ザ •ノンフィクション・ノーマルの巨匠
見える部分は普通に書いてます。
夏だった、夏様の夏様による夏様のための。倒置法。
このようなクソ暑い夏で思い出されるのは数年前、早朝バイトをしていた鶏卵工場でのライン作業。衛生上の理由とのことで空調設備がマトモに整っておらず従業員が泡吹く現場である。基本の作業ウエアはモンベル一択で、長袖の立ち襟厚手ジャケットに、裾のしっかり絞られた裏地メッシュ入長ズボン、ケープ付作業帽子にマスク、ウレタン手袋withゴム手袋、長靴。作業服以前の我々は雑菌なのであった。
そのような出立ちで早朝四時間、ひたすら消毒液プールの中に卵を放り込む姿には、当たり前だが夢や希望はない。さらに人間様のご都合で人工的に産卵を促進され、長期保存された卵には痛みの激しいものが多く、段ボールを開けると虫まみれであったり、鷄の糞や血液、羽根のついた腐卵、破卵、三黄卵であったりと、そんな卵をひたすら消毒するのである。するとみるみるプールがドブ状に濁ってくるので、1時間ないし30分毎に工場内の各プールに「ジア入りまーす!」と自亜塩酸ナトリウム原液を流し込む。失明の危険があるもんで、お猿の玩具のごとしのゴーグルを装着するのだが、騒音はちらし寿司だし、ゴーグルは味の素だしで、もはやここまで人間が本来持っている感覚を塞がれてしまうと、今が夢なのか現実なのかOLなのかマヤ人なのか全く現実認識がつかずで、ただただ直感をたよりに、お金のためただ上司から指令された職務を実行に移すのである。
ロボットと化した人間は簡単に誤作動を起こす。というわけで新入りのワシは古株パートのストレス発散の格好の対象となり持ち回りで回ってくるはずの休憩時間を飛ばされたり、ホースで熱い湯をぶっかけられたり、全身くまなく卵を投げつけられたりしていたが、我が脳味噌は逆境スイッチオンとばかりに滝修行変換し、感情はドライブスルーするのである。
そんなある日。勤務に入ろうとすると、ロッカーに入っているはずのマイ長靴が消えている。名前もしっかり記入している。何故だろう。と古株パートの珍さんがソソソと横っちょにやって来て「キムラさんの靴、食堂のゴミ箱に捨てられとったよ」。同情という名の仮面をかぶり、好奇心いっぱいの表情でワシにコソッと呟いた。なにやら入社当初長靴にマジックで名前を書いた際、ついでにネコのイラストを描いたのがけしからん、普通に書け、というわけで、超古株のお局が長靴を勝手に捨てたらしい。長靴をポアした超本人は『見よ皆の衆、新入りの間違いを正してやったぞカッカッカ』とご満悦らしいのだが、他人のロッカーを無断で開け、私物を破棄することは犯罪行為であるし、対話もないし、油性マジックは今や消せる時代だしで、まだまだ喰える靴を捨てるなんざー勿体ないぜと黄金狂時代のMr.チャプからも脳内電波が届くなり。まあおいといて、とかく新しい長靴代金二千円を自腹で払うのだけはご勘弁願いやすと、事務員女に事情を話すが「キムラさん普通に名前を書いて下さい」の一点張りなのである。
『分かりました』と、二千円は給与から天引きにて、その日持ち帰ったニュー長靴に早速我が名を刻む。左右に『キムラ』。うん、間違いない。イイネッ。色々あったけど新しい長靴ってなんかやっぱイイよね。野球のイチローもスニーカーを大切に扱っとったらしいし、逆に感謝しなくちゃね。などと過去をじゃぶじゃぶジアプールにて洗い流し、仕事にも磨きがかかるワシ。そこに『ちょーっと待ったぁーー!!』。お局の待ったがかかるわけである。「キムラさん、普通に書けって言ったよね?キムラさん」「あ、はい、普通に書いてます」「全然普通じゃないっちゃんねー!ねぇ?珍さん」(珍さんすかさずYES!)「えっ?一体どこが普通じゃないんでしょうか?」「左右が違うやろ!」「さゆう?......」。足元を見ると、我がキムラの名は華麗なるテレコでデザインされておった(テレコとは片方が標準、もう片方は反転という意味です)。完全無意識で書いとったのだが、そんなアカンことやろか、テレコではキムラ認識できんのやろかAI様と、その日頂いた三足目のニュー長靴は、外側は誰が見ても非の打ち所がないほどの『ザ •ノンフィクション・ノーマルの巨匠』で、しかしなんか書きたらんなーおもて、わし、思わず人から見えぬ靴の内っ側に、曼荼羅模様様バリにキムラキムラキムラ尽くしのオンパレードにしてしもたんやが、まぁ内側は見えへんからよかろーもーんっと。すると今回ばかりは作業中に会社のお偉いがやってきて、「キムラさん、分かってますよね?普通に書いて下さい」「あ、普通に書いてます」「分かりました。普通に書いて下さい」「見える部分は普通に書いてます」「お局さんがロッカー開けて、キムラさんの靴チェックするんですよ。あまりややこしいことせんといて下さい」「人のロッカーを勝手にあけて普通なんですか?じゃあ普通って一体ナンなんですか?」「職場を刺激するなという意味です。新しい長靴のネームは事務員に書かせます。今回は靴代金はいりませんから」。
その後手にした事務員女が我が名を書いてくれた長靴は、美しい書体であったがなんだか違和感を感じた。そして1週間も経たぬうちワシはあっけなく作業中ギックリ腰となり、病院に担ぎ込まれ退職したのであった。
あのな、よく聞け。例え一般的に普通じゃなかったにせよ、『仕事靴に自分の名前を真心を込めて書く』という行為は事故の多い現場において、ワッシにとっては祈りであり、その靴には護符のような意味が込められていたのだよ。ミバじゃねんだよハートなんだよゴルアァっ!!
と中年女の憂いが長くなってしもたが、人から聞いた話だが、評論家の種村季弘さんという方の著書『土方巽の方へ』のなかに「五体満足なら踊る必要はない」という記述があるそうだ。ワシは読んでないんで深い理解には至れてないのだが、踊りに限らずアートでもなんでも、日常そのものに満足していたら表現など必要はなく、やりきれない、いきどおりのないものがあるからこそ非日常、つまり表現が必要であるという意味合いなんであろうか?
うーむ、しかし昔の人が描いた壁画や土偶などを観ても『オイラ日々が鬱屈してて、表現せざるを得ないから描いたんすよね〜』などというイチ個人の自己解放とはとても思えない。個人的事情というより、単純に自然や見えない存在に捧げる純粋無垢な行為に感じてしまう。まぁ、集団で暮らしていた古代人と、超個人主義の現代人とでは表現に対する価値観ってまるで違うんかなーとも感じる。昔の人たちのように、ひとかたまりで集団生活していると『自分』に意識があまりいかなくなるというか、単位が『私たち』になるから、現代人のように部屋に一人で暮らすことが理解できないような?一人で過ごすより、皆と過ごすほうが楽しいよねっていう概念で、他人様に対して過剰に求めすぎたり、潔癖にならないような?
しかし現代にどっぷり浸かっている今の自分の土壌では、昔の人達の感覚の理解には到底至ることは不可能なんだろうなぁ。にょほほ〜。シンプルにいろんな存在がいて、その差異を面白がって、分かちあって、混沌としたこの世界をもヒョコヒョコタラリラ踊るように生きていけたらいいのでございませう。人様地球様地球の皆様宇宙様、今日もありがとう。母上様一休。
長靴に名前を書いただけで、職場を刺激している人物認定されました。




