気がつけば還暦・3
「お義母さん、私、茶わん蒸しも食べたいです」
「なんだかんだ姑使うわよね、あなた」
許可も得ないうちからさっさとパックの銀杏をカゴに入れる美奈子を、蕗子は若干白い目で見る。
「えー、だったらあたし、餃子も食べたーい」
「ちらし寿司に餃子はないでしょう、しーちゃん」
母親らしく美奈子が小言を言うが、作るのはあくまで蕗子である。
「えー、お祝いだから好きなもの全部食べたーい」
「しーちゃんじゃなくておばあちゃんのお祝いなの。わがまま言わない」
「えー、包むの手伝うからー」
本当に誰の誕生日だったかしらと思いつつ、蕗子は豚ひき肉もカゴに入れた。そして餃子の皮も。ちらし寿司だから30枚入り1袋でいいかと思いながら。
結婚して子育てをしている間、蕗子は今でいう『オタ活』からはまったく離れていた。
息子や夫がいる前では自分好みのアニメは観られなかったし、家計から漫画本を買うのは気が引けた。同人誌即売会に行く時間なんて取れなかったし、オタク友達とは結婚してからなんだか距離が出来てしまった。息子はしっかりオタクだったが、あまりに好みが違ったので話など合うはずもなく……、と思っていたところからの嫁・美奈子の出現である。
頭も切れ仕事もこなし身なりもばっちり美しい。なのに
「お義母さん、今一番アツいジャンルはこれなんです!でもこれのCPは原作者が固定しているから動かしちゃいけないんです!でも仲間のこっちのキャラクターとこっちのキャラクターがものすごくアツくてファンの間では大盛り上がりでコアなファンの人たちからは「そっちはメインじゃない!原作者の意向に沿うこと!」ってすごくうるさく言われてて、そうそう、オリジナルならこの先生とこの先生の話がおススメですよ!今をときめくこの先生のあのBLはアニメ化が決定していて、こっちの先生のこのお話は実写化なんです!すごいでしょ!?主役はあのヒーローのあの人で放送はさすがに深夜です!」
早口だった。
早口でもたらされる情報は蕗子が若い頃には考えられなかった夢のようにキラキラしたものばかりで、あとは両親の介護に向けてのわずかばかりのインターバルだと思っていた時間に、潤いをもたらしてくれた。
「うーん、重かった……」
車の後部座席に荷物を載せると、蕗子は首と肩を回した。
「60になるとさすがに疲れやすくなっちゃったねえ……」
「お義母さん、私運転しますんで、後ろで寝ててください」
美奈子は蕗子の手から鍵を受け取るとさっと運転席に乗り込んだ。栞もすかさず助手席に乗りながら言う。
「今日60になったばっかりで、もう疲れるってどうよ、おばあちゃん」
「どっかのわがままな孫娘がいきなり『餃子食べたい』とか言い出すから、キャベツ運んで疲れちゃったんです」
「えーうそ。キャベツ運んだのあたし」
「違います、お母さんです」
「じゃ、おばあちゃんの荷物ますます軽いじゃん」
「今から餃子とちらし寿司作るの、気が重~い」
目を閉じてのけ反る蕗子に「ごめんごめんごめんなさい、おばあちゃん大好き!」と栞は笑いながら振り返って手を伸ばした。
息子・一輝一家は蕗子の家の近所に住んでいる。
同居の方が助かるんですけど、と共に仕事を持つ一輝と美奈子は言ったが、勘弁してくれと蕗子は断った。
決して嫌いではないし、嫁姑の仲もいい方だとは思うが、一緒に暮らしてみれば何が起こるかわからない。所詮他人は他人なのである。なんなら大きくなってしまえば我が子でさえ家を出てくれと早い段階から思っていた蕗子である。子育ても家事もちゃんと手伝ってやるからと言い含めて、スープの冷めない距離に住むことを許可した。
普通そういうのって嫁の実家を頼らない?と美奈子に聞いたことがあるが、
「お義母さんの方が話が合いますもの」
と美奈子は満面の笑みで答えたのだった。
話ねえ、と蕗子は自宅の一室を眺めながら物置が欲しかっただけだろうと確信している。
一輝に兄弟が出来た場合の子供部屋として用意されていたそこは今や美奈子と蕗子の共同書斎という名の物置と化しており、壁一面のBL本及び丁寧に飾られた推しキャラグッズの数々で埋め尽くされていた。
美奈子いわく。
「まだ娘には早いので」
あの頃の美奈子にはまだ分別があった。あの頃って妊婦のときだけだったけど。
自宅に置いておくと、いつ何時娘の目に触れるかわからないので、実家に置かせてくれとのことで置くことになったのだが、あれよあれよという間に数は増え、孫娘の栞も大きくなり、いつしか立っちし、ドアを開け、自分で入り、字も読めるようになり。
「おばあちゃん、これなんてよむの?」
蕗子の悲鳴が響き渡ったのは、栞が5歳のときだった。
以来一切栞には立ち入り禁止を命じていたはずだが、いったいいつから栞はBLやTLの存在を知るようになってしまったのか。
「隠そうったって普通に本屋に売ってあるしね。ネットでも読めるし」
早生まれの栞はそれほど大きくない手で一生懸命餃子のたねを捏ねながら言った。
「年齢制限かけられたってウソつけばすぐ見れるでしょ、あんなの」
「まさか、しーちゃん……」
野菜を刻み疲れて椅子に腰かけひと休みしていた蕗子は青くなった。
「だからお母さんの検閲通ったのしか読んでないって」
「美奈子さんの検閲の基準って何!?」
「SNSで友達に友達になろうって声かけてくる女性は?」
「みんなネカマ」
「写真送ってって言われたら?」
「即通報」
顔も見合わせずに交わされる母娘の会話に、蕗子がいやいやと割って入る。
「検閲になってないでしょう!?それはSNSの基本!」
「『好き、付き合おう』って告白されたら?」
「『ありがとう。でもいくらなんでも中学生でお付き合いは早いよね』」
「『内緒にしてれば誰にもバレないよ』って言われたら?」
「即通報」
「『エッチもしたことないの?』って友達にからかわれたら?」
「即通報」
「それも通報なの!?」
驚く蕗子に、栞と肉だねを捏ねる手を交代しながら美奈子は答えた。
「揶揄いや冷やかしがイジメや早すぎる性体験の増長にもなりかねないんです。それに、『揶揄い』の背後に性被害が隠れていることもありますしね」
「通報って言ったって、お母さんにだよ」
フォローする栞の横で美奈子は手のひらに力を込めて肉だねを捏ねながら続けた。
「エッチなものに興味を持ったり憧れたりする気持ちは人間として当たり前だと思うんです。でも興味を持ったからって人前で喋ったりすぐ行動に移していいってわけではないでしょう?なぜなら?」
促された栞はぴしゃりと答えた。
「『性行為は暴力に繋がる』」
「自分で自分の身を守れないうちは、惚れた腫れたのエッチだの言ってる暇があったら口説き文句に使える文言の百や二百勉強しとけって話ですよ。ね?」
「『エッチは自分で所得税を納められるようになってからですよ!』ってお父さんに言われた」
餃子を包みながら栞は飄々と言うが、真っ赤になりながら熱弁を振るう一輝を想像した蕗子は何言ってんのあの子はと蒼白になる。
「そういやこの間私、学校に呼ばれちゃったんです」
言い出した美奈子に蕗子の顔面はますます白くなる。この話の流れから察するに、まさか栞がエロ本を学校に持ち込んで学友に何やらよからぬ布教とかでも始めたのではあるまいか。
「クラスの男の子が栞にイジメられたって言ってて」
蕗子は思わず立ち上がった。想像してたのよりもっと深刻な理由ではないか。
「それが……」
ぷっと吹き出す美奈子の代わりに、栞は蕗子の顔をしっかり見て言った。
「『おまえ、オナニーするときやっぱBL漫画使ってんの?受けになったつもりで?』とかへらへら笑いながら聞いて来たから、『ザーメン臭い息で話しかけてくんじゃねーよ。どうせバナナ食ってるゴリラ見たってフェラチオ想像してんだろ。てめえの頭ん中栗の花でも咲いてんじゃねーのかセックス依存のマスかきサル野郎が。擦り過ぎてちんこすり減る前にとっとと病院行きやがれ』って言ってやったら泣いた」
美奈子は耐え切れず吹き出して爆笑した。
蕗子は絶句し、そして次の瞬間真っ赤になって叫ぶ。
「しーちゃん!なんて言い方!!美奈子さん!笑い事じゃないでしょ!!」
「えー、だって言われたら言い返さないと」
不服そうに頬を膨らます栞の横で、美奈子が涙を腕で拭いながら付け加えた。
「相手のお母様がぷりぷり怒ってらしたので、『お子さん、自慰行為に興味がおありのようですから、正しい性教育をして差し上げたらいかがですか?』っておすすめしたら、ぷりぷりがブリブリになっちゃって」
とうとう声を上げて笑い始めた美奈子に釣られて、栞も腹を抱えて笑い始める。
「笑い事じゃないでしょー!」
頭を抱える蕗子に、少し笑いの収まってきた美奈子は断言した。
「お義母さん。何事もまず『教育』ですよ。正しい性教育さえしておけば、どんないかがわしい情報にさらされても振り回されることはないんです」