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気がつけば還暦・4


 ピーピーピーとご飯の炊き上がる音が鳴り、蕗子は立ち上がって炊飯器の蓋を開けた。

「『ちんこ』とか『まんこ』とか口に出しづらい気持ちはわかるんですけどお」

「わかるんだったら口に出さないで!美奈子さん!」

 餃子を包みながらさらりと言う美奈子に蕗子は真っ赤になって振り返る。

「だったら『陰茎』とか『膣』とかちゃんと医学用語で言えばいいと思うんですよ」

「何のタイミングで!?いつ言うの!?」

「たしかに『セックス』も『性交』って言い替えるとエロい感じじゃなくなるね。なんでだろう?日本語だからかな?『エロい』も『いかがわしい』に替えると重く感じるね」

「しーちゃん!?」

「でも『ちんこ』も『まんこ』も外国語ではないわよ。実際『ペニス』とか『ヴァギナ』って言ってもいやらしくはないでしょう?」

「『ペニス』はなんか抵抗あるかなあ。でも『ヴァギナ』はそうだなあ、あんまり聞きなれないからかなあ」

 眉を顰めながら栞が大きいボウルを水で濡らす。

「それはあるわよね。エッチな話や笑い話で使われた言葉だから抵抗があるのかもね」

「だからなんの話なの美奈子さん!?」

 目くじら立てながらも栞の用意したボウルにご飯を移し、すし酢を掛ける蕗子である。

「性教育うんぬんの前に、まず性器の名前すら口に出せない親御さんが多いんです」

「そんなもの、自分の子供の前で言ったって『性的虐待』とか言われるご時世でしょう」

 今まさにの会話を反芻し、青くなる蕗子である。

「そうですね。だから子供に直接『ちんこ』とか『膣』とか言わなくてもいいですよね、別に。じゃあお義母さん。どうやって赤ちゃんができるかいつ知りました?」

 にっこり笑って見つめてくる美奈子に、蕗子は一瞬声が詰まった。そしてちらりと栞を見る。栞もじっと蕗子を見ていた。

「どうやってって……、たぶん……小6ぐらいの保健体育で……」

 視聴覚室に女子だけ集められスライドかなんか見せられたはずだが、あまりにも遠い昔のことではっきりとは覚えていない。たしか生理の話が中心で、子作りに関しては「愛し合って結ばれて」とか口当たりの良いことを言ってうやむやのうちに終わったような気がする。結ばれたのは確かに精子と卵子ではあったが、どうやってとかはうやむやだった。

「本当にそれだけ?」

 美奈子はきらりと目を輝かせ小首を傾げる。

「いや、うん、……うん……」

 そのあと独自にエッチな表現もある本をしこたま読みましたとは孫娘の前では言いたくない。わかってるでしょ!?と美奈子を睨むが美奈子はにこにこ笑うばかりである。憎たらしい。嫁がこれほど憎たらしいと思うのは初めてである。

「私が子供の頃ってテレビでラブシーンとかヌードシーンが平気で出てた時代だったんです」

「ああ、まあ、そういやそうね」

 蕗子の子供の頃は確かにわけもなく女性の胸があらわになるバラエティ番組とかあっていた。

「で、両親とドラマを観ていてラブシーンになったりすると微妙な空気になるんですよ、テレビの前が」

 美奈子はくすくすと笑う。たしかに蕗子にも遅い時間でもないのに「子供は早く寝なさい!」などと理不尽に叱られた覚えがあった。

「だから子供心に、ああ、こういうのって恥ずかしいことなんだな、人前で見ちゃいけないもんなんだな、言っちゃいけないもんなんだなって言外に覚えたものなんです。好き同士になったらああいうことするんだけど、それってふたりだけでやるんだなって。でも今ドラマでラブシーンなんてないから、親の前で言外に愛を知る機会なんてなかなかありませんよね」

 包んだ餃子をバッドに並べ終わると、美奈子は手を洗ってフライパンを火にかけた。

「まあ、無理にラブシーンなんて作らなくてもいいとは思うんですけど、そもそも今の時代の子供たちなんて親と一緒にテレビ見る暇があったら動画サイト観てる子の方が多いかもしれませんし。その観てる動画サイトの情報もどうなんだって話ですしね」

 大人から子供まで見るテレビだからと規制を掛けたら、テレビより規制の緩いネットの世界へと子供たちは流れる。良かれと思ってやったことなど焼石に水である。

 栞がぱたぱたとうちわをあおぐなか、蕗子はしゃくしゃくとご飯とすし酢を混ぜ合わせた。

「一緒にドギマギする時間が無い以上、何か言われたときに、何かが起こったときに、ちゃんと答えられる親でありたいです、私は」

 温まったフライパンに餃子を並べながら美奈子は言う。

「名作映画に何故ラブシーンが必要だったのか感想も言えないくせに『セックスのやり方はAVで学びました』なんて言う男に大事なしーちゃんを嫁がせたくはありませんし、濃厚なラブシーンばかり有名になってるけど最初から最後まできちんと読めば愛の深さと執着の恐ろしさがわかる文学作品すらじっくり読んだこともない、精液が血管に流れているような男が娘の彼氏なんてまっぴらごめんです。だから私はそこそこエッチな漫画やライトノベルはしーちゃんには許可しています」

 ジャッ!と水をフライパンに入れパッと蓋を閉めた美奈子は蕗子に向き直り宣言した。

 返す言葉もなく、ただ「なるほど……」と蕗子はすし飯を切り混ぜながらも美奈子を見て頷く。

 栞はうちわをいったん置くと、茶色く煮込まれたちらし寿司の具材を酢飯の中に投入した。

「お母さん、ちゃんと『ちんこ』や『まんこ』のこと説明してくれるしね」

「しーちゃん!!」

 蕗子と美奈子は同時に叱咤したが、いささか声色が違った。

「女の子がそういうこと気軽に口に出すもんじゃありません!」

 顔を真っ赤にする蕗子と違い、美奈子はやはり落ち着いたものだった。

「尻の軽いバカな人間と侮られるから、あまり人前で言わないように」

 あまりって何!?と蕗子は美奈子を見たが、先ほどの話を思い出し、やむを得ず攻撃しなければいけない戦もあるのだろうなと蕗子はぐっと言葉を呑んだ。

「誤解が無いように言っとくけど、おばあちゃん。あたし18禁の本は読んでないからね」

 もちろん動画も、と栞は皿に盛ったちらし寿司の上に錦糸卵を乗せながら言った。

「普通の中学生は遊んだり勉強したり将来を模索するのに忙しくてまだまだ18禁のコンテンツまでたどり着けないんですからね」

「いやもう辿り着かないで……」

 一生かわいい孫でいて、と蕗子はさめざめしながら栞のちらし寿司にだけエビをみっつ多く乗せた。


 蕗子とて子供の頃、エッチなものに興味はあった。

 リビングもダイニングも寝室も兼用している狭いアパートの一室で、父親が観ている深夜テレビを掛け布団の隙間からこっそり覗き見していたこともある。

 子供の頃から「ふきちゃんはブスだけどおっぱいが大きいからモテるよ」などと老若男女問わず謎に褒められていた。褒められている、と思ったのだあの頃は。胸ばかり注目する男たちに嫌悪を感じながらも、褒められているのだから、と自分を納得させていたのだ。

 痴漢に遭っても襲われそうになっても、「小さくてかわいいから」「隙があるから」「自慢?」などと言われ、悔しくても留飲を下げるしかなかったのだ。

 そんな時代だった。

 エッチなものに興味がある自分も悪いのだと思っていた。だから、辱めも黙って受け入れなくてはいけないと思っていた。

 だが。

「興味は興味。犯罪は犯罪。そして屁理屈は病気です」

 美奈子は断言する。

「自由なBL表現を守るためには徹底した性教育が必要なんです!」

 拳を突き上げる美奈子を、蕗子は半目で見守った。

 BLのためなの……。子供を守るためではないのね……。




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