気がつけば還暦・1
最近は猫も杓子も異世界転生。
大手書店の本棚の前で、蕗子は「はあ……」とため息をついた。
何が楽しくて皆さんそんなに悪役令嬢になってんのかしらね、他にネタないのかしら。
ついつい口うるさい老婆心が心の中で疼く。
あれよね、これは作者の怠慢じゃなくてきっと出版会社の怠慢なのよね。1個売れると柳の下のドジョウ狙って「ああいうの描け!」って発注出すんでしょ?どうせ。あるわよね、テレビ局でも映画界でも。「ああいうのじゃないと出版しない!」って。怠慢よねえ~、傲慢よねえ~、お金出す方のね~。はー、やだやだ。創作業界の気概はどこに行ったのかしら。
深く怒り皺を眉間に寄せて、蕗子は1冊を手に取る。『島流しは不可避です!退治に行った鬼ヶ島で溺愛されちゃいました』
昔はさ、どんな作品にも尖った発想があったものよ。他の誰も書いていない話を作り出そうってさ。読者も、あ、これ、あの先生のに似てる!絶対影響受けてる!って、ちょっとでも似たようなもんなら半笑いで読んでたものよ。それが今じゃこの書店の本棚の中。
蕗子は本を戻しつつ、端から端まで背表紙を確認する。
異世界異世界異世界異世界異世界転生転生転生グルメ転生異世界異世界転生異世界転生グルメ……。
……はぁ~……。老眼に厳しい長ったらしいタイトルの嵐……。いや、いいのよ……、面白いんでしょうから。売れるんでしょうから。それが読みたいんでしょうから。なにより。
コンプライアンスだのポリコレだので表現にものすっごく気をつける時代になっちゃったもんだから、容易に設定を現代に持って来ることもできなくて異世界に逃げる気持ちもわかる。わかるけれども。
「BLもとうとう異世界転生か……」
だったらもう素直に時代ものでよくありません?奥さん?などとため息をつきながら、蕗子はやっぱり今日も買っちゃうのである。
「おばあちゃん、またBL買ってる」
「うるさいよ。中学生がこんな棚のとこ来ちゃいけません。あっち行きなさい」
中学1年生の孫娘の栞がさもありなんという顔で、平積みのBL本を手に取った。蕗子は栞に聞かせないよう口の中で舌打ちをする。一体誰に似たのか、祖母相手に説教とはなんと生意気で容赦のないこと。
「たまにはTLも読みなよ。面白いよ?」
「12歳の子供がTLとか読むんじゃないよ、恐ろしいわね」
R指定が小うるさい昨今。コンビニでエロ本すら扱われなくなって久しいというのに、いったいこの小娘はそんな情報どっから手に入れてくるのやら、嘆かわしい。
ふたりの男に背後から手を取られ腰を抱かれている表紙の異世界BL本『溺愛召喚!皇帝陛下はチートよりヒートをご所望』を手に持っているくせに、蕗子はネット社会の恐ろしさに背筋を震わせる。
「大丈夫だよ。ちゃんとママの検閲入ったやつしか読んでないから」
「美奈子さん!?どういうこと!?美奈子さん!?」
一体親はどういう教育しているんだと蕗子は焦って嫁を呼ぶ。蕗子の声に気づいた嫁が、ひょっこり棚の裏から顔を出した。
「お誕生日プレゼント、決まりました?お義母さん」
「しーちゃんにTL本許可してるって本当!?」
「そーなんです!お義母さん!聞いて聞いて!金時しぐれ先生、とうとうTLでプロデビューされたんですよ!」
嫁の美奈子はたちまち顔を輝かせると、じゃーんと効果音付きで両手で本を顔の横に掲げた。
幼顔の女子が頬を扇情的に赤く染め、長身のイケメンに服の裾から手を差し込まれバックハグされている表紙の構図とそのタイトルに蕗子は見覚えがあった。
「『別有天地』……。あれ、これ……」
「そうなんです。しぐれ先生がオリジナル同人誌で出された最初の作品のリメイクなんです」
嫁の美奈子は人差し指を立ててしかつめらしく言う。
「でもあれ、BLじゃなかった?」
表紙の構図も変わってないが、人物はふたりとも男子だったはずだ。蕗子は露骨に眉を寄せた。
「そうなんですよね~。なんか編集者が、話の内容がすごくいいから読者層を広げたいって無理言い出したらしくて、異性間恋愛にして描きなおしてくれって言ったそうですよ」
はあ……と眉を八の字に下げてため息をつく美奈子に、蕗子は少し驚いて言った。金時しぐれ先生と言えば、CPにもこだわりが強く、物腰柔らかくとも自分の解釈は曲げないことで有名な先生だったはずだ。
「先生、よく了解したわね」
「そりゃーもー先生、そんなことするぐらいならデビューしません!って抵抗なさったそうですけど、なんかね、いろんなファンレター貰うとBLだけにこだわってたら自分の表現したいことがなかなか伝わらないのかもって思いなおされたそうですよ」
同人誌即売会でも大手と言われた金時しぐれは二次創作の人気もさながら、オリジナル同人誌でも長蛇の列を作り、プロデビューを今か今かと待たれた作家のひとりだった。なかなかデビューしないのは、その作風のきわどさにあるとも言われ、一部熱狂的なファンからは、その味が損なわれるのであればいっそプロデビューなどしないで欲しい、私たちファンが一生支える!とまで言わしめたほどの人気であった。
その彼女の代表作のひとつ『別有天地』は、幼馴染のふたりが心無い大人から受けた性被害をきっかけに、心と身体の成長、そして情愛とは何か、性愛とは何かを問いかける青春ラブロマンス物語である。
発表と同時にファンの間では涙涙の大嵐で「これはもはや文学!」とまで叫ばれていた。
「もう20年も前の作品だけどねえ」
「そうなんですよね。表現がちょっと古いんですけど、そこがまた今どきの子には新鮮なのかもしれませんね。ファッションみたいに一周回ってカッコいいみたいな?」
「そう考えると、金時しぐれ先生っておいくつよ」
「私よりいくつか上だったから、40?ぐらい?だったと思います」
顎に人差し指を置き、上を向いて美奈子は考える。
「ずいぶん遅咲きだねえ」
「先生ほら、お堅い職業でいらしたから、先々のことを考えて、充分お金貯めてからデビューしたいっておっしゃってました」
「手堅い」
蕗子は素直に感心する。今どきのオタクは夢ばかり見ているヤツなどいないのであろう。地道にまず自分の生活の基盤を支え、なおかつ推し活に金がかかることがわかっているからきちんと稼ぐことも怠らない。そのためには実入りの良い仕事に就かねばならぬからと、己を研鑽することも手を抜かない。
いつかはオタクを卒業しなきゃいけないと、世間にはオタクであることを隠して生きていた蕗子の時代とはまるで違うのだ。
まったく、肩身の狭い思いで生きていたあの時代を返して欲しいと蕗子はたまに歯ぎしりする。この時代に生まれていれば、もうちょっと違う生き方もできたかもしれないのに。
「おばあちゃん、こんなのどう?」
孫の栞がロングヘアのクールビューティーな美女がイケメン男子高校生に細い腰を抱き寄せられている表紙の本を持ってきた。
『騎士団長のオレが目覚めたら地理の女教師!?深夜はふたりだけで剣の指南』
「これだったらちょっとBL要素もあるんじゃない?」
飄々と言う12歳の孫娘に目が座りっぱなしの蕗子であった。