど。しかし――。
思わず唇に手をやった。昨日の感触を一寸違わず思い出せる。何故あんなことをしてしまったのか、未だに全くわからない。一つだけ言えることは、芽依の唇は、柔らかくて、そして――って何を考えてんだ俺は! 芽依の唇が何だろうと関係ないじゃないか。あれは、そう。単なる事故なんだ。事故。そう考えようとしても、芽依にキスしてしまったときの、あのどうにも落ち着かない、切羽の詰まったような気持ちに説明がつかず、モヤモヤするばかりだった。
別に女の子とキスするのは初めてではない。高校の頃は三人の女子と付き合ったし、そのうちの一人とは一線を越えることさえあった。結局その子とは高校卒業の際に別れたが、特に未練はなかった。その程度の気持ちだったのだろう。忘れることが得意なのもある。だが芽依の唇は今までのどの子よりも違って、特別なものに感じた。何故だかはさっぱりわからない。だが何となく、このことは絶対に忘れられないだろうという、確信に近い予感があった。全く何であんなことしたんだろうか。答えの出ない堂々巡りを、ただ繰り返すのみだった。
***
一限目は、文学の講義が入っている。内容は高校までの古典でやったような、古代から中世にかけての日本の文学作品をざっと解説するだけだ。知識としてはすでに知っていることがほとんどだし、レポートさえ出せば単位ももらえる。そう聞いて俺はすぐこの講義を取ることを決めたが、しかし実際に取る者は少ない。というのも別に文学を取らなくても単位数は充分だし、それなのにわざわざ一限から来ようとするもの好きはそうそういない。俺はそのことを知らなかっただけだが。俺が教室に入って間もなく、数少ないもの好きの一人である知遥が隣に腰を下ろした。
「ひっさしぶりー和久君。もう風邪大丈夫なのー?」
「ああ。心配かけたな」
当然剛史はそのもの好きに該当しないので、今頃惰眠を貪っていることだろう。そう考えると無性に腹が立ってきた。そんなの毎週のことだけど。
「――ホントに大丈夫?」
普段とはトーンの違う知遥の声に、思わず向き直った。珍しく笑いを浮かべていない知遥の、真摯な瞳で刺すように見つめられている。コイツこういう表情してると、結構美人なんだな。芽依とは違って、尖った、どこか挑戦的な類だが。
「何か今日の和久君、どことなく上の空って感じだけど」
「そっか?」
「うん。アタシでよかったら聞いてあげてもいいよ。吐き出したら案外スッキリするかもだし」
「――俺まだ何かに悩んでるなんて一言も言ってないんだけど」
「言ってないってことは、本当に悩み事があるってことだよね」
しまった。墓穴掘った。
「全く、タケもだけど、アンタも大概ね」
「何がさ」
「分かりやすすぎ。気付いてないだろうけど、考えてること全部顔に書いてあるよ」
思わず溜息が漏れた。コイツには敵わないということか。
「じゃあ正直に言うけど、笑うなよ」
「りょーかいっ」
俺は相手が芽依であることを伏せて、一部始終を知遥に聞かせた。途中までは真剣に聞いてくれていたが、何故キスしてしまったのかわからない。と言ったところで顔をタオルに埋め、思いっきり肩を震わせた。
「おい、約束が違うぞ」
「アハハ、ゴメンゴメン。和久君って見かけによらずピュアなんだね」
「ピュ……っ、はあ? んなわけねえだろ」
「ホントにぃ? 芽依ちゃんのこと好きだって自覚ないくせにぃ?」
ちょっと待て。
「何でそこで芽依が出てくるんだよ?」
知り合いの女の子としか言ってないのに。
「えっだってそれ芽依ちゃんのことでしょ」
「まあ……違わないことは、ないけど……」
「ほれみろ。アタシに隠し事出来ると思うなよ?」
そうさらっと言って前へと視線を向けた知遥は、ホワイトボード全体に敷き詰められた板書をスゴい勢いでノートに写し始めた。どうせ書いてある内容は、古事記は神話であるとか万葉集は何年に作られたとかいった、当たり障りないことばかりなのに。
「やっぱそれは違うって。芽依は親戚なんだぞ。大事な妹くらいの気持ちだって」
「じゃあ訊くけど、和久君は妹にキスするの?」
視線も手も講義に集中しながらも、口と耳の注意は俺に向けられてるらしい知遥に、すかさずそう突っ込まれた。まさにそのことが突っかかっている物の大元なので、俺は何にも返せなかった。
「しないでしょ。もし和久君に妹がいたとして、その妹にキスをしたっていうなら、それは間違いなく異常なことだよ。もしそうだとしたら全力で軽蔑する」
「おい、俺はそんなことしねえよ。そもそも妹なんていないし」
芽依のことは妹のように可愛がってきたが。(むしろ芽依にリードされることも多かったけれど)
「もしもの話だよ。でも芽依ちゃんは和久君にとって、従姉の娘なわけでしょ? 四等親も離れてるんだよ。法律的には結婚も出来るんだよ」
「けっ……バッカ、何言ってんだよ」
「これももしもの話ですよーだ」
一通り板書が終わった知遥は、こちらに振り向いて舌を出してみせた。
「てめえ……きったねえもん見せんなよ」
「きたないとか酷いねえ。これが芽依ちゃんだったら鼻の下伸ばすくせに。いや、鼻血が止まらなくなるかな」
「お前と芽依を同列に見ることがそもそもの間違いだ」
知遥は舌をしまい、鋭い目つきで睨んできた。また板書が溜まってってることなどまるで気付いていないようだ。
「あのねえ、アタシだって一応女の子なんだよ? 和久君にそこまで言われたら、さすがに傷つくよ」
「――ゴメン」
確かに言いすぎた。相手が知遥だと、どうも遠慮がなくなってしまう。女の子と話しているというよりは、男友達と話しているような気分になってしまうのだ。
「しっかしそこまでムキになるなんて、よっぽど芽依ちゃんにお熱なんだねえ」
「うっさいわ」
前言撤回。やっぱり知遥の扱いはこれくらいでいい。なじるようにニヤニヤした知遥に腹が立って、思わずそう誓った。
感想、批評等くださると嬉しいです。




