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気がつけば還暦・6


 どくん と蕗子の全身が跳ねた。

 雷すごいと蕗子は思った。めっちゃ飛ぶじゃん。飛ぶ?え?と呼吸を忘れていたことを思い出し、思い切り吸う。そしてなんか揺れてる。

「お義母さん!!」

「おばあちゃん!目を開けて!おばあちゃん!」

「及川さん、わかりますかー?及川さーん、聞こえてますかー?」

 懐かしいような声が聞こえて蕗子は重たい瞼をようよう上げる。薄く開いた視界には別れたときと変わらない美奈子と栞の姿があった。でも、ものすごく不安な顔をしている。まだそんな顔してる。蕗子は心配させないように笑ったつもりだった。

「お義母さん……!お義母さん……!」

「おばあちゃん……!」

 美奈子と栞が手を握ってくる。蕗子は握り返してやりたかったが、なかなか手に力が入らない。

「及川さーん、聞こえてますかー?聞こえてたら瞬きしてくださーい」

 若い男が視界に入る。えーと、誰だったっけと思いながらも蕗子は一度ゆっくり瞼を下ろして上げた。

「お義母さん……!」

「おばあちゃーん……」

 美奈子も栞も泣いているようだった。


 

 脳梗塞だった。処置が早かったので手術はせずに済んだが、治療とリハビリにはそれなりに時間はかかっていた。そんなに不摂生な生活をしているつもりはなかったが、美奈子に徹底した塩分糖分脂質管理をされることとなった。なぜなら夫・正道も息子・一輝もややぽっちゃりで、「あなたたちに付き合っていたからお義母さんはこうなったんです!」と嫁・美奈子が激ギレしたためだった。まったくもってよくできた嫁である。孫娘・栞は「栄養学勉強しようかなあ」と進路目標ができたらしい。なんにしろお役に立てたのならよかったと蕗子は前向きに考えた。


 あれは夢だったのだろうかと蕗子は考える。一年以上も過ごしたあの世界での出来事は、空気の匂いも焼いて食べた里芋の味も、生々しく覚えている。龍になって飛んだ高揚感、身体をくねらせ風を巻き起こす爽快感。海に落ちた冷たさも、井戸の水を汲み上げるつるべのガサガサも。

 なにより、穿拓と清白のお話をねだる声も、身体を寄せ合って眠った暖かさも、一年ですっかり伸びた身長も。なにもかも、映画やテレビなんかではなく、はっきりと横にいたのを、背中を見ていたのを、匂いごと温かさごと覚えている。

 でも。


「お義母さん、大変です!」

 相部屋の仕切りのカーテンをジャッと開けて美奈子が慌ただしく入って来た。

「ちょっともー、お隣にご迷惑だから……!」

 蕗子が小声で窘めても興奮止まない美奈子はスマホをバッグから取り出して蕗子に見せた。

「なにもー」

 蕗子は頭の上に置いていた老眼鏡を目まで下ろし、それでもなおかつちょっとスマホを離して画面を見た。

「あれ、金時しぐれ先生じゃなかったんです!金時しぐれ先生のお嬢さんの『金時みぞれ先生』だったんです!」

「なんなのもー、いきなりー。姑の見舞いに来ていきなり金時しぐれ先生の話題ってあなた」

「金時しぐれ先生の本!もう十年も前から娘さんの『金時みぞれ』先生が描いたものだったんですって!」

「え~?娘さんとかいたの~?金時しぐれ先生に~?聞いたことないわよ~」

 わけがわからず蕗子は眉間を寄せて一生懸命スマホの画面を読もうとする。が、焦点がなかなか合わない。いつのまにかまた老眼鏡が合わなくなっている。やっぱり一年ぐらい向こう行ってたんじゃないの私?などと思っていると、辛抱しきれなくなった美奈子がわーわーとまくし立てる。

「いらしたんですって!お嬢さんが!しかも金時しぐれ先生、ずいぶん前に逝去なさってたんですって!」

「ええっ!?」

 驚いた蕗子の手からスマホが滑り落ちた。



 それは『金時しぐれ』名義で本を出していた『金時みぞれ』の告白文だった。

 『金時みぞれ』は『金時しぐれ』が二十五歳のときに産んだ私生児だった。未だに父親はわからないという。だが今さら父親を知りたいとも思わないと彼女はインタビューに答えていた。父親のことなど気にならないほど、母は偉大な人でした、と。

 金時みぞれは、母親のことを普通の会社員だと思っていたという。たしかに娘の自分のために戯れに描いてくれる絵は上手かったが、漫画を描いている姿を見たことが無かったからだ。だが実際『金時しぐれ』の同人誌新刊は、オリジナルにしろ二次創作にしろ、彼女が子育てをしていたであろう期間も一度も休むことなく発行されていたのだ。一体どこからその時間とバイタリティが捻出されていたのか、『金時しぐれ』が亡くなっている今では知ることもできない。

 金時みぞれが、自分の母親が同人誌を作っていたことを知るのは、母親が急な病で亡くなってすぐのことだった。イベントに搬入する予定だった同人誌が、印刷所から大量に送られてきたのだ。同人誌など見たことのなかった金時みぞれはとても驚いたし、その量にも驚いた。さらに中身を見て驚いた。よもや自分の母親がこんな漫画を描いていたとは。だが、読めば読むほどその内容の秀逸さと絵の美しさに感動を覚えたという。

 そして母親の遺品整理の際に見つけた描きかけの原稿に、膨大なプロットの数々。母にはまだこんなにも表現したいものがあったのだと、金時みぞれは呆然としたという。

 女手ひとつで自分を生み育てながら、決して楽ではない仕事もこなし、これだけの物語を遺した母。

 怒られたり怒鳴られたりヒステリックにものを投げつける姿も見たけれども、子供の自分に対しても描きたい物語に対しても決して妥協や諦めなどしなかった母。

 そのとき金時みぞれは母親の後を継ぐ決意をしたという。

 金時みぞれはまず出来上がっていた同人誌を通販オンリーで捌くことから始め、その間に地道に絵の練習に励んだ。

 それから三年。まずは金時しぐれの描きかけの原稿を仕上げるところから始め、それが無くなれば遺されたプロットをもとに漫画を描き始めたという。その頃はちょうど同人誌界でも絵の流行りが変わってきたころで、かの金時しぐれも絵柄に迷走しているなどと囁かれた。すり替わるにはちょうどいい時期だったと金時みぞれは回想している。

 何度正直に「金時しぐれは亡くなった」と告白しようと思ったことかと金時みぞれは述懐する。

 だが、金時しぐれのもとに届けられるファンレターに、決心がつかなかったと金時みぞれは悔恨する。

 このまま母親の名義のまま、母親の残した物語を描き続けてもいいものか。いや、『金時しぐれ』の遺した物語だからこそ、『金時しぐれ』名義で描き続けるべきなのか。

 だが、最近になってまた新しい発見があったという。

 母親が残した数々の物語のもとになった話があるというのだ。それは母親の実家がある地方に室町時代から代々伝わる御伽草子。ある日突然村にやって来た猿楽の一座の語り部が紡いだ話を書き残したものだった。


「ん?」

 蕗子はちょっと首を捻った。どこかで聞いたことのある話だ。


 母・金時しぐれは子供の頃から聞いていたその魅力的な話の数々から発想を得てBLに手直しし、漫画にしていたのだ。

 根も葉も無いところから男同士の恋愛物語を発想する『やおい』文化にも造詣が深く、異性愛の物語を同性愛の物語に書き換えることができた母。その才能は語り継がれる御伽草子にすら発揮されていたのだ。発覚したのは、おりしも『金時しぐれ』の商業デビューが決まったごく最近のことであった。

 商業デビューするにあたって、出版社から言われた言葉が娘『金時みぞれ』の中で引っ掛かっていた。『金時しぐれ』の才能を『BL』というカテゴリーだけにとどめておくには勿体なさすぎると。なんとか『BL』以外の物語もつくれないかと。

 たしかに母『金時しぐれ』にはBLへの深い愛とこだわりがあったと、残された遺稿からもひしひしと感じられる。だが、本当にそれは曲げられないこだわりだったのだろうか。元ネタと推測される御伽草子の数々をBLにアレンジした母は、代表作『別有天地』をTLに書き換えても怒らないのではないか。母が生涯描きたかったのは『愛』の物語であり、それがBLであれTLであれ、読者に受け止めてもらうことが母の喜びではないのだろうか。

 そしてこれを機会に『金時しぐれ』が亡くなっていたことを、『金時みぞれ』が跡を継いだことをファンの皆様に周知していただければと。


 だました形になってごめんなさい……と締められた記事を読んで、美奈子はつくづくと言った感じでため息をついた。

「絵も遺伝するんですねえ。うらやましいわあ」

「そこ?」

 座った蕗子の目など気にせず、美奈子は腕を組む。

「しーちゃんには何が遺伝するかしら。顔はもう綺麗だし……」

「口の悪さとオタク気質よ」

「ああ!」

 納得とばかりに美奈子は拳で手のひらを叩いた。

「隔世遺伝!」

 

 

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