第二十話「決意」
皆が寝静まる深夜。立入禁止区域――怪奇の泉で、大きな影が確かに蠢いた。
その影は地上を這いずり、何かを探している。長い触手を何本も伸ばし、それを手足のようにして、森中の状況を把握しているようだ。
「グオ……」
一度声を上げると、その巨大な魔物は何やら諦めたのか、張り巡らせていた触手を体内に納める。それから、再び眠りにつくかの如く、その動きを止めた。
ここは立入禁止区域。多くの魔物が潜むはずの場所。だが、そうとは思えぬほどの静寂が真っ黒な木々を包み込む。
近くで湧き出る泉の水は、変わらずに異常な魔力を放っている。これらが何を意味するのか――今はまだ、誰にも分からない。
星の瞬く音すら聞こえない、密やかな夜だった。
◇
「うむ、順調なようだね」
「まあ……一応は……」
セントーレア学園、ノエルの執務室。この部屋は学園内の様々な人物が出入りする場所だが、今はリツカが定期報告に訪れていた。
「なんだい、随分と浮かない返事じゃないか。凶暴化した書物喰らいの討伐は以前よりずっと捗っているだろう?」
「しかし学長、それだけ怪我人も出ているんですよ? とても手放しには喜べないといいますか……」
「ふーむ……それもそうか」
先日のサナの件も含め、いくら腕に覚えのある生徒達が討伐に向かっているとはいえ、負傷者は増える一方だ。このままでは埒が明かない――学園長は少し難しそうに考え込む。
「やはり、入相君が言うように、一刻も早く根源を何とかしなければならないな」
「ですね」
二人は頷くと、今後の方針をより明確にした。今はただ、どうにか現状維持をしているだけに過ぎない。
「それで、どうなんです? 精鋭部隊の選抜の方は」
「ああ、そっちの方も順調さ。各クラスから推薦が集まってきているからね」
ノエルはフフンと得意げに笑う。既に一部のクラスはここ数日の討伐成績等から、前線での戦闘を行う生徒を決めたらしい。
「とはいえ、我々も戦闘に参加しないわけじゃない。生徒達はあくまでも補佐だ――そういうことだから、天陽君、」
「君のところも、早いところ決めておくれよ?」
「うっ……善処します……」
適材適所――そうは言ったものの、精鋭部隊に選抜するということは、生徒達を危険に晒すことに他ならない。リツカは内心、推薦について悩んでいた。
現に、自身のクラスからも怪我人が出ている。ある程度の外傷は時間の経過や魔術で治せたとしても、心の傷まではそうはいかない。あの子は大丈夫だろうか――と、心の中で彼女を案じた。
「それでは、また何かありましたらご報告しますね」
「うむ。頼んだよ〜」
果たして本当に、事態の収束に向かえているのだろうか。どこか晴れない気持ちを抱えつつ、彼は執務室を後にした。
◇
「っ、先生!」
リツカが保健室を訪れるなり、サナがこちらに駆け寄ってくる。その表情にはもう、陰りは窺えない。見たところ、元気そうだ。
数日前に書物喰らいからの襲撃を受け、生傷だらけの彼女だったが、今ではこれまで通り、普通に歩けるほどに回復していた。
「ごめんよ、起こしたかな」
「いえ……! 大丈夫です」
静かな室内には、二人の他に誰の姿もない。暖かな陽の光の差し込む窓辺のカーテンだけが、音も無く揺れている。
「怪我の具合は……?」
「はい、すっかりよくなりました」
「そうか、良かった」
室内の椅子に向かい合って座り、語らう二人。まだ包帯の巻かれた彼女の腕に視線を落としつつ、リツカは安堵と心配の入り混じったような表情を浮かべた。
「あの……先生?」
「うん?」
「……先日は、ありがとうございました」
そう言うと、サナは座ったままで深々と頭を下げる。確か、あの後は大怪我をした彼女を急いで学園へと連れ帰ったものだから、こうして落ち着いて話など出来なかったな――と、当時の状況を脳裏に呼び起こした。
「いやいや。君が無事で何よりだよ」
厳密には“無事”とは言い難いかもしれないが、彼女は確かに生きていて、今、こうして対話をしている。それは紛れもない事実だった。
「私、あれから考えたんです。思い出との向き合い方について」
「思い出……?」
「……私には、父がいました。たった一人の」
ぽつりぽつりと零される言葉に、彼の深緋の瞳が揺れる。“教え子”としてではない、“蔓日サナ”という一人の少女として、初めて明かされる身の上話。張り詰めた空気に、思わず息を呑んだ。
「そんな父が、私がまだ幼い頃に書物喰らいに殺され――それから、私自身、何かを見失っていたのかもしれません」
「…………」
「先生、私、もう大丈夫です。ですから、」
「どうか、私を精鋭部隊に推薦してくださいませんか?」
「っ……!」
彼女からの申し出に、リツカは少したじろぐ。願ってもない言葉だが、あれだけ怖い思いをしたはずなのに、本当に大丈夫なのだろうか? 無理に言わせてしまってはいないだろうか? などと様々な考えが渦巻き、黙りこくってしまう。
「ど、どうしてそこまで……? そんな、無理しなくても、」
「……他の先生方から聞いたんです。天陽先生が、選抜に迷っているって」
「え、」
……見透かされている。まさか教え子に気を遣われるとは――気遣いが嬉しい反面、己の不甲斐なさに、心の中で頭を抱えた。
「私でよろしければ、今度こそちゃんと……お力になりたいんです」
「蔓日さん……」
彼女の決意に迷いはない。澄んだ青紫色の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜いている。……ならば、ここは信じて託すのが道理ではないだろうか。それまでの迷いの霧が断ち切られ、少しずつ視界が晴れてゆく気がした。
「……分かった。それじゃあ――頼めるかな」
「! はい、喜んで」
リツカの言葉に、サナはぱっと表情を明るくする。彼女をただ、再び危険に晒すのではない。次もまた、必ず守ると――そう心に誓った。
刻一刻と迫る、決戦の日。
待ち受けるは何者か――その正体に触れる日も近い。学園内の空気が、きりりと鋭さを帯びた。




