73. この声は……?(ベアトリクス視点)
私は今、結界の間の扉の前に立っています。
……ここからは私が王都を守る結界を支えるのです。
体調は万全とはいえないかもしれませんが、もう覚悟はできています。
扉に手をかけ、開け放ちます。
「お父様!」
「おお、ベア! 来てくれたか」
お父様は昨日と同じように結界石に手をかざしていました。
でも、ご表情は全く同じというわけにはいかないようです。
私に笑顔を向けてはくれましたが、隠しきれない疲れがにじんでいて、ぎこちありませんでした。
「お父様、お辛そうでいらっしゃいます。早く交代いたしましょう」
「……ふ、さすがにお前にもそう見えてしまうか。このくらい平気だ、と言いたいところだったが」
「そんなことを言っている場合ではありませんわ。お父様は早くお休みください」
お父様のもとまで急いで、いつでも交代できるように魔力を準備します。
そして、鮮やかな赤色の光を放っている結界石をふと見ると、昨日と様子が違うことに気がつきます。
「お父様? これは……結界石に亀裂が?」
「ああ。ドラゴンの力が強すぎるのか、数刻前に亀裂が入った。結界石から伝わってくる衝撃もだんだんと大きくなっている。だが、なにぶん結界石を使うのは初めてなのでな、勝手が分からん。なにが起こってもおかしくはない。こんな場面でお前に交代などさせたくはないのだが……」
「ですが、お父様も限界なはずです。私の役目は私が果たします!」
「情けないことだがその通りだ。だが、魔力を回復させ次第、すぐに戻る。急げば今から二つ鐘が鳴る前には戻れるだろう」
「いいえ、私の仕事は9の鐘が鳴るまでだったはずですわ。せめてそれまでは私にお任せください。本当なら、それですらほとんどお休みになれないのですから」
「……ああ、分かった。頼むぞ」
本当に分かってくださったかは分かりませんが、返事はしてくださいました。
それにしても結界石に亀裂が。
……どうなってしまうのでしょうか。
でも、考えても仕方ありません。私は私にできることをするだけです。
「では、交代いたします」
昨日教えてもらった通りに魔力を集めた手をお父様の手に重ねます。
数秒してからお父様はゆっくりと手を引き抜きました。
私から結界石に微量の魔力が流れ出します。
これでお父様は自由に動けるようになりました。
「ベア、一番大切なことを伝え忘れていた。もし何か不測の事態が起こったら、すぐに逃げるんだ。結界を張り続けることよりも、お前自身の命を第一に考えるんだ。お前は頑張りすぎる」
「ですが……」
「悪いがこれは命令だ。仮に結界がなくなったとしても、あるいは下の兵たちで被害なく切り抜けられるかもしれん。だが、お前が死んだときに生き返らせることは絶対にできぬのだ」
「……分かりました」
お父様の言っていることはその通りだと思います。
ですが、万が一結界がなくなったら、たくさんの人が亡くなる可能性が高くなります。
私はそうなってほしくはないです。
「ああ、頼んだぞ。では、少し行ってくる」
そう言ってお父様は結界の間から出て行かれました。
ここからは何が起こっても助けてくれる人はいません。
ここには私一人しかいないのですから。
そう考えると部屋がもっと広く感じてしまいます。
そのとき、かざしている右手に衝撃が走りました。
痛くはありませんが、ビリッとなにかが流れるような気分の悪くなりそうな感覚です。
そして王都を丸く覆う結界のちょうど天頂のあたりで、ドラゴンが結界にはじかれたことがはっきりと私にも分かります。
これがお父様のおっしゃっていた結界石と魔力でつながるということなのでしょうか。
結界にドラゴンがぶつかるたびにこのような衝撃が?
……心の休まる暇はなさそうですわね。
それに、お父様は衝撃が次第に大きくなっているともおっしゃっていました。
これ以上のことが起きるのでしょうか……?
魔力を流し続けて、かなりの時間が経ったと思うのですが、まだ一つも鐘が鳴っていません。
その間にも数回の衝撃があって、その度に心がざわついてしまいます。
ドラゴンは結界を破ろうとしているのでしょうか。
もし結界が破られたらどうなるのでしょうか。
悪いことばかりが頭に浮かんできます。
考えても仕方ありませんのに。
その後も何度か結界石から衝撃が伝わってきます。
確かに少しずつ衝撃が大きくなってきている気もします。
……いえ、気のせいかもしれません。
……よく分からなくなってきました。
私は今、ちゃんと魔力を流せているのでしょうか。
さらに時間が経過します。
私が交代してからの間だけでもドラゴンは何回結界にぶつかってきたのでしょう。
諦めたりはしないのでしょうか?
私とお父様と交代しながら結界を張るといっても、いつかは限界が訪れてしまいます。
だから、どちらにしても今夜には結界を解除するとお父様はおっしゃっていました。
その時もまだドラゴンが王都を狙っていたら?
第一魔法師団が帰還するとはいえ、本当にそれでどうにかなるのでしょうか。
結界とつながっている今、ドラゴンの強大な力が少しは感じられます。
私にはその力に人間の力が届くようには到底思えないのです。
……ダメです!
今は余計なことを考えているときではありません。
まずはここで私が結界を維持しなければ、今すぐにだって侵入されてしまうかもしれないのです。集中しなくては。
それにしても、どのくらいの時間が経ったのでしょうか。
おかしなことを考えていたからか、鐘の音を聞き逃してしまったようです。
それから何度目の衝撃だったのでしょうか。
ひと際大きな衝撃が響きました。
私の身体全体がビクッと跳ねて鼓動が加速します。
……こわい。
自然と涙がにじんできてしまいます。
と、そのとき——
時を告げる鐘の音が、ついに私にも聞こえてきました。
そろそろお父様がお戻りになる時間でしょうか。
「——ぇ」
……え……?
……7の鐘……??
産まれてからずっと、この鐘の音を聞いて生きてきたのです。
聞き間違えるはずがありません。
目にたまっていた涙が零れ落ちるのに気がついたときには、もう止まらなくなっていました。
——私は鐘の音を聞き逃してはいませんでした。
結界の維持をするのに私に割り当てられたのは9の鐘までの鐘の音三つ分です。
ここまで時間が経つにつれて、だんだんと心がすり減っていくような思いでした。
ですが、なんとか自分なりにこらえて頑張ってきたつもりでした。
それで時間の感覚が鈍ってしまったのでしょう。もうすぐ交代の時間かもしれないなどと考えてしまいました。
それがまだ鐘一つ。
たとえ、お父様がどんなに無理をなさったとしても、お戻りになるのはまだずっと先です。
ふっと足から力が抜けて崩れ落ちそうになりますが、結界石にかざしている右手とは逆の左手を台座について、なんとか転倒は避けます。
ですが、左手一本では支えきれず、そのまま台座に身体全体を預けるようにもたれかかってしまいました。
台座に預けた頭のすぐ隣では結界石の赤い輝きが私の顔を照らします。
そうしている間にも、涙は私の目から勝手に落ちていってしまいます。
……だけど、右手だけは結界石から離しません。
……ただ、こんな状態でお父様との交代まで結界を維持することができるのでしょうか。
ふと、別れ際にお父様に言われた言葉が思い返されます。
『不測の事態が起こったら、すぐに逃げるんだ。結界を張り続けることよりもお前自身の命を第一に考えるんだ』
……逃げるなんてことできるわけありません。
ただでさえお父様は私の身を案じて、ごく短時間しか私に結界を任されませんでした。
お父様は昨日のお昼から今朝まで、ずっとお一人で支えてきたのです。
私はたったこれだけの時間でこんなにもつらく感じているのに、お父様はどのような思いであの長い時間耐え続けたのでしょうか。
そして、先ほど私が結界の間の扉を開いたときには笑顔を作ってくれすらしました。
お父様のお心に思いを馳せると、ますます涙が止まりません。
それなのに、どうして私が弱音など口にできるでしょうか。
それに、この程度のことは不測の事態でもなんでもありません。
お父様は、私なら鐘三つ分くらいは任せられると信頼していたからお願いされたはずです。
だから、私が今弱気になっているのは、私の心が弱いからなのです。
身体に力が入らなくても、幸いなことに魔力の制御はできています。
なら、まだ私にはここでやるべきことがあります。
それからどれだけの時間が経ったのでしょうか。
もはや私に分かることは、未だに8の鐘が鳴っていないということだけです。
ドラゴンの攻撃は激しくなっているようで、衝撃がやむ気配はありません。
右手から身体に衝撃が伝わるたびに、全身が震えあがり奥歯がカチカチと音を立て鳴りやみません。
それに、相変わらず涙も頬を伝って尽きることがありません。
このようなときにも関わらず、私の身体のどこにこんなに水分があったのだろうとはっきりしない頭でぼんやりと考えてしまいます。
お父様の命令にも従うことはできなくなってしまいました。
不測の事態が起こったら逃げろ、と。
……もう身体に力を入れることができません。
身体を預けている台座から一歩でも離れたら、そのまま地に伏せてしまうでしょう。
ここにきて私にできることは、この無限にも思える時間が終わるまで、右手を結界石にかざすことだけとなっていました。
ですが、その無限の時間にも唐突に終わりがくることになります。
——それも最悪の形で。
その瞬間、これまでに感じていたものとは比べ物にならないほどの衝撃が私を襲いました。
そして——
ビシッ
目の前の結界石が不吉な音を立てると同時に、さらに亀裂を深く刻みます。
——あ、ああ、ダメです! やめて!!
私の言葉にならない願いも虚しく、全体に無数のヒビが入ります。
ピシピシ
結界石と魔力でつながっているからでしょうか、分かってしまいます。
もう止められないと。
パリーン……
最後の衝撃を感じた瞬間に結界石は粉々に砕け散ります。
そして、そこで私とのつながりも切れてしまいました。
「あ、あぁ……」
あまりのことに何も考えることができません。
何か行動しないといけないのに身体も動きません。
と、頭上で轟音が響き、塔全体が大きく振動します。
とっさに上を見ると、煙で視界が悪い中でも、ところどころ隙間から空の青が目に映ります。
——屋根が——
ほどなくして煙が晴れると、上空に視界を遮るものは何もなくなっていました。
——ドラゴンの影を除いては。
やがてその影が大きくなっていき、ついに私の目の前に降り立ちました。
「ぁ——」
膝から完全に力が抜けてぺたりと座りこんでしまいます。
接近して改めて分かるその大きさと威圧感が私の心を折ってしまったかのようです。
恐ろしいのに目を逸らすことができません。
こんなものに太刀打ちできる者などいるはずがありません。
皆さん逃げてください……!
グォオオオオッッ!!
劈くような咆哮が耳に届き、私は自分の死を理解しました。
静かに目を閉じ祈ります。
ごめんなさい、お父様。そして、どうか王都の皆さんだけでも————
バシッッッッ!!
ひと際大きな衝突音がして、それから全ての音が消えました。
……音のない時間がどのくらいだったかは分かりません。
遅れて私は、私自身には衝撃も痛みもないことに気がつきます。
……え? いったい何がどうなって——
「大丈夫?」
私の音のない世界を破ったのは、女の子の優しい声でした。
ベアトリクス「……リコ……?」
次回からリコ視点に戻ります。
さて、王女様のピンチに駆けつけた女の子はいったい何者なのか。(棒)
どうぞお楽しみに!




