気がつけば野良のばばあ・2
金時しぐれ先生の名作『別有天地』。最近蕗子はこの物語をよく思い出す。
教師からの性被害に苦しむ受を守るために暴力行為を働いてしまった攻は、受とともに街のはずれの貧困街に逃げ込む。
事情があるのだろうと見てみぬふりをしていた貧困街の住人達だが、金のために身体を売ろうとした受を見かねて警察へ通報。ふたりともそれぞれの家庭へ引き取られて行く。
時は流れ、大人になった攻は子供をあらゆる暴力から守るために教育界へ身を投じ、教師となる。警察でも児童相談所でも弁護士でもなく、教師こそ子供の一番近くで子供を守れると思ったからだ。
そして同じ学校に就任して来た教師、彼こそがもう何十年も会っていなかった受であった。彼もまた自分の過去を鑑み、子供を守るために教師の道を選んでいたのだ。
しかし、受の過去を知る者が出て来て教職を追われそうになる。そんな過去のある人間に安心して子供を任せられないと。だが彼は語り出す。あの事件のあと、自分がいかに周りの人間に支えられ、立ち直ってきたのかを。
息子の性被害の事実を受け入れられなかった家族と上手く行かなくなった受。しかしそんな彼を受け入れたのはあの貧困街の住人たちだった。受を引き取り学校にも行かせるため、貧困街の住人たちはがむしゃらに働き生活を立て直し、貧困層が住むと言われていたその町は夜歩きをしても大丈夫な安全な街へと姿を変えていく。
街とともに立ち直った受は教育者を目指し、子供を守るために働くことを決意する。離れていても攻と受は、奇しくも同じ目標に向かっていたのだ。
多くの子供を守るために教育者の道へ進んだふたりであったが、やがてひとりの子供と出会い、ふたりは家庭の中でこの子供を育てていくことになる。
という話。
出だしから性暴力の話なんでまずもって穿拓と清白には聞かせられないし、そこ端折っちゃうと話の筋がめちゃくちゃになるし、ていうかまず長いし。めちゃくちゃ長いし。なので寝物語には聞かせられない。
だが最近よくこの物語を蕗子は思い出すのだ。
「せっきーもはっくんも、このままでいいの?」
穿拓と清白は不思議そうに蕗子を見る。
「このままとは?」
「このままここに住んで、漁師の仕事と、塩作りの仕事を続けて。他にやりたいこととかなかったの?ほら、言ってたじゃん。舞とか、武士とか」
「ああ」
穿拓も清白もほがらかに笑う。
「漁は身体を鍛えるのにちょうどいいし、修練は朝晩やっている」
たしかに穿拓も清白も手作りした木刀を毎日庭先で振り回している。
「舞も欠かしていませんよ」
笛も舞も短時間でも、たしかに毎日絶えたことはない。
「今の生活に不満などない。むしろ今まで思いもよらなかった生き方を教えてくれた村の人々にもばあさんにも感謝している」
「生まれたときから武士の生き方か舞を踊るくらいしか知りませんでした。でもやってみれば、この生き方の方が私には合っている気がします」
穿拓も清白もあっさりと言う。その笑顔には無理も諦めも感じられない。素直にそう思っているのだろうと蕗子は思う。
「ばあさんはどうなんだ?ここでの生活は不満か?どこか別のところへ行きたいのか?」
ふいに穿拓に言われ、いやいやと蕗子は手を横に振った。
「そうじゃないよ。あんたたちさえいれば、私はどこでも大丈夫」
とは言うものの、もう少し大きくなればこの子たちも自然とここから飛び立っていくだろうと蕗子は思っている。それでもここなら貝を拾ってでも海藻毟ってでも、蕗子でもひとりで生きていけるような気がする。
「何かやりたいことはないんですか?」
「やりたいことなんて。毎日ご飯作って洗濯して、海辺に仕事に行ってれば忙しくてそれで一日終わっちゃうよ」
蕗子は笑う。掃除機も洗濯機もない生活は本当に忙しい。何から何まで『丁寧な暮らし』とやらでてんてこ舞いだ。まあ、無駄な食器や見栄も無いシンプルな暮らしなのでその辺は楽といえば楽なのだが。
「では、本を作って欲しいです」
「は?」
にこやかに言う清白の言葉に蕗子は豆鉄砲を食らった。
「今までおばあさんがお話してくれた物語を、本に残して欲しいのです」
本を作る。久しぶりに聞いた言葉に蕗子は目を開いたまま止まっていた。
「そうすればいつだって子供たちは本を開いてあのお話の数々を楽しめますし、写本すれば字を学ぶこともできます。本として残せば、代々村の人たちに受け継いでいくことができますから」
ここに来てまさかの同人誌制作のお誘い。懐かしい、と蕗子は思った。蕗子も高校生の頃、同人誌を作ろうと友達と盛り上がったことがある。しかし子供だったあの頃は企画の立て方もよくわからず、全員好き勝手に漫画を描いたので企画も傾向も無い本が出来上がり、一冊も売れなかった。黒歴史といえば黒歴史だが、皆でわーわー言いながら何かを作り出すのは楽しかった思い出である。その後また本を作ろうという話は一回も出なかったが。こういうのも三つ子の魂百までっていうのかしらねなどと蕗子は思いながらも、でもとにかく今それやったら金時しぐれ先生のパクりというか盗作になるからダメなのよと説明もできず、ただゆっくりと首を横に振った。
「語り部っていうのはね、あくまで口承で語り継いでいくものなのよ。口から口へと語り継いで行く中で、たとえそのお話が時代で形を変えたとしても、それもまた語り部として本望なの……」
もっともらしく遠い目をする蕗子であった。
まあ、それはいいとして穿拓と清白がこの村に腰を落ち着けると決めたのであれば蕗子にはやることがあった。
六十になった日にこっちに来たのに六十以上の身体に入ってしまった蕗子。……入ったというのか?それはともかく、根が龍のせいか六十のときより元気に動いていられるが、順番から言って穿拓と清白より先に死ぬのは明白であろう。……また死ぬのかあ……とうんざりする蕗子だが、生き物である以上仕方がない。こっちに来て日も浅いが、最近一回死んだ身なのであまりお迎えと言うものが怖くなくなっている。たぶんに『死んだ』というよりも『転生』して来た感じなので、ちょっと『死』を甘く見ているのかもしれない。それはそれで良くない傾向だが、どう考えても何が起こっても我が身は婆だ。二回目の婆ともなればもうやり残したことなどない。ただひとつ、穿拓と清白の後ろ盾さえ見つければ、あとはもう思い残すことなどないのだ。
穿拓と清白とてもう自分たちで生きていけるだろう。それくらい心も身体も成長した。正直、食事の用意だって洗濯だって、蕗子がしなくても自分たちでやれるだろう。漁に行くにしても、村の中で生活するにしても、自分たちで村人たちと交渉し、うまいことやっていけるだろう。手を掛けているのは、心配しているのは、ただの蕗子の老婆心に過ぎない。
たった一年とちょっと。二年にも満たない時間一緒にいただけで、本当のおばあちゃん気分でいる。本当の孫扱いをしている。それを許してくれる穿拓と清白。
もしあの洞窟で穿拓と清白が蕗子を見つけてくれなかったらどうなったことかと不安になる。不安で心配で悲しくて寂しくて、気でも狂ったんじゃないかと蕗子は思う。
村人たちは穿拓と清白を可愛がってくれている。親切にしてくれる。嘘をついてこの村に潜り込んだことすら許してくれた。
だから、この先、穿拓と清白がずっとこの村で暮らせるように。
蕗子がいなくなってからも暮らしていけるように。
村の長たちに、蕗子は後ろ盾を頼もうと思っていた。
これは一種の終活である。
前世からあまりにも突然こっちへ来てしまったので、部屋の片付けも美奈子と栞への形見分けも十分にできないままだったのが少々心残りなのだ。
逆に言うなら終活さえしていればまだ少しは長生きできる。いわゆる「お迎えが近い」「来年の正月にはばあちゃんはもういない」などとほざく年寄りほど長生きするというアレの法則である。
そう。感傷的なことをつべこべ言ってはいるが、蕗子はまだ当分死ぬ気などさらさらない。絶対結婚しろとも出産しろとも言わないが、あわよくば栞の子供だって抱っこする気でいたのだ。ここで穿拓と清白の子供を期待して何が悪かろう。穿拓と清白の子供が無理でもここにはひ孫も玄孫も期待できる村人がいっぱいいる。舐めんなよ、龍の寿命。たぶん。
終活はあくまで『念のため』に過ぎないのだ。




