資本の四次元化と「剥き出しの生」への回帰
1. 資本の内面化と身体の変容
資本主義社会において、我々は身体を最初のストック(資本)として運用し始める。しかし、資本が蓄積され、システムが高度化するにつれ、主体の中心は身体から外部の資本(数値・データ・資産)へと移行する。 このとき、世界はすべて「最適化・運用・増殖」の対象として読み替えられ、他者も時間も、自分自身さえもが四次元的な資本の広がりのなかに解体されていく。権力は外部からの強制ではなく、自由な意思による自己最適化という形式をとって、我々の内面へと深く浸透する。
2. のっぺりとした快楽という罠
資本の充足を眺めるだけの四次元的な快楽は、無限に延長可能だが、薄くのっぺりとした空虚さを孕んでいる。そこでは、リンゴのざらざらとした手触りや甘酸っぱい味といった具体的な感覚は、効率を乱すノイズとして消去される。 ここで生じる欲望は、主体から湧き上がるものではなく、システムの増殖をなぞるだけの「欲望の皮を被った資本」にすぎない。それは対象を消費するだけで、主体を何ら変容させることはない。
3. 倫理としてのノイズと居心地の悪さ
倫理とは、欲望を抑圧することではない。それは、自分が「なぜそれを欲しているのか」を問い、資本の回路に身体的な違和感というノイズを混入させる行為である。 身体は、数値や資本の論理に完全には還元されない。疲労、不快、そして対象に触れたときの得体の知れなさや居心地の悪さ。これらの一見ネガティブな反応こそが、資本という滑らかな意味の網の目から、生の質感がこぼれ落ちた瞬間の手触りである。
4. 最小で確かな抵抗
真の欲望とは、消費することではなく、それ自体の変容を促すものである。 快楽と倫理を再接続するとは、資本が提供する幸福の地図をなぞるのをやめ、あえて別の権力(=自分を縛るが、自分を変容させる個人的な美学や規律)を欲望することである。
"リンゴ"を単なる資本としてではなく、その得体の知れなさごと味わうこと。そのとき、内面化された権力は足場を失う。効率化の波のなかで、あえて不器用に、剥き出しの生へと矢印を向けること。そこに、資本主義のただ中で資本として解体されつつある「私」を奪還する、最小だが確かな抵抗がある。




