1
こんなにも緊張してパソコンの画面を覗き込むことがかつてあっただろうか? 俺は震える手でマウスを運び、遠州大学――俺の第一志望の大学のホームページを開いた。後ろには固唾を飲んで見守る父と母。そして歳の離れた兄と姉が控えている。そのことが余計プレッシャーなのだが、皆もそれだけ気になるのだろう。俺が遠州大に受かっているかどうかが。
受験者用のページを開くと、目立つ場所に『合格者受験番号一覧』と書かれたリンクがあった。カーソルを運び、左手に力を込める――。
「央芽、お前の受験番号何だったっけか?」
「八二五番だよ、兄ちゃん」
「へえぇ、それじゃあ央芽の誕生日と一緒じゃない」
姉ちゃんが兄ちゃんの肩に胸を乗せて、俺に顔を伸ばしてきた。いつも姉ちゃんが使っている柑橘系のシャンプーの香りが俺の鼻まで漂ってくる。
「清美、今はそんなことはいいから」
「何よー英司。むっつりスケベのくせにー」
「なっ……誰がむっつりだ! 大体お前は兄を呼び捨てにするな。何度も言ってるだろう?」
兄ちゃんが顔を真っ赤に染めて姉ちゃんに怒鳴った。正直見慣れた光景だ。
「そんなの知らにゃいなあ」
姉ちゃんはふふんと笑って兄ちゃんの首に腕を絡ませる。そう言うと仲の良い兄姉みたく聞こえるが、実際は三十前の独身男と二十代半ばの遊び盛りの女だ。とても兄姉がじゃれあっているようには見えない。
「それで、央芽の番号はあったのか?」
「そうよ。探す気ないのなら邪魔だからどいて頂戴」
痺れを切らした父さんと母さんが静かに、だが冷たくそう洩らした。馬鹿兄と馬鹿姉は放っといて、俺は自分の番号を探そう。
八〇〇、八一〇、八二〇、八二一、八二四、はっぴゃくにじゅう――。
「こ、これ……この番号!」
俺が指差した先にある三桁の数字。誰の目から見ても明らかだ。八、二、五。
「お、おめでとおお央芽! 受かってたよ。遠州大受かってたよお!」
「うおおおお! でかしたな央芽あああ!」
俺の眼前に二人の無駄に整った顔が迫ってきた。ち、近い。
「ありがと。二人ともテンション上がり過ぎだよ?」
「しょうがないだろ。可愛い弟が第一志望に受かったんだから」
「そーよー。逆に何で央芽はそんな冷静なのよ」
そんな二人して思いっきり興奮されたら、逆に冷静になっちゃうよ。
「もしかしてウチらと離れるのさびちいなあ、なんて思ってんじゃないの?」
「ちっげえよ」
「でも央芽なんだかんだ言って寂しがり屋だからなあ。心配だ」
兄ちゃんと姉ちゃんの中で俺はいったいどういう扱いなんだ。確かに末っ子というのもあって過剰な愛情を享受し、それをよしとしている自分はいた。だがそんな俺も春から大学生。当然乳離れは済んでいる。それなのにいつまでも子供扱いして。逆に兄ちゃんたちの方が弟離れ出来てないじゃん。
まあ、一人離れていってしまう弟を寂しがる気持ちはわからんではないが。それでも俺は一度、一人暮らしというものをしてみたかった。一人なら飯だって好きなのを食える。好きなだけ夜更しも出来る(その後の寝不足は自己責任だが)。今本棚の奥に押し込んである秘蔵の品も、わざわざ隠さなくてすむ。そんな誰にも構うことない、自由な生活が欲しかった。それもあって今の大学を決めたようなものだ。
俺の進学することになった遠州大学は静岡県の西部に位置し、ここ東京からは新幹線こだま号で二時間、ひかり号でも一時間半かかる。そこから更にバスで何十分もかかるとなれば、自然と下宿という選択になる。
「それにしても央芽、なんて学科行くんだっけ? 何か変なとこ行くって言ってたよね」
「変なとこ言うなし。文学部の地理学科だよ」
「地理ってことは地図書いたりするのか? 央芽昔っから地図好きだったもんな」
うんそうだよ。そうだけど兄ちゃんがそうしみじみと言うと何かおっさん臭い。って言うと三十路目前の兄ちゃんはガチで凹むから言わないけど。
「なんか英司がそう言うとおっさん臭いねー」
――姉ちゃん。そこは思っても口に出さないであげようよ。兄ちゃんさっきのテンションから一転、どす黒いオーラ纏っちゃってるよ。
「うう、どうせ俺はおっさんじゃい。こんなおっさんは一生一人で生きて、死んでいくんじゃい」
ほれみろめんどくさいことになった。ただ兄ちゃん別に悲観するほどじゃないと思うんだけどな。顔は俺の同級生といっても通るほど若々しいし、面倒見いいし、地元で最高の偏差値を誇る高校へ行って野球部のキャプテンに就任し、そのチームで甲子園行っちゃうし。一流企業に勤めていて収入も申し分ない。逆に兄ちゃんがモテない理由が俺にはわからない。
「そういえばさあ央芽、今日由実姉たちが来るって聞いてる?」
「えっそうなの? 初耳」
というか兄ちゃん放置か。姉ちゃんらしいといえばらしいけど。
「芽依ちゃんと真知ちゃんも連れて来るって言ってたよ。確か芽依ちゃんとあんた歳近かったよね」
「うん。三つ下」
会うのは小学生以来だけど。
由実姉というのは俺たちの母親の兄の子。つまり従姉にあたる。従姉とはいっても英司兄ちゃんよりも年上で、姉というより母といったほうが近い気がする。実際由実姉よりその娘、月野芽依のほうが年が近い。芽依。俺の三つ下だから、春から高校生か。俺の記憶の中では泣き虫なちっちゃい子というイメージしかない。更に二個下の真知ちゃんに至っては朧げなイメージすらない。何か芽依以上にちっちゃい妹がいたっけな、程度。何故そんなに会ってないのかというと、やはり住んでいる場所が遠すぎるのだと思う。芽依たちの住む愛知県は、俺の大学以上に遠い。
「てか何で急に今日来ることになったのさ。もう何年も会ってなかったのに」
「別に急に決まったことじゃないのよお。央芽には内緒にするように言われてただけで」
姉ちゃんがからかうような口調で言った。
「俺には内緒にするようにって、誰が?」
「芽依ちゃん」
「は?」
「だから芽依ちゃん。家に遊びに来てもいいかって電話してきたの、芽依ちゃんだし」
なん、ですと……。
「なかなか綺麗な声だったなあ芽依ちゃん。きっとびっくりするほど可愛くなってるんじゃない?」
「ケッ、そんなのどうせ期待したらブスだったってパターンだろ」
「あら、どーでしょうね。まあどっちみち東京駅まで迎えに行く手筈になってるから、気になるならあんた行ってきな」
「ったく、しょうがねえな」
何だかんだ俺は、期待せずにいられなかった。ガキんちょだった女の子が女子高生になると、どうなっているのか。
新連載始動しました。毎週水曜に更新しようかと思っています。できれば今日よりは早い時間帯に。
感想、批評等くださると嬉しいです。