気がつけば龍神さま・2
「わたしはあまり武芸が得意ではなかったのですが、三人の兄たちはとても達者で跡継ぎにも問題はなく、父は私には何も期待していないと思っていたのです。ですから好きに舞や雅楽の稽古をさせてくれているのだと思っておりました。ですが……」
清白は薄く笑ってまつげを伏せる。
「穿拓が寺へ上がった頃でしょうか。突然、とある貴人がお出でになりました。宴の席でわたしは舞を披露するよう言われ、それが終わると貴人の寝所へ呼ばれました……」
ぱちりと薪が弾けた。穿拓も蕗子も何も言わなかった。
「ただ舞をお褒めいただけるとばかり思っていたので、なにが起こったのかよくわかりませんでした。ですが、それから父とも母とも、家の者誰とも、水の中にいるような、何を言っているのか声がよく聞こえないような、そのような隔たりを感じるようになりました」
清白は枝をひとつ火に放り入れる。
「それからも何度か貴人はお出でになりました。貴人が通われるようになると、これは家の繁栄に繋がるのではないかと家の者たちは浮足立ちましたが、わたしはいつ側仕えとして召し出されるか、恐怖でしかありませんでした。ですから寺への修行を父に申し出たのです」
揺れる炎が清白の顔を赤く照らす。蕗子はその顔を見、穿拓は炎だけを見て話を聞いていた。
「父は激怒しました。おまえは家の役に立つ気は無いのかと。おまえにできることなどこれくらいのことだろうと。……わたしにも、期待されていることがあったのだと初めて知りました」
清白は自嘲に唇をゆがめた。
「ですが穿拓の兄上の話が伝わってくると、父はわたしの願いを聞き入れてくれたのです。当時は理由がわかりませんでした。ただ、穿拓の兄上の分、稚児の入る席が空いたのだと、愚かにも兄上に感謝すらしていたのです……」
清白は顔を上げて穿拓を見る。思いつめたその表情を見ることもなく、穿拓は皮肉に笑ったようだった。
「そんな心持ちを観音様はご存知だったのでしょう。入ってみればこのありさまです……。所詮わたしが誰かのお役に立てることなどこれしかないのだと……」
清白は項垂れる。だが昂然と顔を振り上げ、真正面から穿拓を見た。
「穿拓。わたしは自分が家のためにできるたったひとつの仕事を放棄するため、穿拓の兄上の死を利用したのだ」
「……つまり東雲様はおまえを人身御供にして、貴人と寺の援助を天秤にかけたのだろう。どちらにしても汁は甘いと」
「穿拓!わたしは!」
「兄上の死は兄上だけのご判断だ。おまえには露ほども関係ない」
「だが!」
「はっくん。それは全部大人のせいだよ」
なおも言いつのろうとする清白を制して蕗子は美奈子を思い出しながらきっぱりと言った。
「きみに手を出した貴人とやら。論外に変態だね。まず犯罪者。そしてそれを黙って見過ごしたおうちの人たち。これも犯罪者だね。まともな大人だったらまず子供を助けなきゃいけない。さらにはっくんを利用してお家繁栄の踏み台にしようとしたお父さん。言語道断だね。親として大人としてあるまじき行為だね。犯罪だね。それから稚児灌頂をやってるお寺や坊さん。言い訳がましい変態だね。何をどう言いつくろっても犯罪だね。逮捕だね」
蕗子の言っている単語のほとんどが意味不明だが、不思議なことに言わんとしていることはなんとなく理解できた穿拓が答える。
「ばあさん。ばあさんの言う『みらい』ではそうかもしれないが、今ここでは……」
「黙れ。今から未来を背負うおまえたちに大事な話をする」
蕗子はぴしゃりと言い放った。
「セックスは好き合ってる者同士でするもんだ。強固な主従関係を結ぶためーとか、服従の証ーとかでやるもんじゃあない。そんなことしなくったって上手く行ってる主従関係の武士の方が多い。これは未来から来た私が言うんだから間違いない。それと稚児灌頂。あーだこーだ言ってるけど観音様の身代わりなんてただの言い訳にしかすぎん。うすうすわかってて後ろ暗いもんだから表沙汰になってないだけで、実際里人だってわかってなかったでしょう?女は穢れだなんだなんて嘘っぱち言ってるから己の首絞めて変態行為に正当性持たせようとしてるだけ。あと何年かすりゃあとんちの効いた坊さんが出て来て酒飲んで女遊びして固定概念ひっくり返してくれるから、今は走って逃げるのは正解なの。未来も知らないうちから逃げたはっくんも逃がしたせっきーも大正解です」
得意げに牛ほど大きな鼻息をつく蕗子に、穿拓と清白は首を傾げた。
「せっくす……?」
蕗子は途端に赤くなった。
「あ。性交ね」
「あ」
穿拓と清白も赤くなった。
こほんと蕗子はひとつ咳払いする。ここで照れては性教育にならない。心の中に、性教育の重要さを真摯に説いた美奈子を召喚する。
「いいですか。性交というのは好き合ってる者同士で行う尊い行為です。お金のためとか出世のためとか、誰かに強要されてとか、しょうがないからとか、絶対やってはいけません。性交はそういうことでやってはいけない行為です」
「好き合っていればいいのですか?」
不思議そうに清白が訊く。
「好き合っていれば元服前でもいいのですか?」
蕗子はしばし清白を見た。斜め後ろに無表情の穿拓がいる。蕗子は清白から目線を逸らさず答えた。
「ダメです」
「何故なのでしょう」
「子供は性交よりやるべきことがたくさんあります。学問とか武道とか、それこそ歌に踊りに、遊ぶのも子供の仕事です。いいですか。イヤだろうけど思い出してください、いったん性交に取りつかれた大人の末路を。あなたに迫ったあの人たちを」
清白の目を食い入るように見つめ蕗子は迫る。清白はたじろぎ眉を顰める。
「子供の脳はとても柔らかい。経験したことを何でも吸収してしまう。だからこそいろんなことを学ぶチャンスなのです。そこに性交という強い身体的精神的刺激を与えてしまうと、人によってはその快楽に溺れてしまう者もいる。大人になって覚えた者でもあのような暴挙に走ってしまうのに、まだ自制心も未熟な子供が知ればいわんをや。大きな心の傷となるだけです」
うむと無い顎髭を撫でながら蕗子は頷く。
清白はうつむいたままぽつりと漏らした。
「では、貴人はわたしを好いてくれていたわけではないのですね……」
「あれは暴力です」
蕗子は言い捨てた。もしかすると清白は少し貴人とやらに期待していたのかもしれないと蕗子は思った。清白が貴人のことをどうとも思っていなかったことは事実だろう。気持ちが悪かったというのも事実だろう。だが閨で言われた睦言をよすがに、その辛い夜を耐え忍んだこともまた事実なのだろうとも思う。
「性依存症者は平気で嘘をつきます。甘言で子供を丸め込むことなど屁の河童です。性交するための虚妄などいっくらでも吐けます」
「『せいいぞんしょうしゃ……』」
「誰彼構わずところ構わず何かにつけて性交のことばかり考えてるバカどものことです」
「バカ……」
呆然とする清白に、蕗子は容赦なく指を突き付けた。
「いいですか、あなたは暴力を振るわれたのです!もっと怒っていいんです!なんなら蹴っ飛ばして逃げて来てよかったんです!はっくんは何も悪くない!これから自分の人生を生きる!勉強をいっぱいして、遊んで、好きなことをして生きなさい!」
「好きなことをして……」
蕗子は穿拓を振り返っても叫んだ。
「あんたも!」
気を抜いていた穿拓は「わっ」と驚いた。
BLのためと美奈子は言っていたが、それだけではないことは蕗子にもわかっている。だがそれを、どうわかりやすく栞に伝えるか、美奈子もさんざん悩んだに違いない。
もしここに来る直前、美奈子と栞とあんな話をしていなければ、今こうして清白と穿拓を前にしてどんな態度が取れただろうと蕗子は思う。
黙って話を聞いて、ものわかりのいいばあさんでいただろうか。
抱きしめて慰めて一緒に泣いて同情して、でも朝になったら腫物を扱うような態度を取ったのだろうか。
そう考えると、いささか表現の癖が強くはあるが、自慢の嫁と孫娘だなと感謝する蕗子であった。