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寒い。外が、というより身体の内面が寒い。そして何より、とてつもなくだるい。とても身体を動かす気になれない。クソッ、何なんだよ一体――?
「風邪だね。これは」
額に当てられた芽依の手が、冷たくて気持ちいい。芽依は溜息をついて、俺から手を離した。
「だから昨日あれほど言ったのに」
「いやだからって、流石にそれは――」
「でもこうやってぶっ倒れてたら本末転倒じゃん!」
芽依の言っていることは全て正論なので、何も言い返せない。いやでもなあ、流石に本人がいいって言ったとしても、同じ布団で寝るのはまずいだろう。たとえ昨日が季節外れに冷え込んでいたとしても。
「まあ、風邪なら一日休んでりゃ治るだろ。俺は大丈夫だから、芽依は学校行きなって」
まだ入学して一週間も経っていない。このタイミングで休むのは出来る限り避けるべきだろう。何しろ、これからずっと付き合うかもしれない友達を作るチャンスをひとつ失ってしまうのだから。だが芽依は動こうとしなかった。
「央芽。央芽は自覚ないかもしれないけど、相当な熱だよ。こんな重症患者、一人で置いてけるわけないでしょ。第一今の央芽にご飯作れるだけの気力ないでしょ。食べなきゃ治んないんだからね」
「で、でもお前に感染っちゃったりしたら――」
「そんなのいちいち気にしないの! それに感染るんならもう手遅れだし」
駄目だ。こうなってしまってはもう、芽依は何を言っても聞かない。昔の姿からは想像もつかないのだが、芽依の芯の強さは俺なんて遥かに凌駕する。俺にそれを折るなんてこと出来ない。
「ちょっと待っててね」
そう言って一旦台所に消えた芽依は、水で濡らしたタオルと空の洗面器を持ってきた。よく冷えたタオルが額に乗せられ、あまりの気持ちよさに思わず目を閉じた。
「吐きたくなったらそっちの洗面器に吐いちゃってね。私はおかゆ作ってるから、何かあったら遠慮なく呼んでね」
ありがと、と言う間もなく芽依は台所へと消えた。あいつに迷惑をかけてしまった罪悪感に押し潰されるように、俺の意識は俺のものでなくなった。
***
「――え、央芽。ねえったら」
「ん、んんん?」
どこかで俺を呼ぶ声が。……芽依か? 反応したいのはやまやまなんだが、身体が一ミリも動こうとしねえ。
「央芽ったら……うわっ、何この熱!?」
何やらバタバタする音が微かに聞こえる。大丈夫だよ芽依。大丈夫ったら――。
その一言すら言えず、頭の後ろから引っ張られるように俺の意識が元の暗いところに引き戻される。
***
――ここはどこだ? ……ああ俺と芽依のアパートか。じゃあ何で俺は布団に入っているんだ? この一旦嗅いだら引き返せないような、癖のある匂い。芽依の体臭だ。芽依。芽依――。
「芽依?」
目の前にはタオルを手にした芽依が、心配そうな面持ちでこちらを見つめていた。もう鼻先がくっつきそうなほど近くで。枕元には水の入った洗面器。まさかコイツ、ずっと――。
「央芽っ」
芽依が寝ている俺の胸に顔をうずめる。
「ちょっ、芽依――」
「よかった、目覚まして。すっごい心配したんだからね。ホントにものすっごく」
「――ありがとな」
「バカ」
胸元が濡れる。俺のシャツにしがみついて離れない芽依の頭を、そっと抱いた。直に触った芽依の頭は、暖かくて、なめらかで、少し頼りなさげだった。
***
「だーかーらー何度も言わせないでよ。病み上がりなんだから床で寝るなんてダメに決まってるでしょ」
「大丈夫だって。もうすっかり元気だから」
「それでもダメ。昨日ほどじゃないにしても、今夜だって冷えるんだから」
もう何度目かの押し問答。そりゃあ確かに床で寝るのは背中は痛くなるし、昨晩のごとく冷え込んだりされたらもう死ぬような思いだ。でもだからといって、どれだけ芽依が俺のことを信用しているとしても(というかどれだけ異性として意識されなくても)、年頃の男女が二人同じ布団に入るのはマズイと思う。そのような感覚、芽依には皆無なのだろうが。俺の態度にやきもきした芽依は、俺をキッと睨んだ
「もう……わかったわよ。そんなに一緒に寝たくないんなら私が床で寝るから」
「いや、それは……」
「元はといえば央芽の一人暮らしだったんだしね。央芽の寝床を奪うわけにはいかないもんね」
いじけた子供のような口調で、芽依は普段俺が使っているタオルケットを被った。コイツ、マジで床で寝る気かよ。ああもう!
「わかったよ。一緒に寝りゃあいいんだろ」
タオルケットをサリーのように身体に巻きつけていた芽依は、俺の袖を遠慮がちに掴んだ。
「――いいの?」
「ああ」
そんな顔されたら断れねえよ。
***
芽依の布団はごく普通のシングルだ。お世辞にも広いとはいえない。出来うる限り隅に寄ったのだが、それでも腕には芽依の体温を感じる。
「央芽」
「何だ?」
耳元に芽依の吐息を感じる。今振り向けばきっと、睫毛の一本一本が鮮明に見えるほど近くに芽依の顔があるのだろう。それがわかっていたからこそ、芽依の方を見れなかった。今振り返ってしまったが最後、俺の理性がどうなってしまうのかわかったもんじゃない。
「狭いね」
ふふふっ、と芽依が笑う。うまい具合に息がかかるので、耳がこそばゆい。
「央芽、寝た?」
「んいや」
なおも芽依の視線が刺さっている。実際に見ているわけではないのに、そう確信できる。身動ぎひとつでさえ、きっとわかる。それだけこの空間を、俺と芽依の気配だけで支配しているということなのだろうか。
「――んっしょ」
「――おい、何してんだ」
「何って、腕枕?」
勝手に俺の腕を自分の頭の下に入れた芽依は、まるで当然のことかのように、ケロッと答えた。
「お前なあ――」
絶対に振り向かない。そう決めてたのに、勢いで思わず振り返ってしまった。こちらを見つめる芽依は、驚くほど緩んだ、全てを母親に任せ切った赤ん坊のような甘え切った顔をしていた。以前公園で肩を寄せ合った時と同じ――いや、下手したらそれ以上の崩顔だ。そんな芽依に、自然と吸い込まれるように顔を近づけ――。
ぽすん。と芽依が、俺の腋に顔をうずめた。それで俺は、崖っぷちのところから正気を取り戻した。今、俺は芽依に何をやろうとしたんだ。
おそらく芽依は、俺の理性が飛びかけてすぐのことだったので気付いていないだろう。それだけが救いだ。
「おやすみ、央芽」
「ああ、おやすみ」
芽依の暖かい、いや、熱い体温を感じながら、自然と眠りへと引き込まれた。ここに越してきて以来一番の心地よい眠りだった。
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