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アヒルの子

作者: 落水彩

 しとしとと、空から雫が落ちてくる。辺りは若葉の青々しい匂いから埃が混じった空気に変わっていく。


「降ってきたな。」


 ツルツルした黄色い体とオレンジ色のくちばしが、雨を簡単に弾いていく。水分を含んで重くなった草をかき分ける足は、折れてしまいそうなくらい細い四本足だった。草が顔に張り付くのを鬱陶しく思い、小さな舌打ちが漏れる。雨宿り先を探す彼が通った後にはゴム製の匂いが残った。

 すれ違う小動物や鳥が思わず彼を二度見した。それもそうだ。形はアヒルのようだが、それでいてどこからでも目立つような向日葵よりも明るい黄色だった。おまけに爪楊枝のような足が四本。バランスも何もあったもんじゃない。へんてこなイキモノは奇異の目で見られることも気にせず、ズンズン進んでいく。


「お、こんなところに……?」


 雑草が生い茂る場所から、濡れて硬くなった砂地に出ると、小さな白い卵がひとつ、ぽつんと落ちていた。


「おーい、誰か、卵忘れてるぞ。」


 アヒルが大きな声で呼びかけてみても、雨音が不規則に地面に落ちる音の他には、なんの返事もない。卵をくちばしでちょんと突いてみると、ゆりかごのように揺れたが、やがて動かなくなった。ざらついた表面に頬を擦り付けると、少し冷たくなっていた。一人ぼっちになってからしばらく時間が経っているように感じた。


「全く、親はいないのか?」


 アヒルはため息混じりにつぶやいた。ここまで放置されていると、たとえ元気に生まれたとしても、すぐに他の動物に食べられてしまうだろう。アヒルは可哀想に思いながらも、それが自然界の厳しさであることを知っていた。彼が卵のそばを通り過ぎようとした瞬間、パキッと、音が聞こえた気がした。アヒルは何か踏んだかと足元を見たがそれらしい木の枝などは見つからなかった。さらにパキリと、今度は雨音の中ではっきりと横から音が聞こえた。アヒルはなんだか胸騒ぎがして視線を移すと、


「おいおい嘘だろ。」


 ざらついた卵には先ほどまでなかったヒビが入っていた。だんだん広がっていく割れ目から、アヒルは目を離せなかった。そして、


「ママ。」


「違うよ。」


 割れた殻から白玉のような顔が覗いた。黒ゴマのようなつぶらな瞳は目の前の黄色いトリをしっかりと捉えている。

 小鳥は体を左右に振って殻を弾くと、よちよちとしたおぼつかない足取りでアヒルにくっついた。そしてもう一度「ママ。」と鳴いた。


「おいくっつくなって、どう見てもお前のママじゃないだろ。毛並みもくちばしの色も違うし。それにどっちかというとパ——」


「ママー。」


 聞く耳を持たない雛は、毛並みも温度も全然違うラバーダックに体を擦り付けている。


「だから違うって!」


 アヒルは思わずくっつく白玉を振り払うと、簡単に吹き飛んでしまった。


「あ、」


 雛は思い切り尻餅をつくと、何が起こったかわからず目をぱちくりとさせる。その体制のままゆっくり顔を上げると、


「ママ?」


「なんだよ、そんな目で見るなよ。」


 罪悪感はあった。いくら自然界が厳しいとはいえ、生まれて間もない雛を突き飛ばしてしまうほど大人気ない自分を恥ずかしく思った。それでもプライドの高い彼には、雛相手でさえ謝る言葉は出てこない。


「ママ……?」


 だんだん白玉の眉尻が下がっていく。ママと鳴く声も不安が混じる、か細い声だった。


「おいおい泣くなよ?」


 アヒルは気がついたときから一人で生きてきた。遠い昔に温かい水槽に浮かんでいたような気がしなくもないが、はっきりとは覚えていない。なぜかお腹も空かないが、自然界で過ごす上で特に困ることはなかった。他の動物たちと関わることなく生きていくことができたがゆえに、正しいコミュニケーションの取り方がわからない。そんなアヒルはこんなときまで自身の体裁を保とうとしてしまう。


「ま、ま、ママーー!」


 ポロポロと溢れる大粒の涙は、二つ並ぶ黒ゴマより大きく、頬に水の跡を作っていく。


「ああわかった! もう俺がママでいいから!」


 アヒルは咄嗟に答えて、白玉と目線を合わせた。


「ママ!」


 先ほど泣いていたのが嘘のようにぱぁっと晴れ顔になると目をキラキラと輝かせた。




「マーマ、マーマ、マーマ……。」


 先ほどの雨もすっかり止み、透き通る青には綿飴のような雲がぷかぷかと呑気に浮かんでいる。


「ああは言ったけど、やっぱり同族で暮らすべきだよな。俺の身体、こんなだし。」


 水たまりをふみふみ遊ぶ白玉を見守りながらポツリとつぶやいた。発言には責任を持つべきだとアヒルの中の善心が訴えるが、こんな体では虫の捕まえ方一つすら満足に教えられないことはわかっていた。勢いに任せてママになるなんて言うもんじゃなかったと、既に後悔していた。空を見ると、ふわふわの雲が、だんだん自分の脳内に浮かぶ悩みに見えてきて顔をしかめた。


「ママ!」


 能天気に遊んでいた白玉がいつの間にかそばに来ていた。くちばしには小さな青い花を一輪咥えていた。


「どうした、それは食べもんじゃないと思うぞ。」


 白玉は顔をきょとんとさせ、瞬きを二、三度をすると青い花をアヒルの頬に押し付けた。


「なんだ、」


 いらないよこんなの、と言いかけて、先ほど突き飛ばした時の目を思い出した。


「……ありがとう。」


 アヒルが花を受け取って頭に乗せると白玉は満足そうにまた「ママ。」と鳴いた。心なしか空に浮かぶ雲も薄くなっていた気がした。




 辺りが柔らかなオレンジに包まれ出した時、隣を歩く白玉から大きな雷のような音がした。


「うわびっくりした、なんの音?」


「ママ……。」


 八の字の眉毛は切なく、今にも泣き出しそうな顔をしている。その表情からひもじさが十分過ぎるほど伝わってきた。


「お腹空いたのか?」


 まだ言葉の意味がよく理解できないのか、表情を変えずにこちらを見つめている。


「うーん、俺は虫とか獲ったことないし、木の実にも詳しくないからなぁ。」


 こんな知識で子育てなんてまずできるはずもないと、アヒルは頭を抱えた。目立つ体のせいで他の動物と群れるどころか、避けられてきたため、ずっと一人だった。しかし、アヒルはそんな中で他と違う特別感に満足していた。自然界で唯一無二の色と形は誰にも真似できない。どんな酷い言葉を浴びせられても、心が折れることはなかった。むしろ、天敵に見つからないようコソコソ行動したり、群れで行動する動物を下に見ている節があった。そんな環境が、彼を孤高の狼へと形成させた。

 せめて、せめて相談相手くらいは作っておくべきだったかと後悔したときには遅かった。


「とりあえず、手当たり次第に食べられそうなものを集めるか。」


 くちばしを使い、慣れない穴掘りをすると、水分を含んだ土からうにょうにょとミミズが顔を出した。生臭さがくちばしにつくことに抵抗を感じながらも、土に顔を埋める。


「あれ?」


 先ほどまで顔を出していたミミズはもうすでに土の奥深くまで逃げたようで、どれだけ掘っても追いつくことはできなかった。


「くそっ。」


 アヒルはだんだん意地になり、手当たり次第に穴を掘った。モグラ叩きのように、掘って見つけては突いて、を繰り返す。勢いよく突いて、くちばしに石が当たった時は意思とは関係なくピィ、と高音が鳴った。


「ママ?」


 と、不思議がる白玉に目もくれないで地面を掘り続けた。アヒルの顔が赤く染まったのは、夕陽のせいばかりではなかった。

 日も沈み出し、辺りがだんだん暗くなってきたころ、アヒルは元の色がわからないくらい茶色い泥で汚れていた。今の姿なら、自然界に馴染めそうだった。


「お前が、晩ご飯だ!」


 アヒルはヘトヘトになりながらも、ミミズが隙を見せた瞬間を逃さなかった。そして、ズルズルと引き摺り出すと、雛が食べやすいように何度も突いて細かく刻んだ。


「ほら、これならどうだ?」


 うとうとしていた白玉はその声を聞いて我に返り、アヒルの元へ駆け寄った。小さなくちばしでミミズをさらに突くと、あっという間に平らげ、電池が切れたように眠りについた。




 その後もアヒルは何度も失敗と成功を繰り返しながら、様々な虫や木の実を白玉に与えた。どうやら好き嫌いが激しく、せっかく苦労して手に入れても、硬い虫や木の実はあまり食いつきが良くなかった。



 

 そうして一週間が立った。雛はスクスク育ち、出会った時より一回り大きくなった。動きの遅い芋虫などは、アヒルの手を借りずとも捕まえられるようになっていた。


「この様子じゃ、あっという間に俺を抜いちまうんだろうな。」


 雛は一心不乱に芋虫にくらいついている。アヒルの独り言も聞こえていないように感じた。


「ママ!」


「はい、ごちそうさまね。」


 お腹いっぱいになった雛は満面の笑みをアヒルに向けた。一週間前に比べて整った毛並みを見て、アヒルはふと雛が成長する姿を想像した。


「……。」


 その姿はどこかで見たことがある気がした。うんうんと頭を悩ませていると、バタバタと大きな羽音がした。ふと顔を上げると、純白の羽にしなやかな細長い首の鳥が五、六匹の群れを作って羽ばたいていた。


「そうか……。」


 アヒルは雛と群れを交互に見比べ、一人納得するように大きく頷いた。それを不思議に思った雛は首を斜めに傾けた。




 ——あいつは間違いなく白鳥の子供だ、今はまだちんちくりんだが、大きくなればきっと立派な鳥になる。

 アヒルは雛がぐっすり寝ている隣で、そんなことばかり考えていた。今はこのままで良くても、大きくなるにつれきっと自分との違いに段々気がついて、それから、本当のママじゃない事を理解するだろう。そうなれば、ひどく悩み苦しむことになるのは……。

 寝息を立てて横になる雛にまだ名前すらつけていない自分が、親になる資格なんて、覚悟なんてない。アヒルは、まだ明けない夜に溶けるように、暗い感情をため息と共に吐き出した。

 



「なあ、湖に行ってみようか。」


「ママ?」


 翌朝、二羽は草むらをかき分け、涼しい風が吹いてくる方へ歩みを進めると、大きな湖に辿り着いた。湖畔からは、青い山が鏡のように水面に反射しているのが見えた。逆さの山が歪んだかと思うと、四羽の白鳥が優雅に泳いでいるのが目に入った。


「ほら、見えるか? あれはお前が大きくなった姿だよ。首も長くて毛並みも整っていてかっこいいな。」


 そう言ってアヒルは湖に飛び込んだ。できた波紋は白鳥のそれと交わる直前で姿を消した。雛も慌てて湖に飛び込むと、小さな足を一生懸命動かし、アヒルに着いていった。


「あら?」


 先頭を泳ぐ白鳥が二羽に気づき体を向けた。雛はアヒルに背中をそっと押されると、その勢いのまま白鳥に近づいた。


「ママ?」


 雛は興味津々に白鳥の顔を覗き込んだ。ニコリと微笑んだその白鳥の後ろから、さらに声がした。


「なんだ、新入りか?」


 うーん、と眉をひそめながら辺りを見回す。白鳥たちは雛を円の中心に置くように囲んだ。不安そうな雛の様子を見て、先頭の白鳥は声をかけた。


「どこから来たの? お名前は?」


「ママ、ママ……ママ?」


 自分では上手く状況を説明できない雛はママを頼ろうと後ろを振り返ったが、アヒルの姿はどこにもなかった。




「これで良かったんだ、これで……。」


 アヒルは水から上がると、とぼとぼと細い四本足で歩き出した。さっさと離れなければならないのに、足取りが重かった。後悔はないはずなのに、目の前がぼやけた気がした。


「別に悲しくなんかないさ、あいつにとってそれが一番だったわけだし、そもそも拾って一週間だ。愛着なんて湧くわけない。それにもともと拾って後悔してたのは俺自身だろ。全然平気、平気だってば。」


 そうやって自分に聞かせた。黙ってしまえば、悲しくなってしまうような気がしたから。


「何やってんだろ、俺は。」


 全て見苦しいほどの言い訳だということは、アヒル自身が一番よく理解していた。そんなことをしても何にもならないのに、自分の選択を正当化させるために、ただ納得させるために一人つぶやいた。

 下を向くと、一輪の花が目に入った。花になんて興味はないのにアヒルは思わず足を止めた。


『——ママ!』


 そう鳴いていた白玉の顔が浮かんだ。アヒルは思わずその花を摘んだ。手元に置いておきたいと思ったから。花をくわえたまま、またゆっくりと歩き始めると、


「ママ!」


 後ろからものすごい勢いで小さなふわふわが突っ込んできた。


「うわ、なんでお前ここにいるんだよ。」


 びっくりしたアヒルは花を落とし目を丸くした。雛はぴょんとアヒルの背中に飛び乗ると、思い切り頭を突いた。


「あ、痛っ、そんな突くな、怒ってるのか? なんで、」


 そう問いかけたところで攻撃をやめると、


「ママ……。」


 うるうるした瞳でアヒルの顔を覗き込んだ。


「そうか……俺が悪かった、ごめんな。」


 こういう時に包み込める大きな翼があればと、初めて自分自身の不便な体を恨んだ。


「群れで暮らす方がお前にとって幸せだと思ったんだ。」


 それを聞いた白玉は背中から降りると落ちた花を咥え、背伸びをしてアヒルの頬に体を擦り付けた。

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