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みんな変身しています

作者: 畦道一歩


  「みんな変身しています」     畦道一歩


 講義の開始時刻が迫っていた。教室はC館の3階の奥にある。息を弾ませ階段を一気に駆け上がった。普段なら開け放たれたドアから聞こえてくるはずの学生たちのおしゃべりはぴたりと止んで、不気味に静まり返っていた。

 教室へ一歩入ると、

「わ、わ、わーぉ! ど、ど、どうー、なってんだ!」

 心の中で絶叫した。

 そこには八百屋、果物屋とペットショップが混在したような景色が広がっていた。受講生たちは全員、野菜や果物、その他の生き物に変身していた。そのうちの多くのものはスマホの画面に目を落としていた。

学生の身に何が起こったのか。教授は考えようとしたが、右脳と左脳をつなぐ思考回路はプチンと切れてしまっていた。

 ただ、

「カ、カ、カフカの、ぎゃ、ぎゃ、逆バージョンかぁ?」

 と、うわずった蚊の啼くような声をもらした。

 教授は怖くなり、教室から後ずさり、ドアをそろりと閉め、廊下へ出た。その行動を好奇な目で追いかける者は誰もいなかった。階段の踊り場へ戻った教授は、そんな自分が恥ずかしくなった。落ち着け、落ち着くんだ。状況をしっかり見て、適切に判断しろ。自分のクラスだ。職場放棄は許されない。そう心を強くして、ドアをゆっくりと開け、内を窺いながら、もう一度、教室へ入った。状況は変わっていなかった。

 教卓の前に立っても、空気はそよとも動かない。まだ、多くの学生はスマホの画面に目を落としたままであるが、なかには不思議そうな表情でこちらを見ている者もいた。さて、どうするかな。ドアの横には学内専用の電話機が設置されている。これを使って、事務局へ「助けてくれ!」と連絡すれば、きっと誰かが飛んで来てくれる。でも、この状況を自分のせいにされるかもしれない。(くび)になるかも。ひょっとして警察沙汰になるかもしれない。世の中はこんなスキャンダルを好む。そう考えると、暗い気分になった。

とはいえ、教授の脳ミソは職業病ともいえる思考癖の塊でできている。バッグから講義ノートを取り出しながら右脳で感じ、左脳で考える回路をすばやく繋ぎ、高速回転させた。

 教授には、これまでにも不可解な出来事に遭遇してきた経験値があった。とりわけ若い学生たちを相手にしていると、ときどき摩訶不思議な体験をさせられる機会があったではないか。そう思うと、気持ちは少し落ち着き、冷静沈着に記憶の襞を開き、考えてみる余裕ができた。

 たとえば、大学院生のころ、こんなことがあった。半年だけ非常勤講師を引き受けた某大学での大教室における講義では、教室のはるか最後列の席に座る男女はトイレットペーパーをターバンのように頭に巻き合ってケラケラと笑い転げていた。また、講義に飽きたのか、相撲をとる男子学生もいた。非常勤講師とはいえ、教員の責任と義務として注意をするにはしたが、この狭い空間に数百人も詰め込めば、なかにはこんな場違いな学生もいるわな。元より、勉強をしたくて、大学へ進学してきたわけじゃないようだし。こちらの対応を変えよう、と。

 が、今回はその比ではない。異次元空間への滑落? 地球外生命体による電磁波攻撃? 太陽フレアの発生。いや地球が、いやいや銀河系がブラックホールに吸い込まれたほど様子が違う。これは、まさかSFか? この状況に、自分自身心当たりがないかどうか思案してみた。幾つか思い当たることがあった。

 常勤の教員になりたてのころ、学生の前に立つことに過度な緊張感を覚えたことがあった。これは、まだ拙いであろう講義内容への自責の念と、一片の人見知りによるものであった。そんなときは、手の平に学生と書いて舌でペロッと舐めて解消しようとしていた。これは幼いころに今は亡き祖母から伝授された、〝まじない〟であった。まったくの気休めではあったが、それでも不思議と、気持ちはいくらか安らいだ。

 こんな心境を先輩教員に話すと、思いっきり目尻を下げて、

「学生なんて、イモさんやカボチャさん、ゾウさんやカバさんだと思って、講義をすればいいのさ」

 と、あり余るほどの皮肉を込めた言葉を返された。

 ものは試し、この言葉をすんなりと受け入れてみた。目の前に座っているのは、イモさんやカボチャさん、ゾウさんやカバさんたちだ。そう念力をかける目で見ると、緊張感は少し和らいだ。そんな者たちは、わたしが教えたいことには、何も反応してこない。一方通行でいいのだ。

 事実、あの日から30数年過ぎたが、今もってしっかりした建設的な質問をしてくれる学生に出会ったことがない。教室には坊主が一人読経をするお堂と同じ空気が漂っている。

 そんな自分の念力がようやく通じたのだろうか。今じゃ、もうそんな念力に頼らなくてもいいベテラン教員になっているのだが。


 教授の脳裏にはカフカの世界しか浮かんでいなかった。

 まずは全員にスマホを仕舞うよう注意した。次に、この状況について、あれこれ確認してみよう、と最前列に座るキューリに声をかけてみた。

「今日は、みんなどうかしたの? いつもとぜんぜん違う雰囲気だけど」

 キューリはギュと眉間に皺を寄せて答えた。

「そんなことないですよ。僕は毎週、この席で受講してますよ。みんなもそうだと思いますが」

 その声に教授は聞き覚えがあった。確かぁ、この学生は2年生だ。顔は覚えているが、名前は……? 思い出せない。でも、なぜキューリなんだ。

 その斜め後ろに座っている真っ黒なナスビにも声をかけてみた。

「なんか変じゃないですか。今日は」

 ナスビも訝るような声音で答えた。

「えっ? 何が変ですか? 教室に学生がいて、先生がいて、黒板があって。いつもどおりですよ」

 この声にも聞き覚えがあった。確かぁ、ショートヘアーで黒縁のメガネをかけている3年生の女子学生だ。でも、今日は、なぜナスビなんだ。

 すでに授業の開始時刻は過ぎていた。

 教室の真ん中からやや左寄りの机ではスズメ(雀)が三羽チュンチュンチュンと鳴きはじめた。

「おい。そこの君(?)たち、静かにしなさい。落ち着かないな~。私語厳禁だぞ。『雀の山上講』ってか」

 教授は思わずことわざを口にし、語気を強めて注意した。

 チュンチュンチュンはすぐに止んだ。

 視線を最後列に移すと、横一線に並んだウマ(馬)が5頭いた。名前は分からないが、いつもあの席に座る5人組みだな。どのウマもドアがゲートに見えるのであろう、開ければ、一気に教室から飛び出してしまいそうな、そんな形相でドアを睨みつけている。決して今、ドアを開けさせてはいけない、と教授は心の中でしっかりと鍵をかけた。

 その前方の窓側の机にはヘビ(蛇)いた。まばたきすることなく隣のカエル(蛙)をじっと見つめている。カエルは身動き一つしない。まさに『ヘビに睨まれたカエル』であった。

(やぶ)をつついて蛇を出す』のもなあ、とためらわれたが、不憫なカエルを気づかい、教授は声をかけた。

「窓側の後ろから2列目のあなた、よそ見ばかりしてちゃだめでしょ」

「あぁ、すみません。つい隣りが気になるものですから」

 この声はラグビー部に所属する彼だな。ということは、隣のカエルは……「隣の学生が怖がって、萎縮しているじゃないか」と確認してみた。

 ヘビではなく、カエルはすぐに、

「先生。怖くなんかないです。萎縮なんてしてません。わたし、いつもこんな感じです」

 と女性の弾んだ声を返してきた。

 やはり、あの女子学生はヘビのガールフレンドだったか。なるほどぉ。先週も並んで座っていたっけな、と教授は二人の関係を理解した。

 廊下側の前から4列目には、ぽつんとネコ(猫)が座っていた。やはり、孤独を愛する生き物のようだ。教授は指を差し、声をかけた。

「この列の4列目の君。じっとうつむいたままだけど、大丈夫かい?」

 ネコは顔を上げブルンと身体を震わせ、びっくりしたという目で、

「どうもないですよ。大丈夫です」

 と答えた。

 その声に、あれは確かぁ、4年生の男子学生だ、と教授はその顔を思い出した。

「そうか。大丈夫ならいい」

 と愛想笑いを返した。


 学生たちは誰も自分の身に起こったことに、まだ気づいていない。教授は改めて、教室内をぐるりと見回してから、目で出席者の数を数えてみた。42人いた。これまでに指名した者以外の大まかな内訳は次のようであった。キツネ、ドーベルマン、チワワ、アホウドリ・・・など多種多彩な生き物に混ざって、パプリカ、ダイコン、ゴボウ、レモン、ビワ・・・などの野菜や果物が座っていた。

 なんとまあ個性豊かに色いろと変身したものだ、と感心し直してから、この謎だらけの状況をどうにかして解きほぐしてやろう、と意気込み教授は全員に声をかけた。

「君たちは、何かぁ、深刻な悩みごとでもあるのかな? 今日はいつもと様子がまったく違うぞ。そこで、だ。講義を進めるよりも、君たちのこの講義に対する感想を聞かせてくれないかな。質問や意見でもいいよ。アクティブ・ラーニングの一環だ。今後の講義に活かすから」

 と言い終わると、講義ノートをバッグにしまい、また教室をゆっくりと見回した。

 なお、アクティブ・ラーニングとは教員が一方的に講義を進めるのではなく、その途中で学生の意見や質問に答えながら進める双方向の講義形態のことである。

 狙ったわけではないが、気忙(きぜわ)しそうにソワソワしている一頭のウマと目が合った。

「はい。そこの君」教授は指名した。

 ウマは答えた。

「この講義は5時限目ですよね。講義を早めに終わってもらわないと、バイト先に遅れてしまいます。毎週、息せき切って、鼻の差で出勤時刻きっかりに駆け込んでいます。開講曜日と時間帯、なんとか変更してもらえませんか」

 鼻の差? やはりウマだな。そんな理由があったのか。それでいつも浮ついた雰囲気で受講しているんだな、と教授は納得した。

「残念だけど、世界は君を中心に回っていない。君の都合には合わせられないよ」

 教授は問答無用とばかりに突っぱねた。が、『馬耳東風』。ウマはドアを凝視するばかりで、聞いているふうではなかった。

 次に、トマトと目が合った。

「講義内容はそんなに難しくないですが、先生はときどき学生に問題を解かせたり、正解を答えさせますよね」

「うん、そうだね。そのほうが講義にも集中してもらえるし、教育効果も上がるから」

 優しい声を返した。

「でも~、わたし、よく答えさせられています」

「えっ? そうだったかい?」

 こりゃあ、意外だったという顔をして見せた。

「なので、十分に理解していないときは、ドキドキしどうしなんです。できればもっと他の人に答えてもらってください」

「そうだったかぁ。それじゃあ、赤くなるのも無理ないよな」

「ぜひ、他の人にも、お願いします」

「いつも黒板をしっかり見て、説明もしっかり聴いているようなので、つい答えてもらっていたよ。でも、あまり間違えたことはないよね。うん、分かった。次からは他の学生も当てるから」

 どの教師も基本的にはできる学生しか当てないようだ。そうでないと授業が進まないので。これは猛省すべきことだな。教授は、ごめんね、の意図を込めて、笑みを浮かべて応えた。

「じゃ、君」と教授は次の学生を指差した。

「あぁ、僕もいまの人と同じで、いつ当てられるんだろうと、いつもヒヤヒヤしながら受講しています。すみません」

「謝ることはないよ。そっかぁ。それじゃあ、君は青くなるよな」

 教授は(『トマトが赤くなると医者が青くなる』ってか)ブロッコリーにそう返した。

 視線をその後方へ移すと、教授はグググッと眉間に皺を寄せた。あぁ、あれはなんだぁ。机にグタ~ッと突っ伏している。え~~っと、いたなあ、あんな動物がぁ、木の上でぇ……ああ、ナマケモノだ。

「君! 君! そこのグタ~ッとしている君だよ」

 教授は苛立(いらだ)って、指先で突くような仕草をした。

「あ~ぁ、はい~。僕ですかぁ」

 ナマケモノは寝ぼけたような顔を上げた。

 それは、名前は知らないが、いつも気だるそうにボーッと講義を聴いている2年生の男子学生であった。

「(やはり、彼だったか)眠てたのかい? みんなから感想や意見を訊いているんだぞ」

 教授は語気強く言った。

「えっ? 感想、意見ですか? なんだったけ」

 ナマケモノはあたふたと挙動不審な動きをした。

 教授の口から思わず、「『怠け者の足から鳥が立つ』」ということわざがもれた。

 訊いても無駄、時間がもったいない。

「じゃ、そこのさきほどの2人、どう感想は?」

 教授は、視線だけで語り合っているヘビとカエルに声をかけた。他意はない。

「この授業では微分をよく使いますよね」

 ヘビが爬虫類特有の冷たい目で答えた。

 微分とは、ある変数の動きが他の変数に与える効果を測る数学の一つである。

「経済学を勉強する上では欠かせない数学だからね」

「僕は微分そのものが嫌いです」

 ヘビは吐き捨てるように言った。

「でも、演算はできるんだろ?」

 教授は確認したくて訊き返した。

「演算はできますがぁ、微分って……」

 ヘビは口をつぐんだ。

「嫌いとか言わずに、演算ができれば、それで十分だよ」

 教授は助け船を出した。

「絶対、嫌いです。だってそうでしょ。2変数だと、偏微分をしますよね」

 ヘビは奥歯を噛みしめ、力を込めて言った。

「うん。多変数関数だから」

「その一方だけを微分して、他方は定数とみなすなんてことが嫌いです。定数は微分すると、ゼロにされちゃいますし」

 嫌い度120%であることが、ありありと伝わる言い方だった。

「でも、全微分をするときは2つの偏微分を加算するよね」

 教授は機転を利かせ、また助け船となる発想を提案した。

「しかし、カッコでくくって、離れ離れにするじゃないですか」

 ヘビは顎が外れるほど大きく口を開けて投げ飛ばすように言い放なった。

「う~~ん。加算するから、いつも一緒に……」

 教授は(こりゃあ駄目だ~。気をつかってやったのに)天上を見上げて唸った。

 すると、カエルも加勢して、

「わたしも、まったく同じ意見です。偏微分なんて大嫌い!」

 しかたなく、教授は「分かった、分かったよ。じゃあ」と言って視線をネコに向けた。

 それに気づいたネコは答えた。

「僕は関数そのものが好きじゃないです。他と関係づけるなんて……むしろ一匹オオカミ的な考え方が好きですね」

「(ネコのくせにオオカミかい?)勝手に動く独立変数みたいにかい?」

 教授は訊いてみた。

「そうです。勝手に動いたことが他にどんな影響を与えたのかも知りたくないです」

「従属変数のことは気にかけない?」

「もちろん」

「じゃあ、さっきの微分も好きじゃないってことかな?」

「だい、だい、大嫌いーです。まず、連続関数でなきゃ、微分できないってこと自体が気に食わないです。どこかが途切れていても、その先を気にしないで一匹オオカミとして動けばいいじゃないですか」

 教授は呆れたという苦渋のこもった笑顔を返してみた。

 何でも許してくれそうな慈悲深い笑顔だと誤解したのであろう、その笑顔にだけ誘発されたのか、ネコは不満を口にした。

「先生は板書が多くて、ノートを取るのと説明を聴く作業を同時にしなきゃならないので、内容を理解するのが大変です。……こんな経済理論を習って、役に立つんですか」

(確かに、そうかもね。『ネコに小判』。でも)教授はニッと口元を歪めて「君は確かぁ、4年生だよな」と確認してから、少し声を荒げて続けた。

「ノートを取る工夫をするんだよ。板書したものをすべて写すから時間が足りなくなるの。要点だけを写せばいいんだ。説明したことを板書しているので、わたしが黒板に書く前の説明をノートに取るんだよ。どの科目もそうだ。工夫しなさい。工夫することも勉強だぞ。勉強をして役に立たないものなんてない……」

 言い終わらないうちに、どこからかクシュクシュという音が聴こえてきた。教卓の左、2列目にいるブタが、いや違う、え~っと、なんだっけ、あぁ、そっかぁ、イノシシかな?が鼻っぱしから出す音であった。耳障りで、なんとも気色悪い。誰かティッシュを手渡すものはいないのか。

 しょうがないという声で教授は、

「そこの茶髪のとんがった君。君だよ。君はどうだ。感想?」

 と指で突くように差した。

 とたんに、クシュクシュはミュートされた。

「僕も数式を解いたり、グラフを描くことは得意ではありません。とくに曲がったグラフを描くのは嫌ですね。その数式は見るのはもっと嫌いです」

 一途な物の言い方であった。だが、聞き覚えのない声だった。誰だ?

「曲がったグラフって、上にトツ(凸)とか下にトツとか?」

 教授は一応、訊いてみた。

「はっ、はい。そうだと思います。山とか谷を描くものです」

「それは2次関数だよ」

 思わず、語気が強くなった。

「そうでしたっけ」

「……じゃあ、必ず直線として描ける1次関数はどう?」

 唖然としつつも、教授は学力を確認してみた。

「直線ですか。直線なら得意中の得意です」

 やけに明るく弾んだ声が返ってきた。

「そんなに得意なの?」

「はい。自分は陸上部に所属してましてぇ」

「それがどうかした?」

「100メートル専門です。直線コースなら誰にも負けませんよ」

(やはり、イノシシだったか。『猪突猛進』)「よく分かったよ。ありがとう」

 なぜか教授は感謝の言葉を口にしていた。

 また、低くクシュクシュ音が聴こえてきた。

 イノシシから目を離すと、その後方左4列目に座るタヌキ(狸)が声を上げた。

「先生! この科目の単位認定率はどれくらいですか?」

 起承転結の転か? 結か? 教授はタヌキに身体を向けて、

「そうだな。毎年、若干、変わるけど、よくて6割、わるくて3割ってとこかな」

 と偽らざる歴史的事実を伝えた。

「えーっ。よくて6割ですかぁ。僕はこの科目の4単位が取れれば、卒業単位数を充たせます。来年度、就活を楽に進めるためにもぜひ単位をください」

(『捕らぬ狸の皮算用』)タヌキは明け透けにお願いしてきた。

 その周辺に座るゴーヤ、デコポンとアルパカ、インコたちは声を出さずに顔で笑って応えた。みんな『同じ穴の狢』か。

「う~ん、しっかり復習すれば簡単に取得できるよ」

 教授はお決まりの答えを返した。

 これにて一件落着、と思いきや、タヌキの左前方2列目に座る雌のキジ(雉)は顔の前で手を合わせ、拝み倒してきた。

「先生。わたしも単位が欲しいです。今年度中に40単位取得しないと、4年生になってからがキツイです。留年だけは……」

 その声はせっぱつまっていた。

 やれやれという表情をして(『雉も鳴かずば撃たれまい』)教授は、

「さっきのタヌキ君、いや質問への回答と同じで、よく復習をしなさい。定期試験については、とくに三年生と四年生の出来、不出来はチェックを厳しくしているから」

 と手綱を緩めることなく、あえて釘を刺した。

 その瞬間、タヌキとキジだけでなく、7、8個の首が大きく垂れた。きっと、3年生と4年生たちであろう。

 座席のほぼ真ん中には胸をピンと張ったタカ(鷹)がいた。

(あのタカは誰だ。正眼の構えだな)教授は声をかけた。

「真ん中のあなた。どう?」

 タカは自分ですか、と確認するふうに曲げた右手の人差し指を胸に向けてから答えた。

「わたしはこの講義の進め方、使う分析手法、板書の多さも苦にはなりません。もともと理系志望だったので、数的処理も得意ですから。講義の内容やレベル、評価のされ方についても不満はありません」

 最後の一言を、力を込めて言った。

 その声から教授はピ~ンときた。あの優秀な女子学生だ。確か、入学してから3年間、成績は学年でトップだったはず。さすがに賢い対応だな(『能ある鷹は爪隠す』)、と自ずと頬が緩んだ。

 タカから目を左に移すと、サル(猿)がいた。ニヤニヤしていて、まるで面白い知らせがあるのだけど、ちゃんと質問してくれなければ教えてあげない、という顔をしてこっちを見ていた。その目と衝突してしまい(サルかぁ。4年生だよなぁ)教授はしかたなく声をかけた。

「君。いつもニヤニヤしている君。質問、疑問、意見、何かある?」

「はい。僕はこの講義についてはまったく不満はありません」

 自信たっぷりに言い切った。そしてニヤニヤと顔の筋肉を動かした。

 教授は一瞬、口にしないでおこうと思ったが(君は、現状ではこの科目の単位は取れないよ)、そのニヤついた顔に苛らつき、含みをもたせた言葉を投げつけてしまった。

「君かぁ。これまでの小テストはできたかい? 自分で分かるだろ」

 サルはさっと顔色を変えて、うつむいた(『墓穴を掘る』)。

 良心が微かに咎められたが、これも一つの指導法だ、と教授は気合を入れ直して、視線をサルから右前の窓側に移した。そこには首を上下左右にキョロキョロと振っているニワトリ(鶏)がいた。思わず、「そこのニワト…」と出そうになる言葉を飲み込み「髪を鶏冠(とさか)のように赤く染めている君? 感想や意見、質問、何かないかい?」と指名してみた。

 ニワトリは首の動きを止め「なんでしたっけ」と逆に訊いてきた。

(あ~ぁ、4年生の女子学生だったか)教授は困ったという表情をして、

「あなたー、さきほどから、わたしが講義への感想や意見、質問をみんなから訊いていることを理解してるかい? 寝ていたわけじゃないでしょ」

 と、また訊いてみた。

「すみません。わたし集中力も記憶力もあまりなくて……」

 しぶしぶ答えると、また首を上に下に左に右に振りはじめた。

「(『鶏は三歩歩くと忘れる』)やれやれ、そうかい」と、教授は憮然(ぶぜん)とした顔を返した。

 それからタヌキやキジだけでなく全員にアドバイスしようと、声高に言った。

「成績評価うんぬんよりも、まずは毎週、必ず復習をすること。復習に力を入れなさい。理解することが大事だぞ。分かったかい!」

 誰からも反応がない。

「もういいよ」教授は一言強く突き放すよう口にし、説教じみたことを聞かせた。「君たちは2年生以上の学生たちだよね。1年生のときに『基礎経済学』で基礎理論を勉強したはずだ。必修科目の『経済数学基礎』だって履修しただろ。そこで、経済学で使う幾何学や数学、とくに微分、積分なんかは学習済みだろ。2年生からは専門科目が配当されているので、レベルは1年生のときよりも上がって当然じゃないか。講義を聴く力だって身に付いているはずだ。3年生と4年生、そうだろ」

 どの野菜や果物、その他の生き物たちも机を凝視したままピクリとも動かない。まるで『青菜に塩』。

〝動かずんば、動かしてみよう、・・・・・〟。よせばいいものを、つい本音の言葉を追加してしまった。

「大学という所は教員と学生が協力をして、世の中の役に立つなにか新しい知識を創る〝場〟なんだ。教員だけが勉強するんじゃなくて、君たちも自分で勉強をするのさ。自分でするから身に付く」

 そう諭したつもりでも、言葉は学生たちの頭上を素通りするばかり。塩をかけ過ぎちゃったかな、と虚しさだけが残った。教授は説教を垂れても無駄だ(『痩せ馬に荷が過ぎる』)、と心の中で猛省した。


 それにしてもさっぱり分らない。なぜ、学生たちは変身してしまったのか。この講義とはなんら因果関係はないように思えるのだが。そのヒントすら掴めない。これはカフカ(『変身』)と同じだ。主人公グレゴール・ザムザが虫(「毒虫?=フンコロガシ?」)に変身した理由は一切説明がなされていないし、どうすれば変身が解けるのかも書かれていない。ただ不条理が残るのみ。

 そこで教授はカフカから離れ自問自答してみた。もしかしたら、自分の学生に対する姿勢は間違っていたのかもしれない。学生を学生として見ないで、舐めていた(?)のかもしれない。その罪と罰として今、こんなトンチンカンな状況に直面させられているのかもしれない。それが根本的な原因なのか? 本当か? いや、そんなことはないだろ。進路に悩む者には親身に相談にのってきた。キャンパスライフに行き詰った者にはあらん限りの手助けをしてきた。講義では、つねに学生の目線、学力レベルに合わせてやってきた。厳しい言葉や成績評価は愛情の裏返しだ。それが災禍をもたらすとは、とうてい思えない。あ~ぁ、これでは堂々巡りだ。

 しかし、ちょっと待てよ。原点に立ち返って考えてみると、教育するとは「教えること」だけでなく、「育てること」でもある。「教えること」とは人間を「鋳型に流し込む」ことである。そのうえで、「育てること」とは人間をこの「鋳型から解放すること」である。

 定型化するという愚かな決めつけが世の中全体を悪くしてしまうことだってある。思い起こせば、自分も型にはめ込まれたくなくて、自由に思索活動のできる研究者になることを選んだではないか。平均化じゃない。何でもそうだ、世の中は強い個性を持つ先例のない例外からスタートするものだ。例外を認める、育てることから、個人も社会も成長するし、発展してきたじゃないか。

 学生自身が持っている弱みや強みに気づき、それを自分なりに伸ばせばいいんじゃないか。教師や周りはそれをそっとサポートしてやるだけでいいのではないか。彼ら彼女らの弱みや強み、もっと言えば人生そのものを教員ごときが変えちゃいけない。多くを期待しちゃいけない(『(やぶ)馬鍬(まぐわ)』)、期待するということはお互いを縛ることになる。人間としてもっと大事なことは 〝弱みや強みを認め、共に自由に生きること、を許しあうことだ〟 という結論に達した。

 何てことはない、これは亡父母からつねづね言われてきた言葉であった。〝相手の弱みを許す心を持ちなさい〟。そこでうんと努力して許してみた。確かに効果はあった。心地よい風が上から降ってきて、すっと冷静になれた。気分はとても晴れやかになった。

 ところが、教授がこう考え方を認識し直しても、学生たちそれぞれの目には、ライオン、ウサギ、パンダ、キリン、・・・と化した教授の姿が映ったままであった。

 教授とのやり取りのあいだ、学生たちは思い悩んでいた。

「先生の身に何が起こったのだろう。まさか、エイリアンに寄生されたとか……どう対応すればいいんだ?」

 が、不安と怖れでブチ切れた思考回路がつながることはなかった。(了)



参考文献。

多和田葉子編(2015)「変身(かわりみ)」『カフカ』集英社文庫、7~77頁所収。


付記。講義をしても反応がなければ、それはイモやカボチャを相手にしていることと同じ。他方、受講する学生たちは単位認定の易しい教員をウサギ、厳しい教員をライオンと見ている。これを物語にした。

 教育(を受ける)は自分を変身させる道具の一つである。受ければ、先例に拘らない発展的な自分なりの思考姿勢を養うことがきる。

 世の中、多様性が叫ばれても、先例の枠から出ることを怖れる輩が多い。まずは自分にはない例外を受け入れてみることである。例外にこそ個人や社会の発展となる種が隠れている。それを炙り出すのも文学や小説の役割である、と思う。

 なぜ、こんな文章を書いたのか。本文にあったように、講義に対する学生たちの反応が脳裏にあった。ただし、もっと深いところでは、現実の生活の中で、自分を変えられる、変えたいという欲求が強くなっていた。ネガティブ・ケイパビリティとでも言えようか。そんな自分の潜在的な発展可能性を可視化してみたかった、ということである。変身→変心。



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